東京医労連OB会
会長 古泉秀夫
東京医労連OB会の福島連帯ツアー、今年で3回目を迎えた。体力に自信のある現役時代であれば、あらゆる機会を利用して支援に取り組むことが可能だが、体力に自信がなく、また、それぞれが退職後に新たに仕事に就くという状況の中では、思うように行動することは出来ない。
そこでせめて年1回、貧者の一灯と云うことで、福島連帯ツアーを企画し、現地を訪ねることで、少しでも激励できればいいのではないか。更には現地に宿泊することで、福島のものを食べることで、何ら問題はないと云うことを自ら経験し、それを広く語ることで、“語り部”としての役割を果たすということで、地元への協力が出来るのではないかという事での企画である。
今回は福島県東部の太平洋に面した浜通り地方のほぼ中央に位置し、北は富岡町、西は川内村、南は広野町・いわき市とそれぞれ接している“楢葉町”を主たる訪問地とし、富岡町の見学、その後、郡山市の磐梯熱海かんぽの宿郡山へ移動、福島県厚生連労働組合中央執行委員長・折笠由美子氏、坂下厚生総合病院(臨床検査技師)渡部早苗氏(元・双葉厚生病院勤務)のお二人のお話を伺う事になっていた。
5月25日(日曜日)7時40分に新宿を出発した“たけのこ観光”のバス(運転手・長妻氏)に乗車した43名は、一路福島を目指した。尚、今回は日本中国友好協会理事長の他、法政大学の会員の方々6名が参加されていた。
いわき四倉パーキングエリアで、福島県医療労働組合連合会特別執行委員・いわき事務所長の馬上勇孝(もうえゆうこう)氏と待ち合わせて、依頼しておいた弁当を持参頂くと共に、案内人として御乗車戴いた。馬上氏は、放射線測定器を持参しており、お付き合い戴いた間、しょっちゅうカウンターの数値を読み皆に伝達していた。尚、道路の所々に近辺の放射線線量を示す数値が電光掲示板に表示されていた。
馬上氏には楢葉町の宝鏡寺に行くまでの間、現在置かれているこの地域の状況の紹介をして戴いた。
1.震災・原発から
☀福島原発は第1原発と第2原発がある。第1には1~6号機まであり、1~4号機が爆発しました。世界で初めての『原発震災』がもたらしたもの、福島第1原発事故は、広島原爆の20個分、セシウムに限れば168個分という大量の放射性物質を放出した。
1)行方不明者を探すことが出来ない。死体が数ヵ月も置き去りにされた。今なを、行方不明者は2,884人になっている。福島県の犠牲者、死亡1,608人、不明211人、震災後ストレス等で亡くなった震災関連死1,067人です。15万人が今なを日常生活を奪われ、人生を根本から狂わされた。何の展望もないと云う過酷な状況の下に置かれています。
2)福島県の全産業、とりわけ農業と漁業に深刻な損害を与えている。漁業は汚染性の問題で試験操業も出来ず、毎日汚染水の報道です。放射能に対する共通した知識がなかったこともあって、放射能に対する対応の違いは大きく、強いストレスと無益な対立をもたらしました。また地域社会が、同心円で区切られた距離で分断され、賠償金額で分断され、県民間の対立と分断を過酷なものとされた。いわき市の公民館の入口・支所等に「避難民は帰れ」などの落書き、自家用車のパンク、ガラス窓の破損、仮設住宅に花花火の打ち込みが発生した。避難民は外出に気を遣い、外出の回数を減らすために大量の買い物をする。その結果これがまた妬みの原因になっている。
2.福島の今(2013年9月25日の福島民有新聞)
☀202万の県民が194万8597人まで減少した。避難指示区域と人数について
帰還困難区域(年間50ミリシーベルト以上、5年間は原則立ち入り禁止):25,280人。
居住制限区域(20~50ミリシーベルト、2年から5年以内の期間):24,620人。
避難指示解除準備区域(20ミリシーベルト、2年以内の早期帰還):34,000人。
シーベルト(Sv)は放射線により身体が受けた影響を表す単位:1000マイクロシーベルト/hで、1ミリシーベルト/hになる。
ベクトル(Bg)は放射線を出す能力を表す単位。食品は100ベクトル以下が基準。
