「マスタードガスの毒性」 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
水曜日, 2月 1st, 2017
対象物:マスタードガス(mustard gas)
成 分:硫化ジクロルジエチル(dichlordiethyl sulfide)[(ClCH2CH2)2S]。
■一般的性状□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
*硫化マスタード(sulfur mastard)。常温では無色無臭の液体。硫黄の代わりに窒素を使ったものもある。マスタードガスと呼ばれるのは、生成過程で不純物が混ざったものにからしの様な臭いのするものがあったため。生成、管理、輸送、使用に手間がかからないため、世界中で生産され、多くの戦争で使用されたが、基本的に禁止されてるため、その使用実体は不明なものが多い。
*マスタードガスは脂質親和性で、皮膚、大部分の布地及びゴムを容易に浸透する。DNA、RNAおよび蛋白質を不可逆的にアルキル化し、細胞を死滅させる。この化学反応は、湿度および温度依存性のため、湿度のある暖かい組織(粘膜、会陰、腋窩)は最も侵されやすい。
*マスタードは毛穴を有する哺乳動物の皮膚や衣類を容易に浸透する。マスタード50mgを軍靴の甲部に付けて30分間、あるいは100mgを底部に付けて60分間放置すると、皮膚に水疱が発現する。夏軍服の場合10mgで3分間、冬軍服の場合は10分間で水疱が発生する。
*マスタードガスの揮発性:630mg/m3、25℃における揮発度:920mg/m3。蒸発に要する時間(S):0.16、水に対する溶解度:0.05%。
別名:イペリット(yperit)、黄十字、H・HD・HT(米軍・略号)。
■毒 性□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
*糜爛性ガス(糜爛剤:blister agent)の代表。接触部分に糜爛を起こすガスであり、ガスマスクだけでは防げない毒ガスである。25℃における揮発度が低く、汚染物による危険が長時間続く。また症状の発現は遅発性で、中毒濃度での臭気は微弱なため、作用が潜行性に浸透し、かつ持続する。
*液体マスタードによる皮膚被爆は、皮膚表面(紅斑、痛み)から部分的下層(水疱)に至る熱傷を惹起し、稀に全層(深部水疱[deep bullae]、潰瘍)に至ることもある。皮膚が硫化マスタードに接触すると、数分から数時間遅れて痛みが発現する。マスタードガスの吸入では、粘膜糜爛及び気道閉塞を生じる可能性がある。液体マスタード又はマスタードガス被爆による眼作用は、眼の刺激及び結膜炎から、角膜熱傷及び失明までの範囲に及ぶ。高用量に被爆すると3-5日で骨髄抑制が始まり、約10日で最低値に達する白血球減少症を生じた後、血小板減少症及び時に貧血に至る。悪心及び嘔吐は、暴露後4-5日後に起こりやすく、下痢および出血を生じることがある
*ヒトに対する毒性(致死量):経気道吸入1,500mg・min/m3(エロゾル)、経皮吸収10,000mg・min/m3。ヒトを行動不能にする濃度:100mg・min/m3。肺機能障害を来す濃度LC50:1,500mg/min/m3。マスタードガス使用時の致死率:2-3%又は1-5%の報告。液体が皮膚に1分間付着した場合の致死量:4000mg。
■症 状□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
*皮膚に付着すると激しい炎症を引き起こし、激しい痛みと傷跡を残す。皮膚病変が治癒した後、色素沈着や脱色が残る。第二次世界大戦中製造に携わって汚染されたヒトでは、皮膚の白斑や褐色斑が30年後にも見られている。気管に入ったら呼吸できずに死亡することもあるが、致死率は低い。
*通常、マスタードガスに傷害されると、まず眼の痛み、喉の痛み、呼吸困難、嘔吐などの症状が発現する。皮膚と2分間接触すると吸収され、痒みを感じる。2-6時間くらい経つと皮膚が赤くなり、12-24時間で水疱が生じ、酷い痛みを伴う。水疱はやがて消失するが、皮膚は酷い火傷の後のような状態になる。マスタードガスは致死力がかなり弱く、死亡させるためには高濃度が必要である。
*第二次世界大戦中の英国で、8歳の男児が放置してあった処理済みの爆弾を悪戯して噴出したマスタードガスを浴びた。帰宅後衣服を脱ぎ、体を洗ったが、2時間後に嘔吐と眼の痛みが始まり、12日目白血球減少(200/mm3)と呼吸不全で死亡した。居間にいた家族4人も、翌朝には重症の結膜炎を起こし、同じ部屋で寝た兄は四肢に水疱形成を見た。帰宅時に別の部屋で寝ていた兄弟3人も1週間後、気管支炎を惹起した。
*マスタードを皮膚に塗布した場合の症状発現と発現時間
浮腫 2-3時間
水疱発生 12-14時間
水疱破壊・糜爛面露出 約10日
壊死組織剥離、新鮮肉芽面 約20日
表皮新生-治癒 約40-50日
■処 置□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
特効薬はなく、治療は対症療法である。
*マスタードの吸入は防毒マスクで防げるが、皮膚障害は防げない。衣類や手袋、靴は皮膚を当初保護するが、普通の衣類は数分で浸透する。汚染された衣類、持ち物一切は屋外に出す。汚染物質の処理と体の洗浄は極めて重要である。イランのマスタード中毒患者を受け入れたヨーロッパの病院で、二次災害が起きている。
