『郡上踊り』
日曜日, 10月 27th, 2013鬼城竜生
三十年ほど昔の話になるが、岐阜出身の仲間と呑んでいるときに、岐阜に有名な踊があるんじゃないかという話になった。盆踊りで“郡上踊り”というのがありますよ。1ヵ月位踊が続いて、途中で3日間徹夜で踊る日が挟まる。凄いね一度見てみたいけど、泊まるところは取れるのかしら。踊の期間中は、簡単に取れないかもしれませんね。
こんな遣り取りで終わって、そのままになっていた。それぞれ病院に勤務しており、休みも思うようには取れない。更に病院に勤務する労働組合の役員と云うことになると、自由に使える休暇などと云うのは考えられない。で、この時の話は遠い昔のこととして忘れてしまっていた。
突然、“郡上踊り”見に行きますか。行くなら計画立てますよと云う声が、突然とっさんから掛かった。いいね。永年の懸案だから行きましょうか。ということになった。そのうちFAX.で行程表が送られてきた。『東京医労連OB会有志-長良川温泉~白川郷~郡上八幡の旅相談メモ』なる長い名前の企画書である。
それによると8月4日(日)長良川温泉・鵜飼、5日(月)白川郷・郡上八幡-盆踊り、6日(火)郡上八幡見物・帰京という日程が組まれていた。8月4日東京駅新幹線中央乗り換え口に集合、9:03発の⑤号車に乗車と云うことになっていたが、当方は品川から乗ると云うことで、速めに⑥号車の指定券を手に入れておいた。11:09着名古屋、新幹線駅地下(エスカ街)で昼食。以後レンタカーで行動を開始する。
最初に寄ったのは国宝犬山城である。犬山城は木曽川沿いの高さ約88mほどの丘に築かれた平山城であるとされる。犬山城の別名として『白帝城』とする記載が見られる。白帝城の命名者は伝・荻生徂徠とされており、木曽川沿いの丘上の城の佇まいを中国・長江流域の丘上にある白帝城を読んだ李白の詩「早発白帝城」に因んだものとされている。犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文六年(1537)に木之下城を移築したものと伝えられている。江戸時代初期にかけて城主は目まぐるしく入れ替わったとされている。天正十二年(1584)小牧・長久手の合戦の際には羽柴秀吉が大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦ったとされる。江戸時代になり元和三年(1617)尾張藩付家老・成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が代々受け継ぎ、幕末を迎える。明治維新で城は廃城となり天守閣を除いて櫓や門の大部分は取り壊され、県立公園となった。明治二十四年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害を受けた。同二十八年(1895)愛知県は修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡した。昭和三十四年(1959)伊勢湾台風等で天守の破損が激しくなったため、全面的な解体修理が行われた。
天守は昭和十年(1935)国宝に指定され、昭和二十七年規則改正に伴い再指定された。天守の創建年代は天正頃(1573-92)、慶長五年(1600)-六年等幾つかの説があるが現存する天守の中では最も古いと云われているとされる。平成十六年(2004)まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在では犬山城天守は犬山城白帝文庫の所有となり犬山市が管理を行っている。
膝の関係で階段は怖いので城は外観だけを見学し、城の敷地に繋がっている神社を廻り、御朱印を頂くことにした。城に登る途中にあるのが三光稲荷神社である。御祭神は宇迦御魂大神、猿田彦大神、大宮女大神(天之受売命)の三柱で、城山の麓に位置する歴史ある神社であるとされる。
三光稲荷神社の創建は明らかでないが、天正十四年(1586)の伝承があり。犬山城内三狐寺山に鎮座(現在の丸の内緑地公園内)、織田信康公の崇敬殊に厚く、また犬山城主成瀬家歴代の守護神として天下泰平、五穀豊穣、商売繁盛、交通安全の祈願を籠め数々の神宝を寄進される。現在の地には、昭和三十九年十月に移築したとされる。猿田彦大神を祀る猿田彦神社は犬山猿田彦神社ともいい、三光稲荷神社の境内社であるが、独立した存在である。御朱印は三光稲荷神社と猿田彦神社の二社に分けて記載してくれた。なお、三光稲荷神社には、御神水でお金を洗うとお金が増えて戻ってくるという、銭洗い信仰の流れをくむ銭洗いの池がある。100円でろうそくを求め、貸し出し用の笊を持って、蝋燭に火を灯し、灯りを稲荷神社に捧げた後、笊にお金をいれて洗い清めるとお金が何倍にもなって戻ってくると云うものである。
