Archive for 7月 3rd, 2013

トップページ»

『三陸急ぎ旅-驚天動地の跡を行く』

水曜日, 7月 3rd, 2013

                魍魎亭主人

陸中海岸田老の住人になった仲間の激励を兼ねて、北陸海岸の津波の跡を見に行こうかという話になった。未だ完全復活したとは聞いていない地域を見学に行くというのは、ある意味忸怩東北-001東北-002たるものがあるが、実際に眼にしなければ解らないこともあると云うことで出かけることにした。

例によって例の如く、企画立案は“とつぁん”である。綿密な計画を立てることに関しては定評があるが、ややもすると詰め込みすぎて強行軍になることがある。今回の計画も4月18日(木曜日)に東京を出発して19日から21日(日曜日)迄、大丈夫かと云うほどに綿密な計画が並べられていた。

まず18日は品川発-盛岡行きの21時40分、ビーム1号に乗車、宮古駅前に翌19日7時25分に到着する。勿論、品川高輪口に20時に集合、駅の直ぐ近く、バス停にも近いところで取り敢えず一杯というのも忘れていない。総勢8名の参加者が珍しくほぼ時間通りに集合、定刻出発のバスに全員が乗車。バスの中は特に何事もなかったが、私も含めて熟睡するところまで行かなかった方がおいでになった。

19日(金曜日)宮古駅前で待ち合わせていた田老の住人と落ち合い、レンタカーを借り、彼の運転で魚菜市場(まんぷく食堂で朝食・買物)→市街浸水地域・大防潮堤(万里の長城)等の被災跡地・復旧状況見学→浄土ヶ浜散策と遊覧船(三艘中二艘流出)→田老漁協加工場(建替)・仮設住宅等見学。

東北-003東北-004遊覧船の出船時間は午前11時が団体客の都合で、午後1時に変更されていた。しかし、東京から来たのが8人ということと、船長が田老の住人の高校の同級生と云うことで、我々9人を乗せて特別に出船することになったが、我々以外にも出船を期待してきた客が乗船したことで、本来なら本日は1回のみの出船だったのが2度の出船になり、他の客にも良かったのではないか。

御陰でローソク岩(天然記念物)、潮吹穴(天然記念物)、三王岩等の陸中海岸の奇岩・奇景を見ることができた。昼飯は“道の駅たろう”で大量の若布が入った若布蕎麦を食した。食事をした方には珈琲の無料サービスと云うことで、頂戴したが、温かい珈琲は久しぶりだったので美味いと思った。

その後、田老の住人の館に行き、食事を兼ねて一杯やることになった。些か外は寒かったが、奥様の協力を得て、ベランダでバーベキューをすることになり、用意していた地元の魚介類を肴に酒を飲み始めた。そこに田老町漁業協同組合の理事が飛び入りで参加し、漁協加工場の再開までの苦労話を聞いた。次回再会の折にはカラオケ大会をやることを約して別れたが、地元の漁師に元気が出てきたことはいいことだ。本東北-005東北-006日の宿泊は『休暇村陸中宮古』と云うことで、此処の敷地は広く、仮設住宅が何軒か建てられていたと云うことである。大部屋に5名、4名に別れて宿泊した。

20日(土曜日) 朝、出かける時に見た休暇村の庭の桜が満開なのには驚いた。東京は今年花の終わりが早く、4月には最早姥桜しか見られなかったが、宮古はこれから春を迎えるようである。石巻を目指して沿岸部の未だ片付いていない津波の残渣を見ながら午前中は岩手側、午後は宮城側という行程で行動することになっていた。

途中の大槌町は津波による大きな被害を受け、ひょっこりひょうたん島(蓬莱島)も津波に呑まれ、島に建っていた灯台も流失してしまったようだが、今眼前に見える島は、綺麗に修復されており、テレビで見慣れた島の形を取り戻していた。釜石から気仙沼に行く途中陸前高田で、遠く“奇跡の一本松”を眺めたが、最初左側の枯れ木がそれとばかり思って眺めていたが、その右手にあるのが本体で、まあ遠くから見るだけで終わりにした。

気仙沼の鹿折唐桑駅で、“とつぁん”が手配した気仙沼市の共産党市議と落ち合い、鹿折に打ち上げられた300tの鮪漁船の見学、気仙沼市の計画する巨大防潮堤建設問題等の説明をお伺いし、昼食の時間と云うことで市議の御案内で復興商店街にある割烹世界で松花堂弁当を食べた。店内に飾ら東北-007東北-008れた被災前の同店の写真を見る限り、このあたりでも有名な店だったのではないかと思われる佇まいで写っていた。

