『上野公園』
金曜日, 4月 1st, 2016鬼城竜生
上野公園の東京都美術館は今“モネ展”を行っている。それとは別に元国立病院の薬剤科長をされていたNT氏から風子会展の御案内を頂いた。今回が第39回目という展示会で、中田氏は退職後この会に属して絵を描き始めたようである。
勿論、元々絵に趣味があるから始めたと云うことだろうが、今回を含めて、海を前面に配した立山連峰の絵が多い。今回の“雨晴と立山連峰”は佳作入選していたが、三作品出展しているうちの二点目も“雨晴”と題する同じ構図の立山連峰の絵だった。
絵の上手い下手はそれなりに素人にも解るが、一定の線を越えた絵の評価は無理。その程度の鑑賞眼だから、絵全体の評価は出来ないが、永年写真を撮り歩いているということから絵の構図がいいか悪いかの見方はどうにかなる。その点から云うと、“雨晴と立山連峰”と題する絵は纏まっていた。もう一つの“雨晴”は、全く同じ場面を書いているが、連峰の前の海が奇妙に彎曲しているのが気になって好きになれない絵になっていた。
東京都美術館の裏側に『旧泰楽堂』が存在する。
この奏楽堂は、明治23年に創建された日本最古の木造の洋式音楽ホールで、現在の場所に移築後、昭和63年1月に国の重要文化財に指定された。東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、一般に公開されるようになったという。但し、現在は改修工事中で、内部の見学は出来ない。
二階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台であると紹介されている。正面のパイプオルガンは、大正9年に徳川頼貞侯がイギリスから購入し、昭和3年に東京音楽学校に寄贈したものだという。
11月11日(水曜日)は降水確率10%以内とする好天で、『旧泰楽堂』前は絵を描く人たちが何人も見られた。
この建物の左側、東京都美術館の裏庭に、戦災で生き残った公孫樹がある。1944年11月14日以降に東京は106回の空襲を受けたとされる。西郷隆盛の銅像の後に聳える公孫樹は3本、清水観音堂付近の広場に3本の公孫樹の大木が有り、幹には焼け後が残っているが、東京大空襲の記録簿からリストアップされた被災木は1本だけだという。幹の中ほどを鉄の輪で補強された公孫樹が見られるが、真上で焼夷弾が破裂したらしく、上部は爆風で吹き飛ばされている。しかし、それでも生き残って、青々と葉を茂らせている生命力には頭が下がる。
この公孫樹の近傍に黒い御影石の大きな弾が設置されている。白井翔平氏のノーサイドという彫刻である。暫く眺めていたが、意味不明。
西郷さんの銅像のやや左後ろに御墓みたいなものが見られるが、これは“彰義隊の墓”だと云われている。現在の上野公園は、江戸時代は寛永寺の境内で有り、薩長土肥の官軍と江戸における最後の一戦を行った主戦場がここで有り、その戦死者が葬られているのではないかと思われる。また西郷隆盛は江戸無血開城等、官軍の総大将だったと思われるが、明治神宮に合祀されていないそうである。
明治神宮は天皇のために戦って死んだ者を祀る神社で有り、西郷は明治維新の重鎮ではあっても、最終的には官軍との戦端で敗北し、腹を切って死んだ逆賊で有り、明治神宮には合祀されないと云うことであるが、我が国の近代国家の確立に寄与したのは間違いのない話であり、国のためになったと云うことでは合祀しても良かったんじゃないかと思うが、官に逆らったと云うことでは賊で、該当しないということの様である。
上野公園の地図(発行・上野観光連盟)を見ていて気が付いたのだが、『袴腰広場』という見慣れない言葉が目に付いた。調べた所、袴の腰に当たる部分。男子用は台形の腰板が入っていると云うことから、鐘楼の下層の部分で、末広がりになっている部分。台形をしたもの、土手の断面等が該当するようだが、京成上野駅の裏側に当たる公園の入口が、台形をしており、そこを袴腰広場と洒落て云っているようである。
(2015.11.14.)