沖縄探訪-但し那覇の一部
土曜日, 4月 8th, 2017魍魎亭主人
『波上宮』
沖縄は今回で二度目だが、最初の時は三十代で、沖縄に住んでいた大学の同級生に誘われてのものだった。その友人は現在電話連絡も取れなくなっており、大体沖縄に住んでいるのかいないのかさえ解らない。
そこで友人への連絡は諦めて、東京に戻る前に、一ヵ所だけ寄り道をしたいと考えていたのがホテルの近くにあるはずの『波上宮』を訪ねることであった。最初は"はじょうみや"等と適当に呼んでいたが、実際は『波上宮(なみのうえぐう)』と呼ぶのが正式な名称であった。波上宮は沖縄総鎮守である。近代社格制度では、官幣小社に列格され、現在では神社本庁の別表神社に指定されているとされる。那覇港を望む高台の上に位置し、琉球八社の一つで、全国一の宮会より琉球国新一の宮に認定されているとされる。
御祭神は『伊弉冉尊 (いざなみのみこと)』、『速玉男尊*(はやたまをのみこと)』、『事解男尊*(ことさかをのみこと)』とされているが、伊弉冉尊以外の二神は伊弉冉尊から派生した神である。
別鎮斎(べつしずなり):『火神*(ヒヌカン)』、『産土神(うぶすなのかみ)』、『少彦名神(すくなひこなのかみ)(薬祖神)』とされているが、別鎮斎についてはハッキリした意味は分からない。
*速玉男尊:伊弉冉尊が吐いた唾から生まれた神とされている。
*事解男尊:その後を掃き払って生まれた神。
*火神:沖縄で古代より受け継がれてきた民間の信仰。ヒヌカンとはカマドの火の神様。
*少彦名神:日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子と され、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
波上宮の発行する三つ折りによると、創始年は不詳であるが、遙か昔、洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まるとしている。波上宮の御鎮座伝説に『往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な"ものを言う石"を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが、里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城(はなぐすく)とも呼んだ》に至った時に神託があった。即ち、「吾は熊野の権現(ごんげん)なり。この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った』と云う。
以来、中国・南方・朝鮮・大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたという。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位せしめ、「当国第一の神社」と尊崇された。
明治の御代になるや、同二十三年官幣小社に列格し、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、神域の結構を見るに至ったが、先の大戦で被災した。戦後は、昭和二十八年に御本殿と社務所が、同三十六年には拝殿が再建された。そして平成五年、平成の御造営により、御本殿以下諸社殿が竣工。翌年五月、諸境内整備が完工したとされている。
神社の建物としては新しい事になるが、戦前の神社の建物を見てみたかった。現在の建物は、他府県の神社と比べてみると、幾つかの点で大きく変わっていた。先ず狛犬が狛犬ではなく、シーサーが両脇を固めていた。更に神社の建物も、やけに赤が目立つ色に充ちていた。
オオゴマダラ(大胡麻斑・学名 Idea leuconoe)
鱗翅目タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類。白黒のまだら模様が特徴的な大型のマダラチョウで、蛹が金色になることでも知られている。前翅長7cm前後、開長は13cmに及び、日本のチョウとしては最大級である。翅は白地に黒い放射状の筋と斑点がある。ゆっくりと羽ばたきフワフワと滑空するような飛び方をする。その飛び方と羽の模様が新聞紙が風に舞っているように見えることから、『新聞蝶』と呼ばれることもある。東南アジアに広く分布し、日本では喜界島、与論島以南の南西諸島に分布する。分布域では平地から山地まで生息し、季節を問わず繁殖するので1年中見ることができる。成虫の期間も長く、羽化してから数ヶ月、条件がよければ半年ほど生き続ける。
狭い場所でも生活環が成立するため飼育しやすいチョウの一つで、各地の動物園などでもよく飼育される。沖縄県の宮古島市や石垣市の市のチョウに指定されている。
那覇 護国寺
高野山真言宗の那覇護国寺は、山号を『波上山(はじょうさん)』といい、院号『三光院』寺号が『護国寺』である。真言宗である以上宗祖は弘法大師空海であり、本山は高野山金剛峯寺である。寺伝によると1368年(南北朝時代:貞治七年)に創建され、薩摩の国(鹿児島県)坊津の一乗院より来琉された頼重法印(らいじゅう)とされている。当時の琉球国王察度(さっと)の尊信を得て勅願寺として建立され、天下泰平、鎮護国家、五穀豊穣、万民豊楽を祈願し、県内で最初の密教道場となった。以来、武寧(ぶねい)王より最後の尚泰(しょうたい)王に至るまで、王が即位する際には家来数百名と共に参詣し、当寺本堂に於いて君臣の縁結びの盃を取り交わしたとされている。
1846年(弘化三年)頃、英国海軍伝道局より派遣されたベッテルハイムは医師兼宣教使としての役割を持っていた。当時はキリスト教の布教が禁止されていたため、護国寺境内に軟禁されたまま数年間を過ごすことになったという。その間、布教活動は許可されなかったが、西洋医学(手術法や牛痘接種法等)を『仲地紀仁(なかちきじん)』に伝授していたが、その後来琉したペリー等と共に、米国に戻ったと云われている。
沖縄が戦場と化したとき、海岸に近い護国寺は艦砲射撃をまともに受け、戦前の建物や仏像、資料等の全てを焼失してしまった。そこで昭和二十二年頃より手始めに那覇市開南地区に場所を移して仮復興しつつ、元の波之上で本格的復興に取り組む事になった。その結果、現在の本堂、納骨堂、書院(講堂)等が昭和五十年代に完成。その後、昭和六十年に庫裡が、山門は護摩堂の新設と共に平成六年に建て替えたという。
ベッテルハイム記念碑に隣接して「台湾遭害者之墓」があるが、これは1871年(明治四年)に宮古島の貢納船が遭難して台湾に漂着した際、原住民によって殺害された乗組員(54人)を弔う為に建立されたものだという。この事件が後の台湾出兵(1874年)の引き金になったと云われている。
尚、何時のころからか、伝聞による子安信仰により、子供の名前を書いた「よだれかけ」を納めて、健康・息災を祈る習慣があるという。丈夫で強そうな金剛力士にあやかっての事ではないかとされているが、三門で睨みを利かせている金剛力士像は、他の地域三門を飾ると金剛力士像とは異なった絵面に見える。
戦後になると先代住職による遺骨収集や慰霊塔建立を始め、県内各地での慰霊祭執行に携わって来たという。特に護国寺に隣接する「小桜之塔」(対馬丸遭難者慰霊塔)では、現在でも遺族会を中心に多くの参列者が集まり、毎年盛大な慰霊祭が行われていると紹介されている。
この関連では、オオゴマダラ飼育施設の直ぐ傍に『対馬丸記念館』が建設されていた。
対馬丸事件
対馬丸(6754 t)は、1944(昭和一九年)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまう。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったといえる。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれた。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたひともいた。この時の対馬丸には船舶工兵第二十六連隊第一中隊の将校以下211名を乗せていた。