福島県の避難者は、北海道から沖縄まで、県外避難者52,277人、県内避難者94,629人になる。避難者は避難先を5回は変更している。仮設住宅は狭く、長屋式で隣の声が聞こえる。1人で4畳一間、仮設暮らしは2014年3月で28,000人。最近では震災関連死が増える傾向にある。自殺者148人を含む関連死は1,671人になる。地震・津波で亡くなった直接死は1,608人で、震災関連死が追い越してしまった。自殺者は2011年が10人、12年13人、13年が23人と増えている。原因は避難生活の長期化で、精神的に追い詰められた結果ではないかとされている。商売が出来ない、農業が出来ない、捌け口に酒を呑む、そんな生活が人の精神を冒すのだろうと考えられています。
今回、昼食は楢葉町の宝鏡寺で摂ることになっていた。勿論、宝鏡寺で食事を作るわけではなく、馬上氏が用意してくれた弁当を食べると言うことだが、食事をする場所の提供が出来る程度には回復したと云うことかもしれない。
宝鏡寺は1395年(応永二年)に創建されたと云う浄土宗の古刹で、600年を超える歴史がある寺である。住職の早川篤雄氏は、昭和49年に始まった東京電力福島第二原発1号炉の設置許可取り消しを求めた訴訟の原告団事務局長を務めた方で、最高裁までの長い戦いを続けたと云うことである。氏は現在『原発問題福島県民連絡会代表』を勤められている。
早川住職は『寺の住職として、更には学校の先生として、38年間の楢葉町での平穏な生活について語り、2004年4月からは夫人とともに精神障害者と知的障害者の支援のために4つの施設を作り6つの事業をしていた。障害者は全部で94人になったが、避難生活の中で5人の方が亡くなった。障害者は安心できる自分の居場所と自分に合った作業を手にすると、生き生きと働きます。私たちは、そうした彼らを支援することが生きがいでした。
しかし、こうした努力の全てが、一瞬にして水の泡となった。600年来鎮座してきた御本尊と外8躰の仏像もアパートの押し入れに避難しています。この間、お檀家の中で25人の方が亡くなりましたがお葬式も出来ず、納骨も出来ない方が6名おります。生活の糧となってきたこと、自分の使命と思ってきたこと、心の拠り所、喜び、楽しみ、生き甲斐の全てを一瞬にして奪われました。73歳なので生きている間に元に戻ることはないなあと、朝の目覚めの時等にそんな思いをくり返しています』。
前回伺ったときと、話の中身は大幅に変わったが、日常の平穏な生活を原発事故により奪われたと云うことを理解して貰うと言うことでいえば、『精神的苦痛や損害を加害者が勝手に判断して、その賠償を一方的に押しつけて平然としている東電の態度には煮えたぎるような怒りがこみ上げてきます』という意思表示としては、逆に説得力があるかもしれない。
昼食後再度馬上氏の案内で車上の人となり、東電第2原発入口前を経由し、破壊されたままの常磐線富岡駅(双葉郡富岡町大字仏浜字釜田)に向かう。ことぶき食堂前で下車、駅に向かう道すがらあの時の時間のまま止まっている時計が残る美容室、津波で流された軽トラックが家の中に入ったままの状態の家屋を見学、放射能汚染のために立ち入りが禁止されていたこともあり片付けたくても片付けられなかったと云うことだろう。
海から津波で流された小舟が乗り上げている瓦礫等を見ながら“夜ノ森公園”入口まで。そこから先は通行禁止。馬上氏は今回、我々を案内するための全コースを試走してくれたということで、その時立ち入り禁止の垣根の向から牛が顔を出したという場所も教えて戴いたが、我々の前には残念ながら顔を出さなかった。再度四倉パーキングで馬上氏と別れ、本日宿泊する磐梯熱海に向かった。
到着した“かんぽの宿”では、本日の主題である学習会として、次のお二人の方の講演を伺った。今回演者のお二人から、講演原稿を頂いたので、一切手を加えずに紹介することにしました。
『表現の自由とか云いながらそれと裏腹な表現の責任』を取らない漫画家もいますが、彼女たちの医療人としての責任ある行動、現場にいなければ解らない真実の話を広く知って戴ければ、取材をしたなどという云い訳をしながら無責任な情報を流した方との対比が明確になる。風評被害の防波堤になるのではないかと考えています。
①『東日本大震災・原発事故と福厚労の取り組み』
2011年3月11日東日本大震災、原発事故発生から労働組合の取った行動。
その後の支援と復興対策、脱原発運動について
福島県厚生連労働組合中央執行委員長・折笠由美子氏
