『原発事故-帰還困難区域を訊ねて』
水曜日, 6月 1st, 2016鬼城竜生
東京医労連OB会の『福島連帯の旅』も第5回目を迎え、今回は東京電力福島第一原発事故で、全町民が避難生活を強いられている福島県浪江町津島地区に行くことになった。浪江地区は全域が『帰還困難区域』に指定されており、現在「浪江町津島地区原発事故の完全賠償を求める会」を結成し、450所帯のうち半数近い219所帯が参加し、活動を続けているところである。なかで津島地区は、原発事故当時、緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク(SPEEDI)で高放射能線量が測定されていたにも係わらず、その数値は公表されることなく、原発から遠いと云うことで避難してきた多数の町民や津島地区の住民は被曝したと云うことで、当時話題に上ったところである。
今回、我々は浪江町津島地区に立ち入るについて、浪江町長宛に『公益目的での一時立ち入りに関する申請書』を提出した。曰わく「私は、自らの責任において、帰還困難区域への一時立ち入りをしたいので、下記の通り申請します。また(注意事項)「帰還困難区域への公益目的の一時立ち入りをされる事業者の方へ」を確認した上で立ち入りを行います。』。更に退域時『GMサーベイメータ→退域時スクリーニング上にて受検』と云うことで、線量計で放射線量を測定すると云うことであった。
今回の行程は次の通りである。
4月17日(日曜日):新宿(8:00)→中野長者町IC→首都高速→三郷JCT→常磐道→(約80K)守谷SA(9:00-休憩-9:20)→常磐道→四倉PA(11:00-馬上さん乗車-11:20) →浪江IC→一般道(浪江IC-津島地区約60K)→浪江役場(馬場町議乗車)→津島地区→浪江役場(馬場町議下車)→一般道(浪江IC)→常磐道(15:40-休憩-16:00) →四倉PA(馬上さん下車)→上越道(四倉PA-田園生活館約78K)→船引三春IC→田園生活館(17:00頃到着)
例によって例の如く四倉PAで、馬上さんに準備して頂いた弁当を受け取り、地元の講師に現状報告を兼ねて講演をして頂き、その同じ会場で食事をさせて頂くという方法をとっていたが、今回は行程の関係と、帰還困難区域に入ると云うことで、休憩する場所の確保が難しいと云うことで、バスの中で食事をすることになっていた。
普通の弁当では食べ難いかなと思っていたが、皆さん何の問題もなく食事を終えたようだが、バスの運転手の方と、車内での案内をしていた馬上さんは、若干食事時間が遅れていた様である。
所で我々が訪問する浪江町は人口約2万人の自然の色濃いい町である。現在は全町避難指示で全国に分散非難している。1月31日現在の避難状況は、県内14,462人、茨城県1,021人、東京908人、宮城県778人、埼玉県728人、沖縄20人、国外12人となっているとされる。
2011年(平成23年)3月12日国の避難指示が原発から10k圏に拡大したことを受け、町の災害対策本部は当該地域の住民を津島地区へ避難させることになった。津島地区は原発から25kの地点で、避難が10k圏に拡大されたとしても安全圏に入る場所だった。その結果人口1,400人の地区に、約8,000人が避難することになったが、3月14日には原発から半径20k圏内の全住民は避難することになり、結果的に津島地区に避難した人達は被曝することになった。
4月9日死者1人、行方不明者185人。4月14日放射線量が低下したとして、原発半径10k圏内が県警300人の動員で行方不明者の捜索。4月24日「ザ鉄腕DASH」の所在地は津島で、原発から30k圏内であることが公表された。
馬場 績(いさお)議員宅は浪江町津島地区は帰還困難区域で、牧場をやっていたという。放射線量は9µSv/毎と高い。自宅前の畑は、現在イノシシが耕している。商店のガラス窓に川柳が張り出されているところがある。また今の今野新聞店の夫婦と息子さんが墓参りに来て、自宅に入ったとき、3月13日・14日に配達する新聞が残っていたという。
また馬場さんは「浪江町津島地区原発事故の完全賠償を求める会」世話人の高橋和重さん一家は別の仮設に住んでいるが、昨年1月に88歳で亡くなったお父さんの話として「父は原発事故後、何度も津島に一人で帰っていました。仮設では眠れなかったからです。父は満州で捕虜になりシベリアに抑留されました。仮設住宅はその時の収容所を思い出して落ち着かなかった」
