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『山形行-岩に染みいる………』

水曜日, 12月 2nd, 2015

             鬼城竜生

2015年6月21日(日曜日)~22日(月曜日)の両日、(一社)昭薬同窓会山形支部の総会が開催された。例によって例の如く、22日は時間を取ってこれぞ山形と云う写真を撮って、同窓会会誌の表紙に使いたいといimageimageう予定を立てた。

さて山形市から近くて何処か適当なところはないのかと地図を見たところ山形駅から仙山線で山寺という駅があるのに気付いた。取り敢えずそこに行こうということで、計画を立ててきたので駅に行って電車の時刻を確認したが、何と1時間に1本しか電車がでていなかった。

駅名は山寺だが、東北第一の天台宗の霊場として知られる宝珠山立石寺が正式な名称である。立石寺は定観二年(860年)に慈覚大師が開基したものとされる。重要文化財に指定されている根本中堂等の堂塔伽藍の他に、1,100余年前に比叡山から移した不滅の宝塔が守られているという。また立石寺は松尾芭蕉が『閑かさや岩にしみいる蝉の聲』と謳った地として知られている。最も、境内にあった句碑を見てああここがそうかという体たらくで、全く頭の中では繋がっていなかった。
むしろ気になっていたのは、そんな高邁な問題ではなく、山寺駅に書かれていた『当駅から奥の院まで往復2時間かかります』の注意書きの方である。普通の歩きで2時間かかるとすると、山登りをやっていた若い頃ならいざ知らず、今の脚力では3時間以上かかる可能性がある。
山形市内に戻り、山形城の城主最上善光(よしあき)の銅像の写真が1枚欲しいと考えていた。下手に山寺でのたくっていて、奥の院まで時間がかかりすぎると、1時間に1本しかないimageimage電車では、タイミングが悪ければ、予約している新幹線に間に合わない心配がある。悩んだ結果、下司の考えは楽な方に流れるで、山寺の地図を眺めた結果、天辺まで行くのは諦め、根本中堂・日枝神社・念仏堂・立石寺本坊を御参りして切り上げることに決めてしまった。

根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂だと説明されている。現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれているという。堂内では、本尊として慈覚大師作と伝えられる木造薬師如来坐像をお祀りし、脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を拝することができるとされている。また、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打にあった延暦寺を再建したときに、逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができるとされる。根本中堂の境内には橋殿と呼ばれる石橋があり案内によると「古来、天皇、宮人のみ渡る石橋と伝えられている。石橋の裏側に梵字の古代仏字が刻み込まれている。石地蔵尊の頭をなでると長命できるとか。

日枝神社は例年5月17日に山寺山王祭がおこなわれる。主神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、山に杭を打つと云うことから山の神とされているそうである。境内の右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明皇后の記念碑である。後方の大銀杏は、山形市で一番太いという天然記念物で、慈覚imageimage大師お手植と伝えられ、1000年を超える樹齢という紹介がされている。

立石寺本坊を降りて駅に向かう右手に対面石という石が出てくる。この石に『対面』名前が付けられているのは、慈覚大師が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎とこの大石の上で対面し、仏道を広める根拠地を求めたためと伝えられている。磐三郎この時、慈覚大師に帰依し、狩人を止めたという。狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される。

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名である。最上氏第11代当主で、出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。
義光は調略による敵陣営の切り崩しを得意とした。内応工作に応じる者が多かったのは、その度量の広さが知れ渡っていたことが大きい。例えば寒河江氏は義光に降った旧臣らの嘆願を受け再興を許されている。義光は常々「大将と士卒は扇のようなものであり、要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けていても用は為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」と語っていたという。また、義光は早くから集団戦術・火器に着目しており、酒田港経由で上方より大量の銃器・火薬を入手し、また堺から鉄砲鍛冶を招聘していた。天正二年(1574年)の伊達・上山勢との戦闘や、寒河江城攻略においては集団射撃で敵を破っている。長谷堂城の戦いでも、上杉勢は最上勢の射撃に苦しめられた。

山形城は最上義光の居城として知られ、日本国内では5番目imageの広さで、奥羽地方では最大の城だったと云われている。羽州探題の名門ながらも衰退していた最上家を、戦国乱世の中で57万石まで押し上げた名将。一揆も起imageきない善政を敷き、山形の繁栄の基礎を築いた名君とされている。戦場では刀の2倍の重さの鉄棒を振るう勇将であり、同時に調略・説得と云った戦わずして勝つ知略を駆使した。「羽州の狐」等の異名を取っていたとされる。また山形城下に桃山文化の花を咲かせ、細川幽斎に次ぐ戦国第二位の248句の連歌を残した文化人でもあった。

現在、山形市郷土館とされる建物は初代山形県令三島通庸の命により明治11年2月着工同9月に落成したとされる。山形県立病院で、明治十二年太政大臣三条実美により『済生館』と命名された。後に山形市立病院として使用され、昭和四十一年十二月に国の重要文化財に指定された。明治初期の擬洋風建築の傑作であるとされている。3階建ての建物で、建物の真ん中に庭が有り、各部屋は回り廊下で繋がっている。

開院当初はオーストラリア人の医師ローレンツ博士が、医学寮教頭兼館医として就任した。ローレンツ博士はオーストリア人の医師で、明治十五年七月に帰国するまでの約2年間、独逸医学の啓蒙に尽力したと云われている。

写真を撮り歩いて驚いたのは、山形城の敷地の広さである。当初は土塁ベースの城だったとされるが、最上家改易後に入部した鳥居忠政により石垣造りの城郭に大幅改修されたという。二ノ丸石垣や水堀などが現存、本丸は日本陸軍により埋め立てられていたが現在発掘復元工事が進んでいるとされる。二ノ丸東大手門、本丸一文字門が復元済。山形城は、地元では『霞城』と云われているようである。

              [2015.8.9.]