「神戸-生田神社」
水曜日, 8月 21st, 2013鬼城竜生
2012年11月15日(木曜日)神戸で国立病院薬剤部科長OB会総会が開かれるというので出かけてきた。何と会場は三宮にある生田神社の会館でやるという。当日は会議に間に合うように行くことにして、翌日、生田神社ともう1箇所くらい神社巡りをして戻る計画を立てて出かけた。
生田神社は、大勢の人間が会議をし、懇親会をするだけの会館を持っている神社で、少なくとも神官が常時居ることは予測できたから問題はなかったが、他の神社については神官が常駐しているかどうかが解らない。立ち寄る候補として神戸駅の近くにある“松尾稲荷神社“ と“北野天満神社”を挙げておいた。
松尾稲荷神社は多くの提灯が飾ってあると言うことと、通天閣で有名な“ビリケン”がお祀りされていると言うことで、甚だ興味のわく取材対象ということになるが、新神戸駅から遠いという弱点があった。朝の行動開始時間と生田神社での消費時間を考えた場合、チョイと時間がなくなる心配があった。しかし、後で気がついたのだが、神戸駅の近くには神戸でも知られた神社“湊川神社”があったが、出かける前には全く気がつかなかった。
まずホテルから歩いて行ける生田神社に向かった。官幣中社生田神社については、頂戴した半截によると、生田神社の御祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)とされている。稚日女尊は、稚く瑞々しい日の女神という御神名である。伊勢神宮の御祭神・天照大神の御幼名とも申し上げ、内宮様と極めて関係深き御祭神であるとされている。
神功皇后元年(201年)創建。脇社として蛭子社、戸隠社、生田森座社、弁天社、塞神社雷大臣社、人丸社、稲荷社、松尾神社、大海神社等が半截に記載されている。更に生田池、生田森の記載が見られる。本殿裏手にある生田の森は、平氏の本拠地であった一の谷城の東の木戸口にあたり、寿永三年(元暦元年)(1184年)の一の谷の戦いでは、源範頼(のりより)が攻撃した古戦場で在るとされる。また、延元元年(建武三年)(1336年)に九州から京都を目指した足利尊氏が新田義貞を破った古戦場としても知られているの紹介がされている。
何せ生田神社は日本書紀に創建の謂われが記載されていると言われており、古い神社であることは間違いない。社伝によれば、武蔵坊弁慶が義経の代拝として社参の時、奉納した竹が弁慶の竹として在るとされる。但し、生田神社の社殿は、昭和十三年(1938年)の神戸大水害や昭和二十年(1945年)の神戸大空襲、平成七年(1995年)の阪神・淡路大震災など、多くの災害等の被害に遭ってきたという。従って、社殿そのものは、昔の物ではなく、その都度復興されたもので、比較的新しい造りになっている。
所で此処の御朱印帳は、絵入りの装丁がされた表紙になっていることを知っていたので購入して、御朱印を頂戴した。
生田神社を拝観し終えて時計を見ると松尾稲荷神社に行くには時間が足りない、そこで一度三宮の駅に戻り、そこから北野天満神社に行く方策を検討することにした。生田神社に来る時は、地下街を通ってきたが、地上の道を三宮駅目指して歩いたところ、駅は直ぐ近くだった。更に眼の前にシティ・ループなるバスのバス停7番があり、15-20分おきに停留場に来るという。
バス停の案内を見ると、新神戸駅も巡回コースの中に入っており、最悪の場合、駅に速く着くだけで、そこで計画を立て直すと言うことでいいのではないかと言うことで、バスに乗ることにした。バスの中で地図を貰ったところ、10番北野異人館で降りると、風見鶏の館があり、その右側を登ると北野天満神社に到達することに気付いた。でバスに乗ることにして北野異人館を目指した。車窓に眼を向けていると北野坂の途中に洋館風の外観をした建物にコーヒーの看板が見えた。へー喫茶店なんだと思いながらバスは目的地に向かい、10番で降りた。そのまま上に登り、北野天満神社に辿り着いた。
神戸北野天満神社とわざわざ断り書きがされているが、北野天満宮と言えば京都という認識があるせいでは無いか。しかも天満神社で、天満宮ではない。神社で頂戴した半截を見ると、北野天満神社は、学問の神様として知られる菅原道真公をお祀りする神社で、治承4年(1180年)平清盛公が、京都から神戸・福原に都を移し、福原の都をつくるにあたって禁裡守護、鬼門鎮護の神として、京都北野天満宮を勧請して祀られた物とされる。北野天満宮に僧信海を置いて、村を北野村と称し、これが北野町の名前の由来になっていると言われている。天神様が祀られている本殿は、約260年前に造営され、透塀、拝殿、鳥居、灯籠、石段とあわせ、昭和60年に神戸市の「伝統的建造物」として文化財に指定されているとされる。
903年59才若さで、配所で亡くなられた道真公の遺言に従って、鬼門にあたる宝満山の麓に埋葬しようとご遺骸を牛車にお乗せして来たところ、急に牛が臥せ、動かなくなったという。それでここに葬ってほしいという道真公の思召しなのだろうと言うことでその場に葬り、この牛は道真公の思召しをうけた「御神牛」として崇められるようになったという。この伝承により菅原道真公をお祀りする天満神社には、牛の像が置かれるようになっている。
鳥居を抜け、石段を登った入口の直ぐの所に、手水が置かれているが、これが何と一般的な竜と異なり、鯉が水を噴いていた。“みずかけ『叶い鯉』”の木札が掲げられていたが、伝承によると、古から人々がそこで手を合わせることによって信仰が生まれたとされている。 『鯉に水をかけて祈願すると願いが叶うといわれています。とくに水を「鯉にかける」ところから「恋とかける」 つまり恋愛が成就するといわれ、現在では、水かけ祈願叶い鯉といわれています。』の案内がされている。鯉が滝を登ると竜になると言うことからいえば、水口が鯉であっても別に問題はない。第一水口は竜でなければいけないという、決まりはないようである。
草臥れてきたので御茶でも飲もうと考えたが、修学旅行の子供達が多く、人が多すぎて落ち着かない。そこでバスの窓から見えた途中の喫茶店まで戻ることにした。北野坂から北野異人館に向かう途中に気になる店が見えたということである。坂を下っていくと、『にしむら珈琲店』という喫茶店で、店の紹介によると『1974年に日本発の会員制喫茶店として開店した』としており、凝った店構えである。終戦後に1階を一般の喫茶店として、2階は西洋料理の店にしたということのようであるが、外人の居住地の近くに在るに相応しい雰囲気の店で在った。ただ、途中で大きな柱時計の時鐘が大きな音を出したのには意表を突かれて驚かされた。
途中でバスを使用したので、総歩行数は一万歩に及ばず、7,437歩だった。
(2012.12.5.)