「第6回大会開催地巡り」
水曜日, 12月 3rd, 2014魍魎亭主人
東京医労連OB会の大会開催地巡りの旅は、今回の第6回で、終焉の時を迎える。今回は、東京医労連OB会にとっても現役時代、重要な闘争として参加してきた長寿園闘争の結果生まれた後医療の施設である、大戸診療所の現況を見せて戴くことは、意味のある事だと云える。
長寿園闘争の概略は、後稿に譲るとして、今回の旅の話を紹介する。11月9日(日曜日)、8:15分に新宿西口安田生命前に集合、8:30分出発。関越自動車道で高崎まで行き、国道17号、国道406号を経由し、大戸診療所に到着。
県道58号、県道237号、日本ロマンチック街道から沼田バイパス、関越自動車道、三国街道から県道351号に移り、本日の宿泊地“湯沢グランドホテル”に到着した。
翌日は快晴に恵まれ、上信越高原国立公園の“清津峡”(新潟県十日町市)の見学に訪れた。この峡谷は日本三大峡谷といわれ、トンネルの中に開けられた4ヵ所の見晴所から観察することになっている。トンネルの全長は750m、往復所要時間は約40~60分とされている。清津峡は元々トンネルではなく、河をヘツル道があったようであるが、落石によって潰れたため、作ったといわれている。
三大峡谷とは、ご当地“清津峡”と黒部峡谷(富山県中部山岳国立公園内)及び大杉峡谷(三重県吉野熊野国立公園内)であると紹介されている。清津峡の特徴は雄大な景観美を形成している柱状の岩石「柱状節理」であるとされる。柱状節理は岩体冷却の祭、体積収縮によって冷却面に垂直に六角柱状の節理が生じたものとされている。見晴所からは、この柱状節理が間近に見られる様になっている。
次いで“つむぎの里”(新潟県南魚沼市目来:国道17号線)に寄って、塩沢織物(越後上布)に関する糸のつむぎ方や機織り器等々御説明戴いた。その後製品の展示を拝見したが、判子入れがピルケースに代用できそうな大きさだったので1個購入した。紬で作られた男物のワイシャツが有り、スタンドカラーのシャツがあったので、手に取ってみたところLサイズと云うことで諦めた。末端肥大症、腹が出ているなどという体型上の弱点からLLじゃなければ着られないため諦めたが、最近、出来合いのシャツとしてスタンドカラーのシャツを見ないので、欲しかったけど残念だった。
昼食は“つむぎの里”の直ぐ傍にあった“田畑屋”でへぎ蕎麦を食し、一路新宿を目指して帰路に就いた。16:30分、渋滞に巻き込まれることなく、帰着した。
「長寿園闘争の跡」
東京医労連OB会
会長 古泉秀夫
東京医労連OB会の企画にの一つに、大会開催地巡回の旅がある。最後の第6回目の宿泊地は新潟県の湯沢と云うことで、我々も参加した国立療養所長寿園の統廃合反対闘争の後医療として存在する大戸診療所を見学、現状報告を今野義雄常務理事からして戴くという計画を立てた。
長寿園闘争とは、結核療養所であった国立療養所長寿園(70床・群馬県吾妻町)を1986年8月、国立医療機関再編の「全体計画」を発表する前に、突如として1986年度末を以て、国立療養所西群馬病院(345床・群馬県渋川市)に統合すると発表した。寝耳に水の病院勤務者はもとより近隣住民は、医療機関が無くなるということから反対闘争に立ち上がった、その闘争をそう呼んでいた。
この闘争は1984年8月から2000年6月迄、足かけ7年にわたって「地域医療を守れ」という国立療養所長寿園廃止反対闘争が展開された。この闘いは地域住民と医療労働者の共同の闘いとして、数多くの教訓を生みながら粘り強く進められた。この間、東京医労連は組織を揚げて長寿園闘争を支援し、何台ものバスを仕立てて、東京から現地の現地集会に参加し、現地のビラ各戸配布などに参加してきた。
最後には厚生省が入院患者の強制移送を行うと云うことで、我々は長寿園の入り口に部隊を揃えて、強制移送は体を張っても止めると云う体制を作ったが、厚生省は機動隊を配置し、強制排除をする気配が覗えた。組合が動員した集会参加者は、公務員が参加しているため、逮捕者が出れば即首と云うこともあり得るため、各地区及び県医労連の専従書記の諸君に逮捕されるときは貴方たちが前面に出ること等と云っていたが、厚生省が強制移送は行わないと云うことで、部隊を引き上げたので、我々も話し合いに応じることになった。
闘いの甲斐無く長寿園は廃止されたが、その後医療として地元住民と長寿園の労働組合、県内の労働組合が協力し建設したのが大戸診療所である。
(2014.11.15.)