『東京医労連OB会第6回福島連帯ツアー』
土曜日, 6月 17th, 2017鬼城竜生
『貧者の一灯』を灯すと云うことで出掛けるようになって、『訪ねることで支えたい』ということで今回6回目を迎えた。
今年の2日間の行程は次の通り。
❖第1日目(4月16日):新宿(8:00出発)→守谷SA休憩(8:45-9:00)→東海PA休憩(10:00-10:15)→四倉PA休憩・馬上氏乗車(11:05-11:15)→楢葉天神岬・昼食(11:40-12:20)→宝鏡寺・早川住職講話・富岡町見学(12:30-14:20)→富岡IC(14;40)→四倉PA休憩・馬上氏下車(15;20-15:30)→船引三春IC→田園生活館・宿泊施設(16:50)。
❖第2日目(4月17日):田園生活館(8:30)→三春滝桜(9:00-9:40)→三春町見学・自由民権コース及び各寺院の庭内(10:00-11:50)→昼食-割烹八文字屋・ほうろく焼(12:00-12:40)・一ノ蔵花かご・買い物(12:45-13:00)→阿武隈PA休憩(13:40-14:00)→大谷PA(14:50-15:00)→蓮田SA(15:50-16:05)→新宿着(17:00予定)。
①先ず細かに休憩を取るのは、エコノミー症候群を避けるのを目的としている。
②四倉で乗車する馬上勇孝氏(全労災福島支部OB)は、福島県医労連特別執行委員をされている人で、我々の福島行きには第1回から御協力頂いている方である。
原発災害から6年
馬上氏には毎回我々がバスの中で勉強するための資料を作製して頂いているが、同時に我々の巡回コースのチェックのために御自身で廻るという、御努力の提供を頂いている。
福島県民は2011年に202万人から2015年の国勢調査(10月1日現在で3ヵ月以上住んでいる人口)は前回比5.7%の減少率と全国2番目になった。2017年の人口推計は189万5080人と報道されました。国勢調査では双葉町・大熊町・富岡町・浪江町が人口ゼロ、飯館村は41人(特老入所者)、葛尾村18人(宿泊者)というのが現状です。帰還困難地域である富岡町・大熊町・双葉町の帰還意向調査では戻りたいとしたは15%台、戻らないと云う人達は双葉町で67.3%と高く、概ね60%台となっている。判断できないは富岡町で25.4%と高く、他の地域でも20%台の高率を示している。
福島県内の全原発の廃炉について、県内59市町村で県内原発の全基廃炉を求める意見書若しくは決議書を可決している。福島県も全基廃炉を求める請願を4度採択し、国や東電に原発の全基廃炉を求めている。県民の総意です。
今年の3月11日、東京で開催された東日本大震災の政府主催の追悼式で、安部首相は「原発事故」の文言を式辞で使わなかった。追悼式は震災翌年の2012年から毎年開かれ、今回が6回目である。5回目までは式辞の中で必ず振れていた。それが今回は全く触れなかったとされる。
ところで、この首相の意向に『忖度』したのが今村復興相である。福島第一原発事故で自主避難している人がいることについて、「本人の責任」などと述べた発言は取り消したが、自主避難者は、自己都合で避難したのだから、自己責任で対応すべきだというのは、首相の意向の忖度であり、彼はそう思っていると云うことだろう。しかし、どの様な形の避難者であれ、原発が弾けるという結果がなければ避難なぞしなかった。むしろ政府が安全だと云って線引きした結果を信じなかった。そこにこそ問題があると云うことだろう。眼に見えない放射能の存在を本当に信用させるのは、国=行政に対する信頼の問題である。 この原稿を書いている4月25日(火曜日)、23:00過ぎのニュースで、今村復興相が、福島に対する新たな無神経発現で遂に辞任したという話が流れてきた。
楢葉町の宝鏡寺に到着。住職の早川篤雄氏の話を聞くことになっている。早川氏はいわき市に避難していたが、現在は楢葉町の宝鏡寺に腰を落ち着けている人である。福島原発避難者訴訟原告団長として原発問題で闘っている人である。最も早川住職は、福島の原発導入問題が起きたときに、原発は危険だと云うことで、建設反対運動を行っていた人である。それだけに第一原発の事故に対する眼は厳しい。
政府は避難指示解除準備区域に指定されていた楢葉町を避難指示解除にしたが、安心して住めるようになった解除ではありません。除染は家の周り20mと道路の周囲だけ。インフラも全く不十分です。復興庁がアンケート調査をしていますが、直ぐに戻ると云っているのは1割前後しかいない。それも高齢者ばかりで、若い人や子供を持つ世代は殆ど戻らないと考えています。1割の人が戻っても、地域の集落、町全体は元の生活にほど遠い。