三光稲荷神社と地続きにある針綱神社は、延喜式神明帳所載の式内社で、本国貞治本には従一位針綱明神又同元亀本には正一位針綱明神とあり、太古よりこの犬山の峯に鎮座され東海鎮護、水産拓殖、五穀 豊饒、厄除、安産、長命の神として、神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守であったとされる。中興織田信康公市内木の下城を社地に移築せんと御奈良天皇の宣旨を蒙り、天文六年(1537)八月二十八日、市内白山平(城の東方にあるお山)に遷座し奉った。爾后69年を経た慶長十一年四月八日、更に市内名栗町に遷座し奉り、城主成瀬氏代々の祈願所であったという。明治維新の後同十五年年九月二十八日名栗町の座地より天文六年迄座地であった現在地に御遷座になり、戦前は県社とし戦後は宗教法人針綱神社(尾張五社の一つ)として近隣の崇敬を集めている。
針綱神社の主祭神は『尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)』である。相殿神は大巳貴命(おおなむちのみこと:大国主命)、記紀神話の国造りの際に全国を回って国土開拓に協力した神とされる少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っている。なお八幡神(応神天皇〔品陀和気命〕)を明治四十二年に合祀したとされる。この神社には天文六年織田信康が自ら木の犬を彫り延命長寿、安産を祈願したという、犬が祀られている。安産の神と云うだけではなく、命の神として出征する兵士や家族の参拝が後を絶たなかったという。
この後、岐阜を目指して20kmの車旅を続け、今夜の泊まり“十八楼”に車を預け、岐阜城を目指した。岐阜公園内を突っ切り山麗駅から金華山山頂駅に、その後山道を登って岐阜城まで、途中閻魔堂があり、多くの“福閻魔”と云う旗指物が並べられていたが、鬼門・悪病よけ、商売繁盛のご利益があるとされている。但し残念ながら堂内の閻魔像は観られる様にはなっておらず、どういう閻魔かは不明である。ただ、福徳円満な笑みをたたえた木造の尊像だという話がある。
金華山山頂に位置する岐阜城は、配布されていた半截によると、嘗て稲葉山城と称していたという。1201年、鎌倉幕府執事二階堂行政により初めて砦が築かれた。更に戦国時代には、斎藤道三の居城であったと云われている。ただし、岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567)八月、織田信長がこの城を攻略、この地方一帯を平定すると共に、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからだという。しかし慶長五年(1600)八月、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城した。
翌慶長六年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移築された。現在の城は、昭和三十一年七月、岐阜城再建期成同盟によって復興された物で、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で、延べ 461.77m2 棟高17.7mの威容を誇っている。城内1階は「武具の間」、2階「城主の間」、3階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台として岐阜近郊を含めた壮大な眺望を楽しむことが出来る。
今夜宿泊する“十八楼”は、万延元年(1860)創業の古い旅館で、貞亮五年(1688)俳聖芭蕉が岐阜を訪れた際、長良川畔にあった水楼を「十八楼」と名づけ、かの有名な「十八楼の記」を記したという。この十八楼の記は地域にとってもかけがえのない誇りとなり、子に孫に語り継がれていた。その後170年余を経た江戸時代末期、この誉れが忘れ去られていること悲しんだ当館の先祖が、地域の宝を再興しようと一念発起し、万延元年(1860)に自らの旅館の名前を「山本屋」から「十八楼」に改名したことが紹介されている。芭蕉の作とされる俳句は
『このあたり目に見ゆるものは皆涼し』
『またやたくひながらの河の鮎なます』
夕食は鵜飼い船の上でと云うことだったが、海の屋形船と違い、川船は狭く出来上がっているという思い込みがあり、酒も飲むと云うことで、カメラは置いていくことにした。所で長良川の鵜飼いの最も古い史料は、大宝二年(702)の各務郡(かがみごおり)中里の戸籍「鵜養部都売(うかいべめづらめ)」の記事で、このことから美濃の国の鵜飼いは1300年の歴史があると云われている。
