Archive for 9月 27th, 2013

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『洗足池公園-御松庵』

金曜日, 9月 27th, 2013

                    鬼城竜生

私用があって、東急池上線“洗足池”まで行く用事があり、2013年3月6日(木曜日)に出かけた。午前中に要件は終了したので、もしかしたら梅の花が未だ咲き残っているかもしれないと妙福寺-001妙福寺-002いうので、洗足池に寄ることにした。

この池の水源は、湧水池であり、流れ込む川はない。付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいたという。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在、清水窪弁財天の涌水のみが残っているとされる。

この地域の古い地名は「千束」であって、その名は平安時代末期の文献にも見られるとされている。由来としては寺領の免田であって、千束の稲が貢租(こうそ)から免除されていたからとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。後に身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となったという。
 
日蓮上人が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」の三代目の木も残っている。池の北側の中島には弁才天が祀られている。その他、千束八幡神社が、洗足池の西の池畔に鎮座している。品陀和気之命(応神天皇)を祭神とする神社で、「旗挙げ八幡」とも呼ばれるという。
 
妙福寺-003860年(貞観二年)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された。十世紀前半の平将門の乱の際に、鎮守副将軍として関東へ派遣された藤原忠方は、その後、千束八幡を氏神としてこの地に残り、池上姓を名乗ったという。また、十一世紀前半の後三年の役では、奥州討伐へ向かう源義家が戦勝を祈願したと伝えられている。
 
1180年(治承四年)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、池に映る月のような野生馬が現れ、これを捕らえたとの伝承が残る。後に宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の磨墨と競うことになる、名馬「池月」である。頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。本殿の横に赤目で歯をむく池月を描いた大きな絵馬が奉納されており、さらに境内には池月の像が置かれている。

勝海舟晩年の邸宅「千束軒」が、洗足池の池畔にあったとされる。残念ながら戦災で焼失したと紹介されている。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓の隣に「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年(大正二)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建されたものという。

妙福寺-004妙福寺-005三代目「袈裟掛けの松」の植えられているお寺は『御松庵妙福寺』と呼ばれているが、“御松庵”は通称とされている。身延久遠寺に属する日蓮宗のお寺である。弘安五年(1282)の創立。開山は持法院日慈。弘安五年九月八日に身延を出て常陸国に向かわれた宗祖が、途中池上宗仲邸に立寄るために同十八日この地にさしかかり、池畔の老松に袈裟を掛けて休まれ、この池で手を洗われたという。袈裟掛の松は広重の「名所江戸百景」の一つに描かれ、そこに建てられた庵を御松庵と名付けたという。

一方、妙福寺は日慈が日本橋馬喰町に建立し、明暦三年の江戸の大火で焼失。のち浅草永住町に移転再建。大正十二年関東大震災で焼失し、翌十三年に再建。山号は“星頂山”とされる。昭和二年に現在地に移転、御松庵と合併。翌三年より昭和四十三年の間に堂宇を次々に再建した。御松庵は池上本門寺の末寺である久が原本光寺の庵室であったが、嘉永三年(1850)頃に堀の内妙法寺に変わったと紹介されている。

妙福寺の庭には幾つかの仏像とか石碑などが置かれているが、門を入ると目立つのが竹林である。境内そのものがさほど広いという訳ではないので、宏大な竹林があるという訳ではないが、それなりの風格を持っていると云える。

夕方4時に近い時間だったので、境内で写真を撮っていたら本堂の扉を閉めに来た御婦人に会った。写真を撮らせて頂いていますと声を掛けると、建物は古いものですからガラスも歪みのあるもので今は売っていないものですから壊すと大変です。〈登録有形文化財 建造物〉になっていますので、あまり手を入れられないので、壊さないように注意しながら住んでいますと云うことだった。

妙福寺の隣に大田区立洗足池図書館があり、この図書館の裏の道を通ると表通りに出ることが出来るが、図書館が開いていない時間帯には扉が閉められているようである。本日の総歩行数11,544歩。

      (2013.5.9.)

「免許登録するまでは駄目か」

金曜日, 9月 27th, 2013

魍魎亭主人

『免許登録前6人に治療や調剤させる 東京医科歯科大』という記事が読売新聞[第49401号,2013.8.16.]に出た。

東京医科歯科大学は15日、国に免許登録する前の放射線技師4人と薬剤師2人に放射線治療や調剤をさせていたと発表した。計1105人の患者が対象になったが、上司の指導の下で行われており、健康被害は出ていないという。

同大は患者に謝罪し、6人と上司の処分を検討していると云う。この6人は国家試験に合格しており、有資格者である。しかし、4月に採用され、7月迄に放射線治療装置やレントゲン装置のスイッチを押したり、処方箋に押印するなど、免許登録前には出来ないことをしていたという。5人は4-5月に登録を済ませたが、放射線技師1人は7月中旬まで、未登録であったという。