福島県厚生連労働組合執行委員長折笠です。本日は福島連帯ツアー参加ご苦労様です。福島の復興のためにいつもご支援頂いていることに深く感謝申し上げます。また、本日はこのような機会を頂きありがとうございます。私ども労組の取り組みと、実際に被災にあった組合員の生の声を伝えることで、福島の現状について、もっともっと多くの人に知って頂き、復興に繋がればいいとの思いでお話をさせて頂きたいと思います。尚、後から話をする渡部さんは、未だもって複雑な思いで毎日を過ごしています。そしてまた震災の事を人前で話すのも今回が初めてです。どうか、そう言った気持ちをおくみ取り頂きながら、聞いていただけたら幸いです。それでは早速私の方から報告させて頂きます。
2011年3月11日金曜日午後2時46分、私は休暇でした。労働組合の事務所は会津若松市にあり、私の住まいはそこからさらに17km西の会津坂下町にあります。その日私はフィットネスクラブにいました。最初、ゆっくりとした揺れが来て「アッ地震だ!」と思いましたが、すぐに収まるだろうと思っていました。しかし揺れは次第に大きくなり尋常ではない地震の大きさに恐怖を感じました。私は足がすくみ大きなグリーンの鉢植えにしがみ付きしゃがみこんでしまいました。やがて地震は収まり、ホッと胸をなで下ろした時、同施設内にあるプールの水が大量にあふれ、全館に流れこみ施設は閉館となりました。今までにない大きな地震だったことを実感し帰宅を急ぎました。自宅に被害はなく、家族も皆無事でした。
テレビを見て、大きな津波の被害が岩手、宮城、福島の三県で起き、福島の浜通り地方は大変なことになったと思いました。病院の様子を聞こうと福島市にある会本部に電話をしましたが繋がらず、理事長の携帯に電話をしました。JAビル10階にある会本部も大変なことになっていること、各病院の状況がまだ詳細に掴めていない事、明日状況を確認することを話して電話を切りました。しかし、翌日から全く電話は繋がらなくなりました。
なんと言っても被害の大きかった双葉郡双葉町にある双葉厚生病院と、南相馬市鹿島区にある鹿島厚生病院の状況や組合員のことが心配でした。危険な状態にあると発表された福島第1原発から3kmに立地する、双葉厚生病院労組双葉分会の松崎分会長に電話をかけ続けました。余震も続く中、12日の朝になってようやく連絡がつき、病院は大変な混乱状態にあると聞かされ、とにかくしっかり対処するよう励ましましたが、何も出来ないもどかしさに歯がゆいばかりでした。厚生連本部には全く連絡がつかず焦る思いがつのりました。そしてとうとう原発の爆発が起きました。そのことをニュースで知った時はまるで夢を見ているようで、映画の世界ではないかと思ったほどです。
翌日になっても理事長との連絡はつかず、労組三役は直接行くことを決意しました。90kmの道のりを一般道を通り何とかたどり着きました。
全てが目茶目茶に倒れ、天井が落ち、配管がむき出しになっている会本部に理事長と常務が茫然とした姿でいて、私達が駆けつけたことに驚いていました。ライフラインは断たれていました。「双葉は事務長と部長が現地で対応している。明日災害対策本部を立ち上げる」と言うことでした。「これから、双葉職員と患者さんが避難している二本松に行こうと思う」と告げたところ行けないだろうと言われました。今思えば、その日の内に何としても駆けつければ良かったと後悔しています。
一方、南相馬市にある鹿島厚生病院は、原発からは33km、海岸からは3kmにあり津波の被害は免れたものの、建物の被害による患者の移動、または被災しケガや死亡した人が搬送されてくるなど、やはり混乱を極めていました。労組三役は福島から60kmの鹿島に向かいました。比較的道路の破損がないところを通りたどり着きました。
スタッフは混乱の中、働いていましたが、顔を見ることで安心したのを覚えています。病院4階の屋上からのぞむ光景は信じられないものでした。津波が襲った防風林はそこだけすっぽりと抜けてくっきりと海が見えました。海岸から2kmの国道の手前まで津波が来ていました。国道から先は瓦礫の荒野でした。
双葉厚生病院は4月より地域医療再生計画に基づいて、やはり原発のある隣の大熊町に立地する県立大野病院との統合が決定していました。運営するのは厚生連で、統合を間近に控え、人事交流もしながら慌ただしく準備を進めいてた矢先でした。松崎(双葉厚生病院分会長)とはかろうじて連絡はとれていましたが、爆発による避難で混乱を極めている様子でしたが、気丈に対応していました。