津島から返ってこないため、救助隊を要請したことがあった。父親は戦後シベリア抑留から帰国すると「飯盒一つで津島に入植」し、山を開墾しました。「炭焼き釜の空き釜に寝泊まりし、田畑を耕しました。50年前から鶏卵業始めました。血のにじむ精根を尽くして開拓をした土地を離れるわけにはいかなかった」と亡くなった父の思いを語っていると説明してくれた。
㏃(ベクレル)かµSv(マイクロシーベルト)か知らないが、眼にも見えず、臭いもしない、そんなものに血と汗を流して開拓した土地を追い出された百姓の怒りや悲しみは百姓じゃなきゃ解らない。
しかし、現実には僅かな期間、車から降りて見学しただけにも係わらず、帰りには車から降りて、それぞれの参加者46名が加倉放射線測定センターで、スクリーニングを受けなければならなかった。
更に引き続く車の中で馬場さんからの話として、牧場を経営していた人は、牛を殺処分しなければならないという話になり、獣医が来て薬殺をすることになったが、悲しげな声で啼き、脚を踏ん張って動こうとしない、最後には牛が涙を流していたという話を聞かされた。
浪江役場で馬場さんと別れ、その序でにトイレをお借りしたが、まだ本格的な業務は再開されていないようだった。その後更に四倉PAで馬上さんとお別れし、今夜宿泊する田園生活館に到着、参加者各自が手足を伸ばし、「本日は思わぬ過酷なバス旅になったが、明日の滝桜見物に期待して夕食を楽しんで下さい」の会長挨拶で夕食会を始めた。
その夜間、久々に風の音で目を覚ました。しかも生易しい風の音ではなく、これが冬の風の音なら「虎落笛」という季語になるほどの風の吹き方である。こりゃ明日は花は無理かと思いながら、一方、何時も強風の吹く中で育っている桜なら花は頑張るかもしれないとも考えた。
「三春宿桜颪の風が鳴る」
「風一夜三春桜の花尽きる」
「風が啼く三春桜の花の舞い」
悪い方にばかり頭が回るが、寝不足は体調不良になりかねない。明日の花見の素晴らしさを期待しながら、眠る努力を続けた。
4月18日(月曜日)8時30分に、早めに宿泊施設を出て滝桜を目指した。しかし、最初に眼に触れた滝桜案内用の立て看には「散り始め」という案内が書かれていた。オッ大丈夫だったのかと思わず目を疑ったが、駐車場に入った瞬間、300円の見学料が無料という案内に書き換えられていた。「えっ無料なの」駐車場の案内係にお尋ねしたところ、夕べの風で花が散ってしまったのでと云う回答だった。
「三春滝桜」は国指定天然記念物で、桜の種類は、江戸の桜-吉野桜と異なり、ベニシダレザクラ(紅枝垂れ桜)である。樹高は約13.5m、樹幅は約25m。午後6時から9時迄の間ライトアップがされている。この"三春滝桜"は日本三大桜の一つである。
その他の桜は山梨県の神代桜、岐阜県の淡墨桜の日本である。指定されている桜の木はどれも1000年以上の樹齢を重ねており、見れば日本三大桜と名乗るのに相応しい桜だとする紹介がされている。
所で樹木の年齢はその年輪を見れば解ることになっているが、滝桜の幹に輪切りにされた場所はない。そこで滝桜の1000年の根拠について、滝桜の孫と称する植木を販売していた店主に聞いたところ天保の頃、加茂季鷹の詠んだ歌「陸奥にみちたるのみか四方八方にひびきわたれる滝桜花」に読まれていることから1000年という年代が推定されたと云うことだった。また「三春藩主の御用木として保護された」という話もあるようである。
三春まち歩きガイドなるものがあり、三春町観光ボランティアガイドの会が運営しており、枝垂れ桜の城下町三春の歴史と見所を御案内しますとしている。従来は無料で案内していたようであるが、最近になって有料化された。
我々のグループは足弱部隊と脚強部隊とに別れ、2グループで案内して頂いたが、桜を見て歩く話が、愛姫(めごひめ)を初めとして三春城主にまつわる話にどうも特化しがちで、仲間内の話でどうやら案内人によって年代が違っていたが、無料の時代と違い、人によって話が違うのはしゃれにならない。一度台本段階で、話の統一性を採ることをお勧めする。
原発事故から6年目に突入する。にも係わらず、汚染された塵は袋に入れっぱなしで身近なところに置かれている。これじゃ帰りたくても帰れない。
◆2014年9月15日国道6号線帰還困難区域に当たる区間の一般車両通行解禁
◆2014年12月6日浪江IC~南相馬IC新規に開通。
(2016.4.28.)