避難生活という地に足のつかない、先の見えない生活を4年半近く続けてきました。避難解除になっても現状では3・11前の生活とはほど遠い現状ですね。私は住職ですので戻りましたが、周囲で戻るのは2、3人です。これでは何ら希望は持てず、展望も開けません。
政府・東電は補償を打ち切ろうとしていますが、このままではこれまで以上の苦しみを強いられることになります。以前の生活に戻るまでの補償を要求しなければいけないと思います。
町に戻る人が少ないのは、町は依然として放射線に対する不安があるためと考えられている。町内の人は、「町民の不安を無くすためにも除染廃棄物の袋が山積みされた関係を解消して欲しい」訴えている。兎に角、直ぐ近くに"フレコンバッグ"に入れられた廃棄物の袋が山積みされた状況では、安心の保証はない。
例えば福島第一原発で廃炉作業に従事している人の被曝量は1ヵ月平均でどの位?→0.47mSv(2015.12.の平均線量)。これに対して「これはN.Y.と東京を飛行機で2.5往復したのと同じ被曝量」とする文言を紹介している本があるが、誰がN.Y.と東京を2往復するのか。全く意味のない内容を引き合いにして安全だという言い方は、何の安心の保証にもならない。
早川住職の話の中で、生活圏内の放射線量を測定いしたデータをグラフ化したものを見せて頂いたが、限りなく零になるのは、裁判所に足を運んだとき、原発反対の中央集会で東京に行ったときの測定値だと笑っていた。
講演後楢葉の天神岬に移動、一般財団法人楢葉町振興公社天神岬スポーツ公園内のサイクリングターミナルの食堂において"マミーすいとん定食《刺身》"を食べることになっていた。更に食事の後片付け無しで、楢葉町振興公社次長の渡辺正純氏から「原発避難から6年」と題してお話しを伺った。
宿泊施設のあるサイクリングターミナルの開設は楢葉地区にとって重要課題だと云うことで、体制の確立が急がれた。しかし、現在帰還者の多くは高齢者で、人の募集をかけても中々集まらない。偶に応募があると、日本語の話せない外国の方で、食堂を運営するのには不向きではないかと云うことになった。募集年齢を上げてはと云うことで、65歳にしたが来てくれない。遂には70歳まで引き上げたが、それでも来ていただけない。国が帰還可能と号令をかけても、6年という年月が、それぞれの移転先で生活が確立しており、働き手を確保するのが難しい状況にある。つまり通勤圏内に、多くの人達は戻っていないと云うことである。
津波によって親と一緒に住んでいた楢葉町波倉の家が破壊され、その家を壊すのに立ち会ったときには、胸に迫るものがあった等の話を伺った。だたそうは云っても天神岬スポーツ公園内にある手作りアイス店「ウィンディーランド」が6年振りに3月10日に営業再開したという明るいニュースもある。震災と原発事故の影響で休業していたが、今回リニューアルオープンした。お客は平日は100人、日曜日には300人が来るという。県外のお客さんが多いということからも、地元住人の帰還者が少ないという実態が解ろうというものである。
本日の宿泊地三春の田園生活館に向けて走る車内で、四倉PAで降りる馬上氏の最後の講演が行われた。今回馬上氏は富岡駅から富岡町経由で夜ノ森へ出て二中体育館の見学を計画していた。これは卒業式の最中に原発が爆ぜて、卒業式の飾りをそのままに避難した後が残っていると云うことで、それを是非見せたいと云うことだったが、この夜ノ森の桜並木について、今回300m位の距離で花見が出来る様にしたということで、車が中には入れなかった。夜ノ森はまだ立ち入りが自由に出来ない地域だけに、車を降りて、中学まで行くというのも遠慮させて頂いた。
四倉PAまでの道中、馬上氏は、更に調査の結果について御報告頂いたが、最後にいわき市白水町の楢葉町仮設住宅に帰住する方の声を紹介して頂いた。
元楢葉町波倉で家は福島第二原発の下にある集落でした。震災で殆どの家は津波で流されました。津波で8人の方が亡くなった。私の家は高台にあり、難を逃れました。この仮設に来るまで6回転居した。会津若松に居たが、雪と寒さで大変だった。いわきのここは暖かくて良い。波倉の家は65坪あり、部屋数は9部屋あった。家族は9人でした。田畑は3町歩で米を作り、野菜も作っていた。出稼ぎはなく、原発で10年働いていた。仮設は12坪で、全て座っていて手が届く住居です。現在、家族は3世帯別別に住んでいます。 2018年3月迄に此処を出なくてはなりません。この仮設には61所帯が住んで居したが、現在は20所帯になり、自治会も解散しました。元の波倉には戻れなく、新しく家を楢葉町に建てようと思っていますが、息子達は戻らないので、年寄り2人で住むことになります。妻は右手にリンパ腺があり、病院があるいわき市で暮らしたい。東電は安全・安心と云ってきながら事故を起こしても責任を取らない。