3月14日、組合は災害対策本部を立ち上げました。組合員の安否の確認と被災状況の把握、支援、会本部との連携を当面の活動目的としました。組合は今後の対策について協議し方針を決定ました。春闘は一旦打ち切りにすること、しかし定期昇給は実施させること。職員全員の雇用を守ること、避難中の休暇の扱いは原発事故による特別なものとして長期間とする事などを決議し、会と協議することとしました。
福島第1原発より40kmの川俣町鶴沢公民館が双葉厚生病院の避難所となりました。職員、患者、住民が一緒のところに避難しました。後から来た職員が入れず、他の場所を探なければならない人もいました。狭い場所での雑魚寝でした。小さい子供を連れて避難した職員もいました。
一方、原発より50kmの二本松市の公共施設(男女共生センター)にも職員、患者が避難しました。職員や患者は避難の途中、屋外で爆発に合い被曝しました。避難所に隔離状態となりました。避難所でスタッフは自ら被ばくしながらも、究極の精神状態で不眠不休で患者さんを看護しました。被曝した人がみんな運ばれてきて自分の病院以外の患者も看護しました。他から応援にきた医師は防護服をつけていても職員にはありませんでした。
組合は直ちに炊き出しを行い、避難所にいる双葉職員に取り合えずの物と一緒に届けました。駆けつけた私達は避難所の中には入れず、ガラス越しに顔を見て安心して涙を流すばかりでした。必要物資を聞き取り、翌日届けることを約束しましたが、その頃、買占めによって物資は不足していました。
しかし、新潟県厚生連労組に依頼したところ、その日の内に直接運ばれて来ました。お陰で翌15日、避難所2カ所に届けることが出来ました。ガソリンも入れられず80km離れた避難所までタクシーで往復しました。災害対策のための資金は、組合の特別積立から災害対策費として計上しました。中通り、会津地方の厚生連病院職員からも物資の提供がありました。また、義援金も募りました(厚生連の病院は県内に6つありました。浜通り地方の双葉・鹿島・県南地方白河・塙、会津地方の会津坂下・高田です)。東日本大震災被災者のための、街頭募金活動にも取り組みました。
二本松では、被曝した職員や体調の悪い患者さんも、高圧のシャワーをかける除染を、自衛隊が設置した屋外のテントで何度も受けました。17日、全ての患者さんの受け入れが決まり双葉職員は解散となりましたが、病院にも家にも戻ることが出来ずばらばらに避難しました。
一方、鹿島厚生病院は、屋内退避となった30kmからわずかに外れるため、診療継続となりましたが、放射能に不安を抱える職員はパニック状態となりました。避難は自主判断に任せるとの院長の指示により、若い人を中心に、3分の2程が避難してしまいました。
正直に言えば、当初、双葉でも鹿島でも、爆発事故が起きてから、早々に避難した人と、残って業務に従事した人との間で心のわだかまりがあったのは確かです。しかし、後になって避難した人も、その時の状況や、葛藤の中で選んだ道であることが理解され、またしこりなく一緒に働くことが出来ています。反面、初めて起きた原発事故による災害時の対応の複雑さを感じました。
スタッフ不足に陥った鹿島では、診療が不可能となり、患者や利用者を関連施設や他の病院に移しました。受け入れ先を探し、夜を徹して患者の移送が行われました。
病院のベッドは空っぽとなりました。大変な思いで患者さんを無事送り出した職員の顔からは安どの表情が見られました。
地震発生から約二週間後、重要書類や必要物品などを持ち出すために、特別に病院に一時的に入ることが許され、管理職は防護服を身につけ双葉厚生病院へ向かいました。患者を搬送したあとのままの駐車場でした。厨房では、避難前までは病院に患者さんがいたので、ガスや水道が使えない中、簡易ガスコンロ4台で非常食を温めたり、ありあわせのもので食事を提供をしていました。
組合は全職員の被災状況と安否の確認を行い、組合員の相談を受け付けました。当面の生活の心配などの相談が多くありました。組合は全職員の被災状況と安否の確認を行い、組合員の相談を受け付けました。当面の生活の心配などの相談が多くありました。職員のいる避難所への慰問も行いました。
災害対策ニュースを震災直後から毎日のように作成し、被害の状況や組合の取り組みなど、全組合員に情報発信しました。後にこのニュースは会本部の情報よりも、状況がよく把握出来たと各病院の院長などからも評価を得ました。