*通常、脱脂綿などでよく吸い取った後、灯油などの有機溶剤で洗浄し、その後、石鹸と流水で洗う。15分以内に処置する必要がある。5分以内であれば、殆ど障害を残さない。その後0.05%-次亜塩素酸ナトリウムで洗う。次亜塩素酸は除毒効果はないが、消毒作用がある。
*千葉県銚子沖で操業中に被曝した漁船員の治療を受け持った銚子市立病院では大豆油で創傷部位を拭いては晒し粉を付けていたというが、晒し粉では刺激が強すぎるとする報告が見られる。
*眼に入ったときには、アルカリの場合に準じて十分洗浄する。曝露後5分以内でなければ意味がない。その後滅菌ワセリンあるいは抗生物質軟膏を使用する。虹彩の癒着を防ぐため、散瞳剤を点眼する。
*皮膚病変に対しては、カラミンローション、スルファジアジン銀を使用する。ポビドンヨードゲルが効果的であるとする報告も見られる。II度の熱傷に準じた処置をするが、熱傷との相違は、輸液量が大幅に少なくてよいことである。
*米国の兵士は戦場に赴くとき、対マスタードガス救急薬としてサルブス(Salves:軟膏)を携帯する。皮膚に水疱を生じた場合、劇痛を伴う。その劇痛を軽減するのが目的である。眼はマスタードガス対しては特に弱く、眼が侵されたときは速やかに生理食塩水、2%-ホウ酸水溶液、2%-チオ硫酸ソーダ溶液で洗浄する。マスタードガスは皮膚を侵すので、汚染された着物をすぐに脱ぎ捨てることが大切で、冷水シャワーで皮膚に付いたマスタードガスを除くことも大切である。
■治 療□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
マスタードは皮膚、眼、及び気道と反応して化学的損傷を、一方骨髄と反応して汎血球減少症を引き起こす。迅速な汚染物の除去及び適切な薬剤による治療が有用である。
*硫化マスタードに被爆した患者は、素早く衣服を取り除き、直ちに石鹸および水で洗い流す。気道上皮が浸食された場合は、気管内挿管が必要である。化学的損傷は高温熱傷よりも体液の損失が少ないため過度の水分補給は避けるべきである。マスタード損傷は特に疼痛を伴うため、十分量のオピオイド系鎮痛薬を投与する必要がある。重症の損傷には、一般に洗浄法、壊死組織切除及び1%-スルファジアジン銀のような局所抗菌薬が必要となる。
*眼の治療には、洗浄、局所抗菌薬及び調節麻痺性縮瞳改善薬投与を行う。瞼の損傷は、ワセリンを塗布することで刺痛から保護することができる。マスタードによる好中球減少症は、顆粒球コロニー増生因子又はフィルグラスチム (filgrastim)により治療することができる。
■事 例□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
イープルの戦い(Battles of Ypres)
*フランスのイーブルで行われた第一次世界大戦の3回の戦い(1914.10.12.-22.)では、独逸軍の“海への進軍”を阻止したイギリス軍に50,000人以上の戦死者がでた。2回目(1915.4.22.-5.25.)は、イープルの突出部でのドイツ支配を打ち崩すことができなかった。イギリス軍59,000人が戦死した。3回目(1917.7.31.-11.4.)は、イギリス軍の攻撃で、連合軍が突出部の大部分を奪回した。245,000人のイギリス兵が死んだ [大百科-丸善エンサイクロペディア;株式会社丸善,1995]。
*マスタードガスは第一次世界大戦中、独逸軍がベルギ-のイープル(イペルン)で初めて使用した毒ガスで、大量殺戮兵器の幕を開いた。マスタードガスは農薬開発の過程で誕生したといわれている。最初に使用された地名をとって「イペリット」ともいう。当初は有機溶媒に溶かしてボンベからガス状にして噴霧されたが、後には砲弾の内部に詰めて発射した。ベルギーなどの使用地域では、現在でもその回収作業が進められている。
*イープルの塩素ガス戦から2年後の1917年独逸軍の毒ガス弾がイープルに落とされた。独逸軍では“黄十字”と呼ばれたが、臭いを嗅いだイギリス軍は、芥子臭から“マスタードガス(芥子ガス)”呼んだ。これが一般にはイープルの地名に因んで“イペリット”といわれる悪名高い毒ガスである。
■備 考□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
*兵器として人類史上初めて使用された毒ガスは、ペロポネソス戦争でスパルタ軍が使用した亜硫酸ガスであるといわれている。近代以降では、1915年4月22日、第一次世界大戦のイープル戦線で独逸軍が使用した塩素ガスが最初である。
*患者の処置による院内及び病院職員の二次汚染を回避する措置が必要である。
①通常患者等が使用する廊下等を使用せず、直接入室可能な急患室。あるいは二次汚染を拡大しない患者搬入の仕組み。
②防毒マスク及び防御服の着用。
■文 献□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
1)http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/taisho/jikoh/musgas.htm,2004.3.29.
2)大木幸介:毒物雑学辞典-ヘビ毒から発ガン物質まで-;ブルーバックス,1984
3)Anthony T.Tu・編著:事件からみた毒-トリカブトからサリンまで-;化学同人,2001
4)Anthony T.Tu:中毒概論-毒の科学-;薬業時報社,1999
5)化学兵器による損傷の予防及び治療;The Medical Letter<日本語版>,18(1):1-5(2002.1.7.)
6)内藤裕史:中毒百科-事例・病態・治療-;南江堂,2001
調査者:古泉秀夫 記入日:2004.4.3. 改定日:2017.1.28. |