鵜舟の全長約13m、先頭に10-12羽の鵜を同時に操る「鵜匠」、その後ろには助手として「なか乗り」と、 舟を操る責任者の「とも乗り」の計3人が乗ってい。船の先端には篝棒を支柱として篝(かがり)に刺された松割木に火が付けられ篝火として鵜の働く場を照らしている。この火は鮎を驚かすためのものだとされている。勿論この船に観客が乗る訳ではなく、客が食事をする船は観覧船として用意されており、真ん中にテーブルがしつらえてあり、客は向かい合わせに座って食事が出来る様になっている。
驚くべきは長良川の鵜匠は、日本で唯一、宮内庁式部職鵜匠の地位を授けられているという。つまり国家公務員ということである。現在岐阜市には、6人の鵜匠がおり、世襲制でその技と伝統が受け継がれているという。“十八楼”から船着き場までは、鵜飼小路を通って船着き場の鼻先に出ることが出来、甚だ便利であった。
翌5日は9時に出発して世界遺産白川郷へ、白川郷で見学と昼食、16時位までに郡上八幡に着き、郡上八万条を眺めることになっていた。まず白川郷に到着。驚いたことに独逸の建築家ブルーの・タウトが、昭和10年に、その著書『日本美の再発見』に紹介したのが世界的に白川郷が知られる切っ掛けになったと云うことであるが、日本人が白川郷をそれなりの目で見るようになったのも、それが切っ掛けになったのではないかと思える。
白川郷全景の撮影スポット、荻町城跡・城山天守閣(展望台)から見える風景は、確かに見るからに感動する。しかし、住んでいる人は大変だろうなと思わざるをえない。あの合掌造りの建物を維持しなければならないというのは、甚だしく神経を使うことだろうと推察する。更にあの屋根の葺き替えは、材料の確保から職人の技術維持まで、たまったものではない。今でも『結』は生き残っているのか。村内を適当に歩き、その後合掌造りの“基太の庄(きたのしょう)”で昼食。イワナ塩焼きと濁り酒を貰い、昼食にした。
昼食後、最後の目的地である郡上八幡に向かった。今回の主たる目的は郡上八幡の盆踊りを見ることで、日本三大盆踊り-阿波踊り(徳島)・西馬音内盆踊り(にしもないのぼんおどり)(秋田県)・ 郡上踊り(岐阜県)-の一つである郡上踊りを見ることが目的だった。
先ず長良川鉄道-越美南線の郡上八幡駅に行き、車で市内を見学しながら本日の宿-積翆園に向かった。積翆園の庭にも郡上踊りの屋台が組まれており、ここにも踊りに来る人が居ると云うことだった。今年の郡上踊りは7月20日(土)-8月24(土)。8月12日徹夜踊前夜祭午前1時頃まで、8月13日・14日・15日徹夜踊午前4時頃まで。驚くほどの長期にわたる踊の期間が、郡上踊りの特徴の一つである。
更に驚いたことに積翆園は郡上宝暦義民の顕彰を行っており、この時期法事と踊りの奉納をすると云うことで、玄関前に祭壇が置かれ、御参りして下さいと云うことで、線香を上げさせて戴いた。ホテルの庭にはこの一揆で有名になった“唐傘連判状”の碑が置かれていると云うことであった。
郡上一揆と云うのは、石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった。裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになったと云う大きな事件である。
残念ながら雨が降り出し、雷も鳴り出したので、流石に踊は中止と云うことになった。翌日残り雨の中市内の観光とお土産を買うと云うことで出発したが、途中、雨が降っているため、思ったコースの見学が出来ないということで、庭が綺麗だと紹介されていた臨済宗妙心寺派鍾山慈恩護国禅寺の庭園荎草園(てつそうえん)を拝見することになった。
慈恩護国禅寺は、慶長十一年(1606)郡上八幡城主遠藤慶隆(1550年-1632年)の開基、京都大本山妙心寺の円明国師を勤請し、その高弟半山禅師を迎え、釈迦如来を本尊として創建されたものであると戴いた半截に説明がされていた。当初慈恩寺と号していたが、江戸時代の元文三年(1738)、「護国」の称号と青蓮院宮一品親王の書成る勅額を下賜された。また棠林和尚の代には禅堂(修行道場)が開かれた。しかし、明治二十六年大水害で裏山が崩壊し、山門・勅使門のみを残して全て埋没。明治天皇からの御見舞いを賜り、三年後に復興し現在に至るという。庭園荎草園は創建は半山禅師の作庭とされている。
その後、雨が上がってきたので市内観光と、物産館に行き、買い物の後名古屋を目指して帰途に就いた。名古屋で遅昼を食べ、新幹線の客となった。
食み跡のある鮎見せる鵜飼かな
食み跡の鮎を広げる鵜飼かな
(2013.9.21.)