『都電-荒川線の旅』
水曜日, 7月 27th, 2016鬼城竜生
国立病院に勤務していた時代、全医労(全日本国立医療労働組合)に属していた。その当時、仲間だったMが癌に罹り、60歳で無くなってしまった。その葬式が新潟であるという連絡を貰ったが、些か行くには遠すぎる。そこで香典を立て替えておいてくれと頼んで置いたが、その借金返済のため、大塚の全医労会館に出かけた。昔は四谷三丁目に事務所はあったが、国立病院・療養所の統廃合と云う大きな闘争を経過する中で、組合員数の減少に伴い、更には会館の耐震化の工事等を考えて、移転を決めたようである。その分都内の各国立病院・療養所から遠くなったが、電車に乗る覚悟をすれば、不便を言い募る事は無いのかもしれない。
更に大塚に来ることで、大塚から都電荒川線に乗って、三ノ輪橋迄、写真でも撮りに行こうかと考えていた。東京最後のチンチン電車は、東京都心に唯一残る路面電車、『都営荒川線』である。
新宿区の早稲田停留場から荒川区の三ノ輪橋停留所までの間12.2km、30駅を約1時間で走るとされている。荒川線の前身は王子電気鉄道といい、明治44年に開業したとされる。その後東京都に事業譲渡されて都電となり、昭和49年、現在の早稲田-三ノ輪橋間の営業路線として都電荒川線と改称されたと云うことである。
都電大塚駅は、JR大塚駅の直ぐ近くにあった。前回JRの大塚駅で降りた時にはこんなに近くにあるとは思っていなかったが、上から見た時に気付かなかっただけということの様である。直ちに三ノ輪橋行きの電車に乗車、久々に乗ったが、エラい喧しい音を立てる運転手の操作には驚かされた。終点の三ノ輪橋で下車したが、昔に比べると若干雰囲気が変わって見えた。
半端な時間だったが昼飯がまだだったので、飯屋を探すために商店街「ジョイフル三ノ輪」の通りに入った。驚いたことにエラく長い商店街で、店が密に並んでいる訳ではないが、端の方まで歩いてみようという気は無くなってしまった。暫く入った右側に古色蒼然とした蕎麦屋があり、「砂場」という看板が出ていた。時々聞く名前だったので、入ることにした。店内を見回してみたところ、眼に入るのは誰の趣味か解らないが、雑多なものが並べられていた。
取り敢えず天ざるを頼み、冷やで一杯貰うことにしたが、突き出しに出てきたのは「蕎麦味噌」で、味のいいのに驚いた。最近蕎麦屋でも突き出しに「蕎麦味噌」を出すところは珍しいのではないか。蕎麦は美味かったが、天ぷらは嫌いな人参が入っていたので、結局残してしまった。蕎麦屋の天ぷらに人参が入っているのも珍しい。
家に戻ってから気になったので南千住(三ノ輪)の「砂場」で調べてみたところ、江戸時代に記録がある「糀町七丁目砂場藤吉」が移転して存続したものである。建物は1954年の木造建築で荒川区の文化財指定を受けているとする記載が見られた。
最初から解っていれば、建物の写真を撮ってきた所だが、店の前にそんな案内は無く、単なる古い家屋という雰囲気で、写真を撮ろうという気にはならなかった。しかし、今度行く機会があったら、間違いなく写真を撮してこようと思っている。
(2016.7.7.)