しかし、産休中の若い看護師さんが遺体で発見され、赤ちゃんも亡くなったとの知らせを受けた時には言葉になりませんでした。避難所には出産を控えた組合員もいて不安を隠しきれない様子でしたが、後に無事赤ちゃんが誕生したことは明るいニュースとなりました。
双葉厚生病院の事務所はJAビル4階に設置され、避難所となった隣接のJA研修センターに宿泊しながら勤務を継続しました。そんな中、追い打ちをかけるような報道が流れました。患者を置き去りにして死亡させたと言う、別の医療機関と間違われての報道でした。後に訂正されましたが職員は怒り深く傷つきました。後にこの病院も故意に置き去りにしたのではないことも判明しましたが、震災時のマスコミの報道の在り方にも疑問を投げかけたい出来事でした。研修センターには日本医労連からの慰問と、農民連から食材の提供がありました。こうした励ましを支えに頑張ることが出来ました。
その頃、全国の仲間から続々と激励のメッセージが届きました。組合は会と協議し、罹災休暇は地震発生の翌日から1ヶ月間とし、双葉職員は残る厚生連5病院に希望に応じて勤務させる。年度末手当を支給、定期昇給は実施する。定期人事異動は延期、採用内定していた100名余りの新採用者についても、採用取り消しはないとしました。
統合のため県立病院から異動する職員に対して、組合の説明会を震災前日の3月10日夜に大野病院で行っており、組合三役が出向いていました。あの時地震が来なくて良かったと思った自分に罪悪感を抱きました。
結局210名いた職員で残ったのは130名、80名が厚生連を去りました。また辞退する内定者もいました。全員の雇用は約束させたものの、原発事故と言う今までにない異例の事態に対応の困難さがありました。家族の都合や本人の意志で県外へ避難する人もいて、多くの退職者を出してしまったことは労働組合として非常に残念な思いです
双葉職員は徐々に新しい居住場所を確保しました。しかし、生活を始めるにも着の身着のままで飛び出し何もありませんでした。全国の仲間から集められた義援金を一刻も早く届ける必要があると考えました。まず双葉職員に激励しながら手渡しで届けました。他の病院には全壊から一部壊まで被災した230人全ての組合員に義援金を届けることが出来、大変感謝されました。組合の持つ組織力と結びつきの強さが示されました。
しかし、入院については国から、南相馬市は避難準備区域にあるため、5床のみ72時間以内の制限が出ていて、多数の受け入れは出来ませんでした。鹿島は避難準備区域から外れ、職員も不安はあるものの落ち着きを取り戻し、ほぼ元の人員体制で受け入れが可能になっていたのに矛盾を感じました。このことは報道でも取り上げられました。県への要請で鹿島厚生病院は制限が解除され5月1日より、受け入れが可能となりました。施設へ送った入所者も鹿島の老健施設に戻りました。他病院へ送った療養病床の患者さんは希望者のみ受け入れ、地域の状況に合わせ全床一般に切り替えて対処しました。この頃30km 圏内の医療機関ではまだ制限が解かれておらず、地域の救急、入院診療の要となり重要な役割を果たしました。
今回の震災で各医療機関は甚大な被害に合いましたが、加えて福島厚生連は原発事故による放射能の影響で、異例で深刻な状況に曝され、当面の経営と先行きについての心配がありました。地域の復興は除染も充分に進まない中、長期間を要することは否めませんでした。労働組合としても国や県への働きかけが重要と考えました。4月18日に厚労省、農水省で第1回目の交渉を行いました。福厚労から役員13名が参加しました。厚生省には厚生連病院にも自治体病院と同様に再建に対しての財政措置を取ること、原発事故に関わる医療機関の労働者の雇用を保障する制度を設けることなどを訴えました。双葉厚生病院が原発から3kmの位置にあり再開までの見通しが全くたたない事、職員自ら被ばくしながら患者を避難させ公的医療機関としての使命を果たしたことなど生の声で伝え、対策を講じるよう訴えました。
農水省では固定比率からの適用除外、再建に対しての財政支援措置、原発事故にともなう特例の措置を取ること等を訴えましたまた、7月には県交渉、2度目の厚労省交渉を行い、現状を伝え、地域医療再生に向けて働きかけを行いました。