所でいずこの病院薬局も、人手が潤沢な訳ではない。4月に採用して何も仕事をさせない等という余裕のある病院はあり得ない。即戦力という訳にはいかないが、既に薬剤師としての資格は持っているのである。免許の申請をして免許の交付を待つ間、それなりに調剤の仕事はやって貰わなければならない。免許の交付がされれば、その日から一人前の薬剤師として働いて貰わなければならない。そのためには仕事に慣れて貰うと云うことが必要になる。まず薬のある場所を知って貰わなければならない。薬の棚を眺めて覚えるなどと云うのは不可能であり、実際に調剤の作業に携わることの方が覚えやすい。

ただ、此処で問題なのは、調剤印を押させるかどうかと云うことである。国家試験には合格したのかもしれないが、未だ免許を持っていない。と云うことは薬剤師としての証明がないと云うことである。それから云えば『調剤印』を持たせるのは間違いだといえる。調剤はさせるが、調剤印は免許の交付がされるまで渡さない。それまでの期間は仕事に慣れることと、勉強に集中して貰う。院内ルール、薬局の業務基準あるいは内規に精通して頂く。薬剤師の免許が交付された段階で、直ちに実務について貰うための訓練期間という認識で、対応していくことが必要である。

そのため、出来上がった薬については、先輩薬剤師が鑑査し、調剤印を押印すると云うことである。これならば、何の問題もないと思うがどうなんだろう。

                 (2013.8.29.)

『伝法院御庭拝観』

金曜日, 9月 27th, 2013

            鬼城竜生

浅草寺に行くたびに“伝通院”なるものを眼にするが、入口が解らない。しかも幼稚園の子供達の影は見えるが、お寺さんの方々の声は聴かれなかった。これは一体どういうものであろうかと思伝法院-001っていたが、何ととんでもない間違いをしていたことに今回気付かされた。何と“伝通院”ではなく“伝法院”ということで、何処で勝手に伝通院と読み替えてしまったのか。

今回、その“伝法院”で御庭の拝観が出来るという話を聞いた。しかも大絵馬寺宝展もあると云うことで、滅多に公開されない御庭を拝観する絶好の機会と出かけることにした。伝法院の御庭は“国指定の名勝”になっているという。伝法院庭園が2011年9月21日付けで指定されたということで、できたてのほやほやということの様である。

所で“伝法院”については、金竜山浅草寺の本坊という説明がされている。五重塔に繋がる浅草寺の事務部門で、勘財部・教化部なぞがおかれている。“伝法院”に付属する庭園は、寛永年間(1624-45)に小堀遠州によって築庭されたと伝えられている。“伝法院”は、安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首大僧正のお居間などがあり、「伝法院」はこれらの総称。伝法院-002伝法院-003もとは観音院、智楽院などと称したが、元禄(1688-1704)以後この名が付けられた。

客殿に阿弥陀三尊をまつり、その左右に徳川歴代将軍のうち歴代11名の位牌及び浅草寺各世代住職の位牌を安置する。回向道場として追善法要や、伝教大師忌の「山家会(さんげえ)」・天台大師忌の「天台会」などの論義法要が行われ、当山の修行道場でもある。

作庭した小堀遠州は、徳川幕府の作事奉行を務めており、茶人としても有名な人であるとされる。約1万平方メートルの広さを持つ庭園は、回遊式庭園で、園内を逍遙すればそれぞれ違った観景を眼にすることが出来る。座敷から見た訳ではないので、断定するのは失礼かもしれないが、普通の場合、座敷から見る場面が一番良い風景ということになっているが、この庭園、背景に五重塔が見えるので、建物の反対側から見る庭園の方が面白い。特に桜の時期は、建物の両翼にしだれ桜があるようなので、絵になるのではないか。更に右手にはスカイツリーが遠景としてみられる。

“伝法院”の御庭は江戸から明治までの間、法親王御兼帯寺(出家した後に天皇が親王とした皇子)の庭と云うことで、秘園とされていたと言われている。それのため今でもあまり公開したという話は聞かない。従前NHKのタモリの出た番組で、庭の案内がされていた。それも伝法院-004池を浚ったところ海の貝の貝殻が出ると言うことで、この辺は昔は海だったと云う話がされていた。

伝法院-005大絵馬展では、初めに浅草寺の歴史ゾーンとして浅草寺の寺宝である「浅草寺寛文縁起絵巻」が展示されており、国宝の「妙法蓮華経」(写)と重要文化財の「元版一切経」(写)の巻物が展示されていた。「妙法蓮華経」は伝小野道風・筆と紹介されていたが、文字に自信のない身にすると、綺麗な字を書いているなと云う感想のみである。

聖観世音菩薩を本尊として祀る本堂(観音堂)には、古くから観音信仰の証の一つとして絵馬が掲げられていたという。江戸時代に入り多くの絵馬や奉納額を掛けるために、絵馬堂が建設されたという。現存する浅草寺の絵馬・扁額は約250点で、五重塔の絵馬堂内にそのうちの主要な作品が保存されているという。

今回の展示では、谷文晁の金箔押地の上に書かれた駿馬の図、堤等琳(三代)の諫鼓鶏(かんこどり)・韓信の股くぐり、鈴木其一の迦陵頻伽(かりょうびんが)等の図が見られた。

2013.5.1.(水曜日)にかみさんと2人で出かけたが、総歩行数は6,357歩だった。

              (2013.5.25.)