トップページ»

『三陸急ぎ旅-驚天動地の跡を行く』

水曜日, 7月 3rd, 2013

                魍魎亭主人

陸中海岸田老の住人になった仲間の激励を兼ねて、北陸海岸の津波の跡を見に行こうかという話になった。未だ完全復活したとは聞いていない地域を見学に行くというのは、ある意味忸怩東北-001東北-002たるものがあるが、実際に眼にしなければ解らないこともあると云うことで出かけることにした。

例によって例の如く、企画立案は“とつぁん”である。綿密な計画を立てることに関しては定評があるが、ややもすると詰め込みすぎて強行軍になることがある。今回の計画も4月18日(木曜日)に東京を出発して19日から21日(日曜日)迄、大丈夫かと云うほどに綿密な計画が並べられていた。

まず18日は品川発-盛岡行きの21時40分、ビーム1号に乗車、宮古駅前に翌19日7時25分に到着する。勿論、品川高輪口に20時に集合、駅の直ぐ近く、バス停にも近いところで取り敢えず一杯というのも忘れていない。総勢8名の参加者が珍しくほぼ時間通りに集合、定刻出発のバスに全員が乗車。バスの中は特に何事もなかったが、私も含めて熟睡するところまで行かなかった方がおいでになった。

19日(金曜日)宮古駅前で待ち合わせていた田老の住人と落ち合い、レンタカーを借り、彼の運転で魚菜市場(まんぷく食堂で朝食・買物)→市街浸水地域・大防潮堤(万里の長城)等の被災跡地・復旧状況見学→浄土ヶ浜散策と遊覧船(三艘中二艘流出)→田老漁協加工場(建替)・仮設住宅等見学。

東北-003東北-004遊覧船の出船時間は午前11時が団体客の都合で、午後1時に変更されていた。しかし、東京から来たのが8人ということと、船長が田老の住人の高校の同級生と云うことで、我々9人を乗せて特別に出船することになったが、我々以外にも出船を期待してきた客が乗船したことで、本来なら本日は1回のみの出船だったのが2度の出船になり、他の客にも良かったのではないか。

御陰でローソク岩(天然記念物)、潮吹穴(天然記念物)、三王岩等の陸中海岸の奇岩・奇景を見ることができた。昼飯は“道の駅たろう”で大量の若布が入った若布蕎麦を食した。食事をした方には珈琲の無料サービスと云うことで、頂戴したが、温かい珈琲は久しぶりだったので美味いと思った。

その後、田老の住人の館に行き、食事を兼ねて一杯やることになった。些か外は寒かったが、奥様の協力を得て、ベランダでバーベキューをすることになり、用意していた地元の魚介類を肴に酒を飲み始めた。そこに田老町漁業協同組合の理事が飛び入りで参加し、漁協加工場の再開までの苦労話を聞いた。次回再会の折にはカラオケ大会をやることを約して別れたが、地元の漁師に元気が出てきたことはいいことだ。本東北-005東北-006日の宿泊は『休暇村陸中宮古』と云うことで、此処の敷地は広く、仮設住宅が何軒か建てられていたと云うことである。大部屋に5名、4名に別れて宿泊した。

20日(土曜日) 朝、出かける時に見た休暇村の庭の桜が満開なのには驚いた。東京は今年花の終わりが早く、4月には最早姥桜しか見られなかったが、宮古はこれから春を迎えるようである。石巻を目指して沿岸部の未だ片付いていない津波の残渣を見ながら午前中は岩手側、午後は宮城側という行程で行動することになっていた。

途中の大槌町は津波による大きな被害を受け、ひょっこりひょうたん島(蓬莱島)も津波に呑まれ、島に建っていた灯台も流失してしまったようだが、今眼前に見える島は、綺麗に修復されており、テレビで見慣れた島の形を取り戻していた。釜石から気仙沼に行く途中陸前高田で、遠く“奇跡の一本松”を眺めたが、最初左側の枯れ木がそれとばかり思って眺めていたが、その右手にあるのが本体で、まあ遠くから見るだけで終わりにした。

気仙沼の鹿折唐桑駅で、“とつぁん”が手配した気仙沼市の共産党市議と落ち合い、鹿折に打ち上げられた300tの鮪漁船の見学、気仙沼市の計画する巨大防潮堤建設問題等の説明をお伺いし、昼食の時間と云うことで市議の御案内で復興商店街にある割烹世界で松花堂弁当を食べた。店内に飾ら東北-007東北-008れた被災前の同店の写真を見る限り、このあたりでも有名な店だったのではないかと思われる佇まいで写っていた。

その後南三陸町から45号線沿いの“復興さんさん商店街”を経由して、瓦礫と化した南三陸町の防災庁舎前に設置されている、献花台の線香に火を付けて手を合わせた。再度石巻に戻り、大川小学校へ。未だ校舎は壊れたままの状態で残されているが、慰霊碑が建てられており、更に同町で被害に遭って亡くなった方々の名前が刻まれた石碑が建てられていた。