5月、家族と離れ単身でいる人、遠い避難所から通勤している人など様々な困難の中で、双葉職員は慣れない病院で不安を抱えながら勤務していました。家族を亡くし思い出しては毎晩泣いている人、地震の時の恐怖が頭から離れない人、今後の生活の心配、故郷に帰りたい願い、双葉職員の胸中は計り知れない大変な思いでいっぱいでした。こうした背景から、早く落ち着いた気持ちを取り戻し安定した生活が送れるようにと、労働組合は各分会で相談会や励ます会を催しました。
少しでも慰めになり、一瞬でも笑顔を見せてくれたことにホッと胸を撫で下ろしました。また、放射線量を心配する組合員のために、当初まだ高額だった線量計を組合で購入し各家庭を回しました。
松崎分会長は震災からしばらくたって一時帰宅しました。分会事務所もめちゃくちゃでした。 組合事務所の看板を持ち帰りました。墓地跡には片方だけの靴が転がり、誰がたむけたのかお花と線香がそっと置いてありました。
組合本部では、機会を作って被災地にたびたび出かけました。組合員にもバス視察等を促し、実際に目で見て、未だに復興できない原発事故の悲惨さを感じてもらい、運動に結び付けたいと考えました。南相馬市鹿島区の海岸には震災以降何度も足を運びましたが、震災当初は生活の軌跡が色濃く残っていて、いたたまれない思いでした。
本日、皆さんが視察してきた楢葉町等にも機会ある毎に出かけていますが、写真は主に南相馬市の様子です。下はほとんどの入所者が津波にのまれ亡くなった施設です。再開の見通しは立っていません。
南相馬市小高区は、南相馬市の中でも線量が高い地域で、昼間は行く事が出来ても寝泊まりは出来ません。少し前までの様子です。現在は除染を進めていますが、ライフラインはまだ整備されていません。今回の原発事故で国の安全神話は完全に崩れ去りました。脱原発に向かって今度こそ大きなうねりを起こさなければなりません。各地でその運動は広まっています。
双葉職員の4分の1程が、家族の中の誰かが東電関係で働いていました。そのため原発反対の運動は広がりにくい状況にありました。しかし、今回のことで大切なものが失われ、安全は何事にも変え難いことがはっきりしました。県は脱原発を明確に打ち出した復興計画を決定しました。
東電本社や福島で行われた東電交渉にも参加し、東電と国の責任を追及し、災者に対する十分な保障を求めています。一方で新エネルギー対策や雇用の問題など、課題は山積しています。地域医療と雇用守る責務が私達医療労働組合にはあると考えます。今後も出来る限りの運動をして行く決意でいます。
そんな時、ふと、私達は励まされ助けられてばかりいたと気づきました。何かをしなければと思い、津波被害がひどかった南相馬市で、被災地支援活動を行い瓦礫撤等の作業を実施しました。震災から毎年行っていて、今年も行う予定です。
復興センターと共に仮設住宅へ訪問、物資の支援、調査活動等も行いました。仮設住宅で避難生活を送る方々との交流会も催しました。渡辺(本日の演者)さんも参加しています。
現在、私達厚生連職員は、残された5病院で頑張っています。避難準備区域が解除になり、鹿島病院は通常通り診療をおこなっていますが、前にも増して医師、看護師不足が続いています。また、南相馬市では現在、高齢化が進み、仮設での孤独死など災害関連死が後を絶ちません。介護需要の高まりを受けて、鹿島厚生病院老健施設「厚寿苑」はそれに対応するため50床を100床に増やし新築移転しましたが、介護職員の不足で入所を制限せざるをえない状況です。
現在も、放射能の不安や家庭の事情で職員が辞めていきます。もと双葉職員は80名ほどになってしまいました。今悩んでいる人がいる中で、交流をはかってもらい少しでも励みになる場として、病院は休止しているものの、双葉分会は解散をせずに継続し、代表者会議を開いたり、交流会や定期大会を開催しています。採用試験をしても応募は少なく、福島県全体でも、医師、看護師、介護職不足は以前にも増して深刻です。だからこそ今いる人を辞めさせない対策が必要です。離職防止のためには賃金や労働条件の改善が必須です。秋闘や春闘の中で改善を求め運動を強めて行きます。
