『長寿園闘争-そのずっと後』
木曜日, 10月 2nd, 2014 東京医労連OB会
会長 古泉秀夫
国立療養所長寿園(群馬県中之条吾妻村)は、自民党の得票率が全国屈指と云われる場所にあり、しかも同園所在地の衆議院第二区は、現職の中曽根首相(当時)と福田元首相という自民党の大物を選出議員として送り出した超保守的気質の強い風土の土地柄であり、僅かに70床程度の結核療養所を潰しても何の問題も起こらないと云う思いが厚生省にあったのかなかったのか。
しかし、実際に廃止の話が出ると、当初の目論見は見事に覆され、入院していた結核患者、頼る医療機関がなくなる地元住民は、廃止反対の声を上げ、当該組合である全医労長寿園支部、全医労群馬支部が反対の狼煙を上げた。それに連れて全日本国立医療労働組合、日本医労協(現・日本医療労働組合連合会)、国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)による三者共闘は、地域住民に積極的に働きかけ、地元吾妻町坂上地区を中心に『医療を守る住民組織』を結成し、患者、地元住民、労働者が一体となった大衆行動で、粘り強く戦われた。この様な共同闘争の高まりによってついに厚生省は1986年3月、長寿園を西群馬病院の分棟(35床、職員32人)として残すという形での決着を余儀なくされた。更にその後も厚生省は、分棟を完全に廃止しに持ち込むために、『国が運営する坂上診療所』を設立する等異例の措置を行っているが、存続運動の側も「外来を充実させるため坂上診療所の各科増設」要求を掲げるなど、柔軟で粘り強い戦いを継続している。
長寿園の廃止・統合を巡る闘争は、厚生省の先制攻撃を空振りに終わらせただけでなく、その後に続く国立病院療養所の統廃合・移譲の反国民的性格を地域住民の中に鮮明にしたこと、更に住民の生命と健康を脅かす医療改悪の様な問題については、如何なる保守的な地域においても圧倒的多数が、労働組合と共同して政府に対する戦いに立ち上がり、粘り強く戦うものだと云うことを明らかにした。
「国立病院・療養所の再編成・合理化の基本方針」、「国立病院・療養所の再編成・合理化の全体計画」が発表される前に、この闘争が全国注視の中で戦われたことは、全国の医療労働者と地域住民に計り知れない勇気と豊かな教訓を残すことになったのである。
さてこの闘争に東京医労連は日本医労連関東ブロックの一員として参加したが、東京医労連の執行委員長が全医労関信の副議長という立場と医労連関東ブロックの議長という立場に有り、日本医労連関東ブロック参加組合の先頭に立つという状況にあった。今回、東京医労連OB会は、大会実施県巡りの終尾を飾るものとして、長寿園の後医療を継承した、地域医療の拠点“大戸診療所”を見学し、その後の20年の歴史を伺い、その後、越後湯沢に宿泊すると云う秋の旅行[11月9日(日)-10日(月)]を計画している。
(2014.8.20.)