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『兵庫県淡路島』

火曜日, 5月 10th, 2016

                           鬼城竜生

嘗て東京都内に国立の医療機関いわゆる国立病院・国立療養所が12ヵ所あった。その各病院にある労働組合の都内における集合体に全医労東京地区という組織があった。その組織の議長と書記長という任務分担をしていた。そのimage時の書記長がK氏で、あの当時の最重要闘争であった任用中断闘争(賃金労働者の1日首切り)を共に闘った重要な仲間であったが、その彼が『高次脳機能障害』に陥り、家庭の都合で神戸に引っ越していった。

最近調子が良くなってきたので一度お訪ね下さいと云うことで、東京医労連OB会(東京都内の医療関連労働組合のOB会)の仲間8人で神戸に出かけることにした。神戸では、レンタカーを借りて淡路島まで出かけ、そこのかんぽの宿(兵庫県淡路市富島824)に泊まるという話しだった。

行くまでは『淡路島』は四国だと思っていたが、どうやら兵庫県だったようである。最初に孫文記念館(移情閣)に寄ることになっていたので寄ったが、本当は舞子公園の構成部分の一つで、橋の科学館も併設されており、神戸淡路鳴門自動車道が明石海峡大橋によって淡路島に繋がっていると云うことだった。

孫文記念館は、中国の革命家であり政治家・思想家である孫文(号は中山、又は逸仙:1866~1925)を顕彰する日本で唯一の施設で、1984(昭和59)年11月に開設された。この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」を前身としている。1915(大正4)年春、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられ、外観が六角に見えるところから、地元imageでは長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきた。1994(平成6)年3月、明石海峡大橋の建設にともない、一端解体され、元の位置から西南方向200メートルの現在地に移転、復原工事が進められ、2000(平成12)年4月に完成公開されたと案内されている。孫文記念館から見える距離に鐘紡の創設者である武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)を見ることができた。

孫文記念館見学の後、舞子海上ブロムナードを見学、明石海峡大橋を渡り淡路島に入った。淡路島に入る前から、K氏は『野島断層保存館』を見せたがっていたが、最初あまり興味を引かれてはいなかった。しかし、宿泊施設の直ぐ近くだからということで、野島断層保存館に寄ることになった。

フェニックスパーク 国指定天然記念物野島断層『北淡震災記念公園』と云うのが正式な名称の様である。

この保存館は、兵庫県南部地震で出現した野島断層をありのままに保存し、地震の凄まじさと脅威を感じていただき、地震に備える大切さを伝える事が役割とされている。野島断層は、兵庫県淡路市にある活断層で、一部を保存することによって文部科学省による天然記念物に指定されている。長さは淡路島の北西部・旧北淡町の北端、江埼灯台付近から富島地区までの約10kmにわたっており、六甲山より淡路島に至る六甲・淡路島断層帯の一部にあたる。1975年の地質図に活断層として記載された。

image1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震は六甲・淡路島断層帯が活動したために起こったもので、中でも構成断層のひとつである野島断層は震源に最も近い断層である。地震発生の際には断層南東側が南西方向に約 1m - 2m 横ずれし(横ずれ断層)、同時に南東側が約 50cm - 1.2m 隆起して逆断層となっている(一部、野島蟇浦地区では北西側が 20 - 40cm 程度隆起)。この際に変位した断層面が地表に露出した。

この断層による破壊状況が最も顕著であった旧北淡町小倉地区(現・淡路市小倉地区)に1998年(平成10年)に「北淡町震災記念公園(現・北淡震災記念公園)」がオープンした。公園内に「野島断層保存館」が設けられ、断層の一部が保存されている。この年の7月31日に国の天然記念物に指定された。また、神戸市長田区にあった通称「神戸の壁」も同施設に移転し公開されている。なお、2011年(平成23年)8月22日には入館者数が800万人目を迎えており、淡路島有数の集客施設にもなっているとされているが、もっと訪れていい施設である。

この断層の断層面の掘削調査によって、最近の2万年間で20mの変位を確認したとされる。また、梨本地区の掘削調査により約1100〜2400年前というデータが得られ、前回の活動時期は約2000年前と推定さている。つまり地球年齢で云えば、2000年なんて云う人間の時間はあっという間の出来事で、十分生きて活動可能な時間経過だと云うことだろう。原発imageimageの問題で活断層が騒ぎの種になっていたが、一度皆で『北淡震災記念公園』を見学に行って、断層のずれ方の激しさを実感した方がいい。それでも尚、大丈夫だという自信があれば、云ってみたらいい。

ただ、不思議なことに"活断層の真横でもほとんど壊れなかった家"が一軒公開されていることである。家の塀や花壇の煉瓦等はズレており、家の中の台所の様子も眼も当てられない惨状を示していたが、家だけはなんともなっなかったという、見本として展示されていたが特殊な事例で、偶然壊れなかったと云うことではないのか。家の中がむちゃくちゃになっているのに壁や鴨居は何ともなかったというのは、どういう理屈なのか不明である。

計画通り"かんぽの宿"に宿泊し、8:40福良港を目指して出発した。福良港では船に乗って渦潮を見学することになっていた。淡路島南端の門崎と四国側の孫崎との間の1km余りの水路を瀬戸内海から太平洋に通ずる海峡で、鳴門海峡の渦潮は6時間毎に起こる潮の干満の差によって起こる。渦潮の観潮には大潮の時を選ぶのがいいとされているが、これは旅行日程が優先する以上、行ってみなければ解らないと云うことだろう。観潮船は咸臨丸・日本丸の二船、我々が乗船したのは日本丸であったが、残念ながら渦潮は擦った程度の痕跡を見ただけだった。昼食はうずしおドームなないろ館2Fレストランなないろで、それぞれが煮魚や刺身等、好みの食事を摂った。その後"道の駅福良"で買い物をしたが、女性陣が淡路島はタマネギが名産だと云うことで、買うことにしたが、1箱買っても十分に持つと云うので、1箱買うことにしたが、実際に家に帰ってみたら、十分に保存可能だった。

淡路インターで、バスで帰れるというK氏を降ろし、我々は一路新神戸駅に向かい、新神戸駅で大阪に向かうという東京医労連OB会事務局長と別れ、全員無事東京に帰り着いた。

K氏は懸命のリハビリで、『高次脳機能障害』からの回復を目指している。特に麻痺もなく、言語障害もなく、一見すると何処がおかしいのか解らないが、視野狭窄が有り、見える範囲は甚だ狭い、廊下に同じような扉が続くホテルのような場所では、当人は云わないが、どうやら方向の感覚が覚束無くなるんではないかと思われた。更には所々記憶が落ちこぼれるようだが、『高次』の意味が何処までのことを指すのか解らないが、例えば言語機能を高めるとか、彼が得意とする碁の練習をするとかという療法を継続的に行う事が出来れば、回復が早まるのではないかと思うが、積極的に社会と関わっていく事が、回復を早めるのではないかと期待している。

                  (2015.12.31.)