今回起こった未曾有の震災で当初労働組合も動揺を隠せませんでした。しかし考える間もなく行動に出ました。通信網が途絶え情報が入らない中、まずは現地に向かうことを、この目で状況を確かめることを優先しました。そこから何をするべきかを考えました。そこにマニュアルはありませんでしたが、行動力と団結の力で頑張る事が出来ました。新潟で開催された日本医労連医療研究集会でのシンポジュームで、被災県として発表した時に、金沢大学の井上先生は行けるのであればまずは現地へ向かう事が大切だと評価されました。しかし、今回のことを教訓に、災害に備え万全の体制を講じる必要があるのも確かです。
また、何よりも全国の仲間の支援は大きな励みになりました。組合って本当に素晴らしいなとつくづく思いました。
最後になりましたが、震災以降、機会ある毎にこうして福島を応援してくださっている皆様方のためにも、これからも出来る限りのことを頑張って行こうという、新たな決意を表明して、私からの報告を終わりたいと思います。清聴ありがとうございました。
②『思い………あの時の私、あれからの私』
原発事故が起き故郷を追われてから3年以上が経過する中での心の変化と現在の思い
坂下厚生総合病院臨床検査技師・渡部早苗氏(元・双葉厚生病院勤務)
本日は福島にお越し頂きありがとうございます。バスで楢葉や広野そして富岡まで足を運ばれたとお聞きしましたが、その光景はどのように映りましたか。また、この3年間色々な形で御支援頂いたことに感謝申し上げます。
さて今回、このお話を頂いたとき、果たして私のような者がお受けしていいのかどうか大変悩みました。震災から既に3年が経過したわけですが、私自身前向きに頑張っているとは云えず、我が家の復興も殆ど進んでいない状況です。そんな私が皆様の前でお話しできるような内容も、且つ立場でもないと思ったからです。ただ、ドンドン前に進んでいる人も居るけれど、私のように中々進めない人も居ることを知って貰うのも良いのではないかと、お受けしました。
私にとって東日本大震災というより、それに伴って起こった原発事故が大きなウエイトを占めているので、前半は原発との係わりについてお話しします。後半は我が家の状況と、私の思いを聞いて戴こうと考えています。
私は昭和33年5月31日大熊町大川原と云うところで生まれました。現在55歳ですが物心ついたときから原発は私の隣にあったような気がします。小学校時代に原発誘致・建設。中学校時代に1号機の試運転が始まったと記憶しています。建設に際しては反対運動もありました。当時私の父も慎重派だったのでしょうか。近所の人が「出稼ぎしなくて済むし、生活も楽になっペ」と云いに来たり、社会党だった福島県議の下に足を運んだりしていました。私は父のバイクに乗っかって出かけるのが大好きで、この時も隣町まで行ったのを覚えていますが、話の内容は何だったのか分かりません。小学校の教室では、「ここは大きな地震がないから原発出来るんだって」と話していたので、各家庭でもそれなりに話題になっていたのでしょう。ただ貧しかった町の選択肢は一つでした。
建設が始まると、特急電車が止まり、駅で外国人の技術者等を見かけるようになりました。原発近くに彼等の住む場所が出来、アメリカ村と私たちは呼んでいました。男の子達は遊びに行き、片言の英語を教室で披露していました。女子達は、反対に向こうの子供達にからかわれて帰ってきたと信じて疑いませんでしたが、程なく立派な東電の社宅が出来、職員の御子息が転校してきて、一緒に勉強しました。
ずーっと後になると、原子力サービスセンターで、原子炉の仕組みを習い核分裂・制御棒などの単語を覚え、如何に安全かをアピールされ、子供を連れて行って遊ばせたり、映画を見たりしていました。お菓子や観光会社にもアトムという名が使われ、それが普通のこととして、そこにあったのです。私たちは将に、原発と共に生活していたと云えます。
そして今回の事故です。私は生まれ育った原風景と大熊小学校、大熊中学校・双葉高校と3つの母校も失いました。崖を削って建てたから、非常電源が地下だったから、耐久年数を守らなかったから………いろんな事が叫ばれていますが、危機管理が甘く、人災であることは確かであり、とても悔しく、複雑な思いでなりません。失ったものの代償は物理的にも精神的にも大きなものとなり、取り返しの付かない事態を後世に残すことになったのが、何より悲しいです。
震災当日は、職場の双葉厚生病院にいたので、そのまま病院に泊まり、翌日は患者様と一緒にバスで川俣と云うところの公民館に避難しました。病院での避難の状況は今回はお話し致しませんが、公民館から福島の知人宅、埼玉の親戚、今の会津坂下町のアパートへと転々と移動してきました。
