第5回東京医労連 ぶらり戦跡巡り
水曜日, 11月 5th, 2014鬼城竜生
2014年10月7日(火曜日)午後1時に東京駅丸の内南口に集合した東京医労連OB会の16名は、先ず本日の案内人・檜山紀雄さんの案内で行幸通りに出て、本日のコースの概略の説明と、所要時間について説明を受けた。
御幸通りは天皇(御:み)が行幸(幸:ゆき)に際して通行したことを記念して命名されている。外国から来る賓客が皇居に来る場合、東京駅の丸の内中央口から自動車か儀装馬車かどちらかを選ぶことが出来ることになっており、多くの大使は馬車での皇居移動を選ぶという。
再度新装なった東京駅に戻り、丸の内南口を入った北東面左端付近にある壁に、事件の概要を記したプレートがあり、それを見ながら原 敬暗殺事件に関する説明文を参加者全員で読ませて戴いた。それによる1921年(大正10年)11月4日、当時の首相だった原 敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件で、中岡は原首相に対して批判的な意識を持っていたとされる。中岡の供述によれば、原首相が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。その他一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けたことなどもあって、中岡は原首相暗殺を考えるようになったとされる。
しかし、実際にはそんな単純な話ではなく、中岡に対する特別な処遇(3度もの大赦)で1934年には早くも釈放された。戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなどとあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多いとされる。南口から北口に周り、輝くと題した雄勝石絵を見ることになった。重野事務局長の曰わく、岩手県の小学生の『作』ということであったが、説明文によると『平成23年3月11日14時46分に起きた東日本大震災により、東日本沿岸部は甚大な津波被害を受けました。町の中心部が壊滅した宮城県石巻市雄勝町は、硯生産日本一のシュアを誇り雄勝産天然スレートは、平成24年復原完成の東京駅舎に屋根材として使用されています。雄勝町と東京駅の石が繋いだご縁により、雄勝の被災児童生徒による「雄勝石絵」が設置されることになりました。この石絵は東京駅舎に使用されている屋根材同様の雄勝産天然スレートを20㎝角に加工し、1枚ずつ子供達が彩色した108枚を組み合わせ一つの大きな石絵にしたものです。富士山を照らす旭日は勇気の光、星は希望の輝きで大地を照らすこの作品は、被災から復興へ立ち上がる日本を象徴したものです。
この石絵が東日本大震災後の復興と更なる発展・進化のシンボルとして震災により被災した全ての子供達の勇気と誇りの源となり、未来に向けて語り継ぐものとなることを願ってやみません。』
制作:石巻市立雄勝小学校・大須小学校・船越小学校・雄勝中学校・大須中学校
平成23年度在学全児童生徒
原画監修 雄勝石作家 齋藤玄昌實
雄勝石復興プロジェクト石絵教室実行委員会
ゲルニカオリンピックに負ける
次に駅前にある"OAZO"の中に飾られている『ゲルニカ』(Guernica)を見る予定になっていたが、檜山さんの話では、オリンピックの展示をやっていて見れないという話だった。驚いたことに檜山さんは我々を案内する前に、全コースを踏査していたと云うことで、その真面目さというか、責任感に頭の下がる思いである。
ゲルニカは、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中に空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られたタペストリー作品であるとされている。スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われるたいる。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み、6月4日には完成させると云う豪腕を振るっている。
将門塚から皇居東御苑へ
次に徒歩で、三井物産ビルに隣接して祀られている将門塚に御参りした。平将門の首塚とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外地図にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
次いで大手門から皇居東御苑に入った。大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところににあり内側には同心番所が設けられている。この門も本来は枡形門で、両側和水堀だったという。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けた。このことから、この門は下乗門とも呼ばれていたという。檜山さんは城内に入るための“手形”を古道具屋から購入したと云って持参してきていた。次に百人番所が有り、最後に大番所が有り、それぞれに与力・同心が詰めて城内の安全を図っていたという。
現在、再建論議が起こっている天守台は、江戸城本丸の一番北側に位置している。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえる。慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと云われている。店主は五層で、元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にあったという。元和の天守は元和8年(1622)、二代将軍秀忠の本丸改造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成、高さは慶長の天守を上回っていたといわれている。寛永の天守は、寛永15年(1638)、三代将軍家光のとき、元和の天守台に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣になっている。
この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはなかったという。天守台での眺望を楽しんだ後、二の丸庭園に向かった。
二の丸庭園は、九代将軍家重時代の庭絵図面を元に池泉回遊式庭園として復元された日本庭園である。二の丸池は、小堀遠州作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にあると説明されている。その他二の丸雑木林があり、昭和天皇の御発意により都市近郊で失われていく雑木林を復元すると云うことで造成された雑木林が有り、その木々の彼方此方に野生の草が生えており、遅い秋の花々がまだ見られた。それぞれの草花木々には、それぞれ名札が付けられており、小まめに整備されている事に感心した。更に他では見られない、野草が生えており、その写真を撮ることが出来た。季節毎に野草を見る場所として、皇居東御苑は都内では得難い場所になっていると思われる。
本日の総歩行数12,773歩。
(2014.10.8.)