これが地元の人達を代表する意見ではないかと思われる。更には廃炉作業のための遠隔カメラ等での調査では、底の部分がどうなっているのか、未だにハッキリ捕捉できないで居る。
田園生活館に到着、昨年見ることのできなかった滝桜の状況を聞くと、三分咲き位と云うことでやや安心した。昨年は満開に近い状況で宿泊し真夜中に風の音で眼が覚めるほどの強風が吹き荒れた。御陰で翌朝は完全に桜は消えており、菜の花を見るだけに終わってしまった。
三春の滝桜については、エドヒガん系のベニシダレザクラとされており、高さ13.5m、幹周り8.1m、根回り11.3m。枝張りは東へ11.0m、西へ14.0m、南へ14.5m、北へ5.5mとされており、樹齢は1,000年以上と推定されている。花の見頃は4月中旬から下旬とされているが、自然のものである。この通りに行くとは限らない。紅枝垂れ桜の特徴として、小さな紅色の花を無数に咲かせ、滝が流れるように見える所から滝桜という名前で呼ばれている。
樹齢1,000年以上の推定値について、木の年輪を見ないでどう数えたのか、昨年売店の方にお尋ねした所、文献的な検証というお話しであった。1532-1554年(天文年間)に滝美濃によって植えられたという説があり、1836(天保7年)に発行された滝佐久良の記に江戸時代の三春藩主秋田氏が入部した1645(正保2年)には既に大木であったという記載がされているという。
大雑把に1,000年というと、1017年(寛仁元年)藤原道長が太政大臣になった年と云うことで、この辺で既に芽生えて10年以上は経っていたと云うことではないか。今年は8分咲きの桜が見られたと云うことで、参加者全員が満足していた。
滝桜の後、三春町に移り、地元九条の会の方々に御案内を頂き、町中の桜や寺院、自由民権コースを見学して歩いた。
このコースの中の臨済宗妙心寺派福聚寺(ふくじゅじ)がある。この境内に咲く桜を"福聚桜"と云い、滝桜の次の有名な桜だという。更に福聚寺の住職・玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)氏は、2001年に「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞した作家であると紹介されている。漫才師のピース又吉直樹氏が、「花火」で芥川賞を受賞した御陰で、芥川賞受賞が大騒ぎされたが、玄侑氏の場合、余り騒ぎにはならなかったと見えて、記憶になかったが、第二作で芥川賞を貰ったと云うことは、純文学の作家としては、才能豊かな方だと云うことだろう。
今回の2日目の企画は、三春の町の寺院等の境内に植樹された桜を見ながら三春と自由民権運動との係わりを見てみようというものである。
三春町歴史民俗資料館-自由民権記念館-に寄らせて頂いた。時間の関係で自由民権記念館のみを拝見した。話の中心は、明治維新の時、三春藩を脱藩していた河野広中等の努力により無血開城が出来たという、その広中さんが中心の話で、後は三島通庸の批判的な意見だった。
明治時代の初め、政府は鹿児島県・山口県など明治維新を成し遂げた地域の人々を中心とする専制府だった。
明治政府は社会の仕組みを変える改革を次々に進めたが、人々の生活は良くならなかった。また当時の日本には国会・憲法がなかったために、国民の自由を守り、権利を主張する場はなかった。この様な時代の中で自由民権運動は、人々が国政に参加し、自由と権利を獲得することを目的として始まり、全国的に広がった。
三春町出身の河野広中は、多くの同志達と民権運動に参加、三春に政治結社「三師社」
青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設し、数多くの運動家を育てた。また、関東・東北地方では例のない政治雑誌「山陽雑誌」を発刊した。三春は東北地方最大の自由民権運動の中心地となった。河野等の活動は、福島県内に止まらず、我が国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、党の活動にも積極的に係わったとされる。
明治15(1882)年の秋に起こった喜多方事件を好機として明治政府の力を背景とした福島県令 三島通庸は大弾圧を強行し、河野広中・田母野秀顕等、三春町出身者10名を含む58名の運動家が逮捕された。この事件は「福島事件」と呼ばれ、逮捕された人々は国家に対する罪を犯したとして裁判にかけられ、河野・田母野等10名が有罪とされた。