震災から10日後に初めて自宅(南相馬市原町区)に戻ったときは、家の周りの惨状に唖然としました。瓦礫が散乱し、風景が一変していました。海に近い集落が跡形もなく消え、今まで見えなかった海が、波飛沫を上げているではありませんか。
当時私の家族は5人でしたが、子供二人は共に大学生のため水戸と浦安でアパート住まい。私と夫、義父の三人で義父の弟宅に避難。その最中の4月6日に夫を突然亡くし(後に災害関連死と認定)、義父を置いて1人今のアパートへ移ってきました。一年目は本当に夢中でした。夫を亡くした悲しみに浸る間もなく、全ての環境が変わりました。仕事も覚えなくてはなりません。慣れない生活の中、週末には段々弱っていく義父の元に通い、平日は会津若松に避難している実家の両親(こちらも避難中の体育館暮らしが祟ってか父が動けなくなりました)の元へ。子供達も出遅れた就職活動に入りました。近所の方や親戚との連絡や安否確認。役所からの連絡や手続き。相談する夫もいなく、一人で決めなければいけない辛さ。
その中で支えとなったのは労組の支援や職場の方達、そして共に双葉から来た仲間です。双葉の人達とは仕事帰りに顔を合わせると1~2時間の立ち話はざらでした。その仲間がドンドンいなくなる今の現状は、とても厳しいものがあります。また、仕事をしている時だけは被災者ではなく、臨床検査技師としての自分でいられたのも救いでした。
原発事故から1年半くらいたった頃でしょうか。仕事帰りにふと見上げた夜空に星が輝いていました。星はズーとそこに輝いていたはずだったのに………。それに気付いていなかったのです。下ばかり見てきた自分が、少しだけ顔を上げることが出来た瞬間だったのかも。涙がぽろぽろあふれて止まりませんでした。
それでも原発のニュースや被曝の話には耳を塞いできました。今でも一方的なマスコミ報道は聞きたくも見たくもありません。
3年が過ぎ、来年からは私の自宅のある地区はもう住んでも良いそうです。近所の方々は着々と準備を進めています。中には長期宿泊をしている御家族もいます。我が家は全然です。新築途中の家がドンドン傷んでいくのをただ見ているだけです。これまで住んでいた母屋は壊します。子供達も関東に就職し、義父は介護状態になり老健施設に入所しました。自宅の原町に戻っても、老後は一人です。広い家も必要なくなり、夫や子供・孫と暮らす第二の人生も奪われました。世の中は、やれ復興だ、前向きにと云います。同じ人生なら楽しく暮らしたほうが良いのは分かります。誘われれば出かけ、会津にいるので観光もします。でも地に足が付いていません。あれからずーっと一人旅を続けているようです。これからも一人旅が続きます。心の平穏はやってくるのでしょうか?。今はまだ、現実逃避しています。せめて定年までは自分に猶予を与えてもいいですよね。
以上、こんな私の拙い話を聞いていだだき感謝致します。皆様の前でお話しすることで改めて自分を見つめ直す機会を頂きました。こういった小さな積み重ねが、少しずつ自分を取り戻すために必要なことかもしれません。
今日の講演の場所を頂いたことに感謝し、明日も楽しい旅であることをお祈りしております。本日はどうもありがとうございました。
5月26日(月)
翌日9:00かんぽの宿を出発。9:30高柴でこ屋敷到着。高柴でこ屋敷は伊達政宗の正室愛姫の生家、三春城主田村氏の四天王の一人で橋本家の祖先が今から三百年ほど前に武士を離れてこの地に帰農し、「大黒屋」の屋号で信仰、縁起物などの土人形作りを始めたのが起こりだとされている。その後和紙を用いる張り子人形へと発展改良されたものだという。三春人形は次々と独創的な人形を生み出し、江戸時代の中頃には天下の名玩と謳われたという。「でこ」とは張り子の人形の事だという。
11:10白川フラワーワールドに到着。チューリップやジャーマンアイリスなど多種多様な花の競演のはずが、チューリップは全て花を摘まれ、ジャーマンアイリスのみがのさばり返っていた。ジギタリスの花が咲いていたと後から聞いたが、残念ながら気が付かなかった。12:10昼食のため日本蕎麦の専門店「新駒本店」で昼食。16:00新宿着。今回は全行程全員何事もなく、無事に過ごすことが出来、更には直接現場で苦労した方々の話が聞けて充実した旅行になった。参加された当会会員、日中友好協会の会員の方に感謝申し上げます。
(2014.6.5.)