『縁』
火曜日, 6月 30th, 2015魍魎亭主人
東京医労連OB会の企画する『戦跡巡り』は、甚だ人気のある催しである。
今回も具体的な企画は、慶應病院OBの檜山紀雄さんに御願いしたが、『谷根千』なら日本医大だということで、日医大労組に御連絡戴き、谷根千の案内なら私の義父もやっていますよと云うことで、お嬢さんから清水眞吉(年金者組合文京支部長・元東京民医連事務局長)さんの御紹介を戴いた。OBから現役へ、更にOBへと『縁』を繋ぎ、3月20日(金)13:00時、千代田線の根津駅に参集した。
清水さんは生まれも育ちも千駄木で、14歳の時に千駄木で終戦を迎えられたという。案内の途中で、焼夷弾で焼けた家の残骸を見つめる女性の後ろ姿の写る写真を見せて戴いたが、何とその写真の女性が結婚した相手だったと云っていた。
取り敢えず駅近の公園に場所を変え、今日廻る地域の特徴と行程の説明を受け、根津神社を目指すことになった。その途中で登録有形文化財の日本基督教団根津教会、根津遊郭跡地の案内板を見て根津神社に行った。根津神社は『躑躅(つつじ)』の名所であるが、躑躅にはまだ早い。躑躅苑にある連なる赤い鳥居に興味を持った人も居たようだが、なんせ清水さんの谷根千案内は1日掛かりのコースで有り、それを半日ということになったので、深く踏み込むことは出来ず、楼門前で全員の写真を撮して撤退した。
根津神社は、今から千九百年程前に、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。明治維新では、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い神社である。根津神社で有名なのは透塀で、社殿の周囲を囲む塀であるが、『国指定重文』で、名称の由来は格子部より向こう側が見えることによる。総延長200m、塀を建設後300年を経過しても寸分の狂いも生じない昔の大工の腕はたいしたものだと云わなければならない。
根津神社を出て“不忍通り”を渡り、藍染め大通りへ、根津から台東区谷中に移動。本郷台と上野台の谷間にあることから“谷中”と名付けられたという。谷中はお寺の多い街で、
これは上野に寛永寺が建てられると共に、谷中その子院が次々と建てられる。また、幕府の政策により慶安年間(1648年 - 1651年)に神田付近から多くの寺院が移転し、明暦の大火(1657年)の後に焼失した寺院が移転してくると云うことから寺院が増えていったと云うことである。寺の増加に伴い参詣客も増え、徐々に町屋も形成され、江戸の庶民の行楽地として発展し、根津遊廓が型作られた。
地元在住の案内人がいないと解らない細い道を通り、家庭の庭に沿った細道を辿り、樹齢600年の椎木のある玉林寺、それに続く長運寺、妙福寺、妙行寺とお寺の連なりを通り、お彼岸のお寺参りの人影もチラホラ散見された。門柱に“六三除け”の青銅版の案内が出ている寺(蓮華寺)があった。薬に何か関係があるのではないかとの質問を受けたが、“六四除け”なら虫除けで見当は付くが、“六三除け”は聞いたことがなかった。ガラケーの辞書で検索したところ、『年令による身体の部分的な厄除け。九星の定盤と関わりがあり、体内を巡る病の星の動きを表している。六三=無産。活動が停止した部分、弱くなった部分、を除くご祈祷。これが六三除です。』とする解説が書かれていた。
妙行寺の門前にはテレビでよく映されるY路地にあるヒマラヤ杉の大木を見て、宗善寺へ。宗善寺は1995年真宗大谷派が、第二次世界大戦の推進に協力したと云うことの反省から「不戦決議」を採択したのに沿って、「未来を今、憲法九条堅持、原発はいらない」の横断幕が寺内に掲げられていた。
散策の途中には満開の“彼岸桜”を見ることもでき、序で“さんさき坂”を上り途中山岡鉄舟、三遊亭円朝の墓がある“全生庵”の境内にお邪魔してそれぞれのお墓に敬意を表した。全生庵は幽霊の絵を収集していることで知られているお寺で、この収集の元になっているのが円朝の集めていた幽霊の絵を引き継いだことによる。円朝は新作落語として怪談『牡丹燈籠』、『真景累ヶ淵』、『怪談乳房榎』等を自ら創作して演じている。この関係で怪談に関係する絵や幽霊の絵を集めたものと思われる。全生庵では谷中円朝祭として円朝の命日である8月11日を中心に収集した絵の公開を有料で行っている。
さんさき坂を下り大円寺・十四地蔵へ。大円寺は珍しいスタイルのお寺で、右側にお寺、左側に神社が並列して建てられている。この建物を見たとき、明治維新後に神仏分離令が公布され、従来の神社とお寺の関係が認められなくなり、酷いときには廃仏毀釈が行われた。これは明治政府が平田派国学者の影響を受けて、神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたことに由来する。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じ、神道の神に仏具を供えることや「御神体」を仏像とすることも禁止した。
その様な状況下にあって江戸方の影響を最も受けていたと思われる谷中のお寺で、このスタイルの寺が残っていたというのは恐れ多い。本堂が法華経と稲荷の二つのために、それぞれの玄関が並んだ構造。瘡守稲荷(かさもり)の方は、神仏分離令をかいくぐるための苦肉の策として「瘡守薬王菩薩」と名を改め両方とも仏教の施設であるということにしたようである。しかし、大衆は「瘡守稲荷大明神」として御参りしていたと云うことである。
大円寺の境内の奥に第二次世界大戦の時の空襲で亡くなった方達を供養する“十四地蔵”が建立されていた。テレビに出てくる指人形笑吉は、時間がないと云うことで、取り敢えず工房の場所を確認、チラシを入手して最終の目的地『みしま地蔵』へ向かった。みしま地蔵は1945年3月4日未明、米軍のB25よる空襲があり、その業火に焼かれて亡くなった人々の霊を供養するために地蔵が建立された。該当地域のそれぞれの町名から一字を取って「三四真(みしま)地蔵」と命名されたと云うことである。
岡倉天心記念公園でトイレ休憩を取り、ゆうやけ段々を目指すことにしたが、途中にある長命寺の境内の大きな枝垂れ桜が眼に付いたが、まだ咲き始めというところだった。ゆうやけ段々の下に到着、4時30分まで、40分間の自由時間と云うことで、谷中銀座を散策、再集合後、谷中墓地に立ち寄り、4時45分日暮里駅で解散した。
御高齢にも係わらず、御案内頂いた清水眞吉さん、更に御同行戴いたお嬢さんに感謝の意を表する次第です。ありがとうございました。
(2015.4.22.)