『福井-あわら温泉行』
土曜日, 6月 17th, 2017鬼城竜生
後ろ髪を捉まえられるのを嫌がっているわけではないが、我がクラスは毎年クラス会を開いている。1回は東京近郊で日帰り、2回目は一泊で遠出をするという方式で、繰り返している。
今回は一晩泊まりで出かける回で、幹事が引っ張り出したのが福井県に行くという企画である。11月14日(月)-15日(火)の両日が旅行日で、あわら温泉駅(芦原温泉駅)に13:30に集合というものである。後から乗車する新幹線の列車番号と客車を指定してきたが、原則は現地集合である。
但し、全員が指定の電車に乗ることが出来、無事、芦原温泉駅に到着することが出来た。取り敢えず駅前の食堂で蕎麦を手繰り、お待ち頂いていた貸し切りの京福バスに乗車、本日の計画である、東尋坊、丸岡城を見学し、その後、本日の宿泊施設『まつや千千』に行くことになっていた。
最初に到着した東尋坊は、波の浸食によってカットされた断崖絶壁が続く奇勝地で、三国町の海岸線約1kmにわたり続くと云われている。「輝石安山岩の柱状節理」という、地質学的にも珍しい奇岩は、国の天然記念物に指定されている。しかし、東尋坊は、TVの探偵もので、犯人が最後に追い詰められて、長々と犯罪の経過を解説する場面で使われているため、見慣れていると云うことであまり感動はしなかった。但し、船に乗って、海から見上げれば、感動するんだろうと思ったが、なんせ足が弱って居るため、下まで降りる根性はなかった。
丸岡城(霞ヶ城)については、何じゃろなという思いでいたが、「一筆啓上」で知られている城ということだった。徳川家康譜代第一の功臣で鬼作左の勇名を轟かせた本田作左衛門重次が陣中から妻に宛てた「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」と書き送った話は有名で、文中のお仙は嫡子の仙千代のことで、後に福井城主松平忠直に仕え、数度の戦で手柄を立て丸岡城六代目の城主となった本多成重のことであるとされる。この書簡碑は天守閣の石垣の東北端に建てられている。
本城は昭和9年に国宝に指定されたが、昭和23年福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。現在、再度国宝の指定を受けたいという運動をしているようである。
一筆啓上については、石碑が縁で1993年にスタートした「日本一短い手紙文コンクール」を実施している。一筆啓上賞に付いては、全国から応募があるとされている。入賞作品の一部は、一筆啓上茶屋横と本丸への登り階段脇掲示板に展示されていた。
所であわら温泉は、元々湿地帯であったところに、明治16年堀江十楽の農民が、灌漑用の水を求めて水田に井戸を掘ったところ、約80度の温泉が湧出したのが始まりだとされている。翌明治17年には何軒かの温泉宿が開業し、湯治客を泊めるようになり、明治45年に旧国鉄三国線が開通して以降、温泉街として発展した。その後、福井大震災(昭和23年)、芦原大火(昭和31年)など度重なる震災を乗り越え今日に至っているという。
宿の名前の「まつや千千」については、松の木が生き生きと育つと云うことと、数がとても多いということから、四季を通して変わらぬ緑が続くように、長く続く旅館と云うことを象徴する命名のようである。部屋の掃除、風呂の掃除は行き届いており、出される料理も朝晩旨いものを出してくれたが、量の多さは年寄りの客には向かない程の量が出されて往生した。
翌朝、先ず越前竹人形館を目指した。越前竹人形は、もとは竹籠や花器を作る事を稼業としていたが、昭和20年代に師田保隆・三四郎兄弟が、竹籠・花器を作った際の廃材がもったいない、なにか再利用できないかという遊び心で作り始めたのがきっかけだと紹介されている。初期のころは子供の玩具みたいな物を作っていたようであるが、昭和30年 富山博覧会出展をきっかけに、人形を中心に製作し現在に至っているという。
しかし、一般人に広く知られるようになったのは、福井県生まれの水上 勉が書いた小説『越前竹人形』によってであると思っている。実際に人形館で見た『人形師”黎明”の作品』は竹でここまで出来るのかと思わず見つめてしまう作品になっていた。
続いて福井県立恐竜博物館に寄った。此処は70歳以上は無料と云うことで、全員が無料と云うことで、金にならない客が10人を超えて入場した。福井県立恐竜博物館は、黒川紀章建築都市設計事務所の設計による建物で、恐竜に関する国内最大級の博物館であるとされる。銀色に光るドームの内部にある展示室は、「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3つのゾーンから構成されており、地下1階から螺旋状に上がることで、各ゾーンを効率的に観ることが出来る様になっている。4,500m2という広大な展示室には、43体の恐竜骨格をはじめとして千数百もの標本の数々、大型復元ジオラマや映像などを見ることができる。子供から大人まで楽しんで学習できると共に、研究者も満足できる学術的に裏付けされた展示をめざしているとしている。
子連れで来ていれば、子供は絶対に駈けずり回ることになるのではないかという迫力に充ちた展示物で、足の便さえ良ければ、もっと見学者が増えるものと思われた。更に野外恐竜博物館専用バスで往復1時間の距離にあり、化石発掘体験広場があり、子供達に化石発掘の体験をして貰うにはベストの環境だと云える。
本日の昼食は永平寺で摂ることになっており、永平寺に向かった。曹洞宗大本山永平寺は今から約770年前1244年(寛元二年)に道元禅師によって開かれた座禅修行の道場と紹介されている。境内は三方が山に囲まれ、大小七〇余りの建物が並んでいるとされる。
道元禅師が正伝の仏法を中国から日本に伝え、瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広め、曹洞宗の礎を築かれたとされる。この二人を両祖として釈迦牟尼仏とともに一仏両祖(いちぶつりょうそ)として仰ぐとされている。
お寺の説明はさておくとして、門前のモミジの黄葉から始まって、境内の彼方此方で見られる黄葉は驚くべき色感を持って迫ってくる。京都の"イロハモミジ"は将に見事な紅葉を示すが、永平寺のモミジは全て黄葉であった。バスガイドの話では、永平寺のモミジが黄色に色付き、赤くなって落葉すると雪になると云っていた。更にガイドさんが力説していたことに『コシヒカリ』は福井で出来たお米ですと云うことであった。
ところで、葉の変色について、葉に含まれる色素として緑色のクロロフィル(葉緑素)、黄色のカロチノイド(カロチン類とキサントフィル類)がある。クロロフィルの量ががカロチノイドよりもずっと多いため、黄色はめだたず葉は緑色に見える。秋、気温が低くなると葉のはたらきが弱まり、クロロフィルは分解される。そのため、クロロフィルにかくされていたカロチノイドの色がめだって黄色になる。
一方、植物は葉を落とすための準備を始める。葉柄の付け根にコルク質の離層がつくられ、物質の行き来はここで妨げられる。そのため葉の中の物質は茎に移動できなくなり、光合成で生産された糖は葉に留まることになる。紅葉する葉では、この糖から赤い色素アントシアニンができて葉は赤くなる。葉はやがて、離層のところで切り離され落葉する。
アントシアニンの合成には、温度と光の条件が重要である。1日の最低気温が8℃以下になると紅葉が始り、5-6℃以下になるとぐっと進むといわれている。鮮やかに紅葉するには、日中の気温は20-25℃で夜間は5-10℃になり昼夜の気温の差が大きいこと、空気が澄んで葉が充分日光を受けられることや、大気中に適度な湿度があって葉が乾燥しないことなどが必要だとされる。
(2016.12.8.)