小学校の直ぐ裏は小高い山になっているが、麓には山崩れを防ぐためのコンクリートが打たれていた。校庭の整備の中で、校庭の一部として山の上まで階段を付けておけば、津波で誰も死ぬことはなかった思われるが、後からなら何とでも云える、学校建設時、誰もこんなことが起こるとは思ってもいなかったのだろう。事実、近隣に住んでいた人達は、ここまで津波は来ないと信じていたようだ。

大川小から398号線に戻り雄勝地区へ。石巻市立雄勝病院の被災地跡は、瓦礫が片付けられ、近隣の建物の、幾つかの骨組みが残されているものの、直ちに病院の場所を指し示すこと東北-009東北-010は出来ないようであった。次いで女川町へ。18mの津波で横倒しになったビルはそのまま残されていた。埋め立て地に建てられたための液状化で、地盤が緩み波で持ち上げられたのではないかとする2階建ての石巻署女川交番は、基礎のパイル毎倒されていた。その他、自動車が車庫に入ったまま、倒れているビルもあり、廻りに水があふれるほど地盤沈下していた。

398号線を石巻市内へ。本日宿泊予定の“石巻サンプラザ”に到着。前もって予約していたというホテル近くの“居酒屋ごくう”に出かけ、晩飯を食うことにした。最初に本日運転してくれた元看護部長さんの労を労って乾杯。侃々諤々の論議をしながら酒を飲んだ。

21日(日曜日)、本日は最終日である。降りみ降らずみの天気の中、ほぼ9時にホテルを出発、日和山に登る。日和山は桜の名所で満開の桜が咲いていたが、一方、雪が降り始め、60年振りという吹雪で、雪が渦巻き、遠くが見えない状況だった。

日和山は、津波から逃れてきた人達が、見下ろす中、建物を根こそぎ持って行ってしまう姿を見ていたところである。今も見下ろせば、北上川に浮かぶ中瀬に立つ石ノ森萬画館の白い卵形の東北-011東北-012建物が見えるが、中瀬の中の他の建物は見えず、よく残ったものだと感心して眺めていた。日和山の神社の前から下を見ると左下手に銅像が見えた。誰のものか見に行き、写真に撮ってきたが、何と石巻港の開港や暴れ川、北上川の改修工事等に功績があり、仙台藩に多大な利益をもたらした男(川村孫兵衛重吉)のものであった。

次に炎上被害のあった石巻市立門脇小学校跡を見学した。明治6年創立の学校には、激震に襲われた時、244人の児童と21人の教職員がいたが、日頃の訓練通り校舎西側の墓地脇の階段を登り日和山に非難し、全員無事だったが、津波と火災で被災し、全壊・全焼となってしまったところである。

その後、石巻市立病院を見学。津波で1階部分が壊滅、当日入院していた患者150人が残され孤立した。寝たきりの高齢者を3・4階から運び出し、5機のドクターヘリでピストン輸送したと云うが、地盤沈下した現地での再建は困難で、移転再建を計画しているという。しかし、見るところ現在の建物は埋め立て地に建てたのではないかと思われ、病院等の緊急時対応施設は、液状化・地盤沈下の恐れのあるところに建てるのは避けるべきだと認識した。

最後に松島に行き、船から被災を受けた島の様子を見ることにしていたが、風はないものの雪が酷く、恐れをなして船は中止、瑞巌寺の中門前まで行って引き返し、何処かで昼飯を食おうと云うことになった。食堂南部屋ののれんを潜り、船を中止した分の金も使えると云うことで、酒と牡蠣料理をそれぞれに注文し、食うことになった。

適当に時間をつぶし、仙台駅へ。仙台駅でまず新幹線の指定を取ろうということで、切符を手に入れ、現地住人も含めてのお別れの呑み会をやろうと云うことで、駅ビル2階の食堂に入り、酒と肴で乾杯、恙なく終了したことをお互い喜び合った。

                        花と雪よだ(津波)の名残の東北路
                        満開の桜に凍みる吹雪かな
                        花と雪瓦礫の街の行路人
                        松島や雪と桜と熱き酒

所で出かける前に“昭和三陸大津波でも被災した菓子店”が復活『田老かりんとう』という新聞記事を見ていたので、プレハブの仮設商店街「たろちゃんハウス」(岩手県宮古市田老向新田東北-014東北-015東北-016148)の2階に店があると云うので寄って貰い、買って食べたが、普通の花林糖とは異なり、平らにのばした薄焼きせんべいに捻りを加えて甘味を塗った独特の食感をした花林糖だった。

帰ってきて、“とつぁん”の云っていた吉村昭の三陸海岸大津波(文春文庫,2004.3)を読んだ。明治二十九年(1896年)六月に青森・岩手・宮城の三県を襲った地震と津波の被害状況と昭和八年の津波、チリ地震・津波の三つの津波の被害を書いた実録文学で、今回と全く同じ被害が出ていることが解る。この本を読むと、何で懲りないんだろうと思うが、海しか生活の糧がなければ、繰り返すのも仕方が無いのかもしれないが、海の側に住むのを極力避ける努力は必要なのではないか。

いずれにしろ自然を完全にコントロールすることは出来ない。自然に合わせて生活をすると云うことではないのだろうか。

1)菊池英行:石巻市・東松島市・女川町 被災地視察のしおり,2012.8.11.

         (2015.5.3.)