福島事件以後、自由民権運動は全国的に激化した。明治17年栃木県令になっていた三島通庸を暗殺すべく、茨城県の加波山で挙兵決起することを決めた福島県内の自由民権運動家は、僅かに16名しか居なかったが、その中5名が三春出身者だったという。この無謀な行動は結局失敗に終わるが、一方で、これらの運動の高まりから、明治政府も国会の開設、憲法の発布を検討するようになった。
福島・加波山事件を通じて多くの県内自由民権運動家が逮捕・処罰された。その中で三春出身者が多数を占めたことから、三春町が自由民権運動に積極的に係わったとして知られるようになったという。
面白いのは三島通庸の評価。説明を聞く限り、三春の国事家に対する弾圧を忌避して余り評価は高くない。但し、道路を作ったことに対しては、現在も利用されている基幹道路であるとして、それなりの評価を与えている。
ところでこれが山形県になると、道路ばかり作りたがる県令とい揶揄は聞かれるものの、今も重要な役割を持つ道であり、最初の市民病院を作った等の評価はしていた。
自由民権運動もさることながら、普通の家の庭に、片栗の花が咲いているというのには驚いた。片栗はそれほど丈夫な植物ではなく、うっかりしていると消えに無くなってしまうという、厄介な花だが、それが2軒の並んだ家の庭に何気なく咲いていたというのには驚かされた。更に桜についても、吉野桜というのではなく、枝垂れ桜か多いというのも、この辺りの気候風土を表す特徴かもしれない。
ところで今回、天神岬スポーツ公園内のサイクリングターミナルの食堂で食べた"すいとん定食"、子供のころ散々喰わされたものと比べたら、出汁もすいとんを作る粉も、中の具も段違いで、比較のしようがないものになっていた。地元の主婦達が郷土食として開発したと聞いたが、これならば今の人達にも受け入れられる食事になっているのではないかと思った。
田園生活館の晩飯は昨年に比べると美味しくなっていたという声を、何人かの参加者から聞いた。酒飲みの場合、酒の摘まみの代わりにおかずを食べるので、余り重い料理は向かないが、話を聞いていた女性陣も頷いていたところを見ると、それほど酒を呑まない女性陣にも、満足戴ける料理を用意してくれたということの様である。これはあるいは2年連続した泊まったと云うことの宿側の配慮か、あるいは千年を超える命を保ち続ける滝桜の御利益かもしれない。
昼食は三春町の割烹八文字屋と云う所にお願いしていた。八文字屋は奥州三春の味名物油揚げほうろく焼を売りにしている所である。なんせ昼食200人迄収容可と云う所が、団体客の好みと云うことだろう。
三春の滝桜も、原発事故から6年も経つというのに、まだ観光客は、旧に復していないと聞く。その意味で云えば、この油揚げほうろく焼について、紹介するのも幾らかは役に立つかもしれない。
三春は昔から寺院料理である豆腐料理が発達し、油揚げとなり、庶民の生活の中で、重要な位置を占めるようになっていた。
その昔、藩主秋田氏三代輝季公が、現在の滝桜の地に鷹狩りに向かい、昼食時に庄屋の女房が、油揚げを焼、差し上げた所、輝季公が殊の外賞味されたという郷土史の逸話から
八文字屋先々代が考案した油揚げほうろく焼は、春は蕗の薹味噌、夏は山椒味噌、秋は柚味噌と、四季折々の風味豊かな郷土料理として、素朴な味が愛されているとされる。
料理は油揚げの一辺に切れ目を入れ、中に小口葱を詰める。フライパンにサラダオイルを多めに入れ、両面をこんがり焼く。
簡単に油揚げと書かれると、関東流の薄い油揚げのイメージを持つかもしれないが、関東で云う厚揚げである。しかも三角形に作ってあり、食いつきやすい形をしていると云える。燗酒の当てとして食べたが、なかなかのもので、昼酒は酔いが回るので、軽く仕上げたが、その気にさせる料理だった。
ところで油揚げほうろく焼の説明書の中に「三春は昔から寺院料理」がと云う記載が見られる。寺が多くない所で寺院料理が発展するわけはない。庭の桜を拝見するために幾つかの寺院をお尋ねしたが、どこのお寺でも、「御朱印」を頂ける雰囲気がなかった。神社も含めて、御朱印が戴ける神社仏閣が決まれば、御朱印を頂戴する旅人が増えることは間違いと思うがいかがだろう。
御朱印は写経を納めて、その認証に頂くものと云われており、ただ書いて貰うということは信心ではないと云われるが、御朱印を戴くために、あちらこちらの神社仏閣を御参りに行くことで、自ずから神仏に関心を持つようになり、それなりに理解を深められると考えている。
形式に拘ることなく、その当たりは自由でいいのではないか。信じる信じないは、個人の心の問題であり、手を叩いたり、手を合わせたりという形の中に信心が住んでいるわけではない。
(2017.5.4.)