その後南三陸町から45号線沿いの“復興さんさん商店街”を経由して、瓦礫と化した南三陸町の防災庁舎前に設置されている、献花台の線香に火を付けて手を合わせた。再度石巻に戻り、大川小学校へ。未だ校舎は壊れたままの状態で残されているが、慰霊碑が建てられており、更に同町で被害に遭って亡くなった方々の名前が刻まれた石碑が建てられていた。

小学校の直ぐ裏は小高い山になっているが、麓には山崩れを防ぐためのコンクリートが打たれていた。校庭の整備の中で、校庭の一部として山の上まで階段を付けておけば、津波で誰も死ぬことはなかった思われるが、後からなら何とでも云える、学校建設時、誰もこんなことが起こるとは思ってもいなかったのだろう。事実、近隣に住んでいた人達は、ここまで津波は来ないと信じていたようだ。

大川小から398号線に戻り雄勝地区へ。石巻市立雄勝病院の被災地跡は、瓦礫が片付けられ、近隣の建物の、幾つかの骨組みが残されているものの、直ちに病院の場所を指し示すこと東北-009東北-010は出来ないようであった。次いで女川町へ。18mの津波で横倒しになったビルはそのまま残されていた。埋め立て地に建てられたための液状化で、地盤が緩み波で持ち上げられたのではないかとする2階建ての石巻署女川交番は、基礎のパイル毎倒されていた。その他、自動車が車庫に入ったまま、倒れているビルもあり、廻りに水があふれるほど地盤沈下していた。

398号線を石巻市内へ。本日宿泊予定の“石巻サンプラザ”に到着。前もって予約していたというホテル近くの“居酒屋ごくう”に出かけ、晩飯を食うことにした。最初に本日運転してくれた元看護部長さんの労を労って乾杯。侃々諤々の論議をしながら酒を飲んだ。

21日(日曜日)、本日は最終日である。降りみ降らずみの天気の中、ほぼ9時にホテルを出発、日和山に登る。日和山は桜の名所で満開の桜が咲いていたが、一方、雪が降り始め、60年振りという吹雪で、雪が渦巻き、遠くが見えない状況だった。

日和山は、津波から逃れてきた人達が、見下ろす中、建物を根こそぎ持って行ってしまう姿を見ていたところである。今も見下ろせば、北上川に浮かぶ中瀬に立つ石ノ森萬画館の白い卵形の東北-011東北-012建物が見えるが、中瀬の中の他の建物は見えず、よく残ったものだと感心して眺めていた。日和山の神社の前から下を見ると左下手に銅像が見えた。誰のものか見に行き、写真に撮ってきたが、何と石巻港の開港や暴れ川、北上川の改修工事等に功績があり、仙台藩に多大な利益をもたらした男(川村孫兵衛重吉)のものであった。

次に炎上被害のあった石巻市立門脇小学校跡を見学した。明治6年創立の学校には、激震に襲われた時、244人の児童と21人の教職員がいたが、日頃の訓練通り校舎西側の墓地脇の階段を登り日和山に非難し、全員無事だったが、津波と火災で被災し、全壊・全焼となってしまったところである。

その後、石巻市立病院を見学。津波で1階部分が壊滅、当日入院していた患者150人が残され孤立した。寝たきりの高齢者を3・4階から運び出し、5機のドクターヘリでピストン輸送したと云うが、地盤沈下した現地での再建は困難で、移転再建を計画しているという。しかし、見るところ現在の建物は埋め立て地に建てたのではないかと思われ、病院等の緊急時対応施設は、液状化・地盤沈下の恐れのあるところに建てるのは避けるべきだと認識した。

最後に松島に行き、船から被災を受けた島の様子を見ることにしていたが、風はないものの雪が酷く、恐れをなして船は中止、瑞巌寺の中門前まで行って引き返し、何処かで昼飯を食おうと云うことになった。食堂南部屋ののれんを潜り、船を中止した分の金も使えると云うことで、酒と牡蠣料理をそれぞれに注文し、食うことになった。

適当に時間をつぶし、仙台駅へ。仙台駅でまず新幹線の指定を取ろうということで、切符を手に入れ、現地住人も含めてのお別れの呑み会をやろうと云うことで、駅ビル2階の食堂に入り、酒と肴で乾杯、恙なく終了したことをお互い喜び合った。

                        花と雪よだ(津波)の名残の東北路
                        満開の桜に凍みる吹雪かな
                        花と雪瓦礫の街の行路人
                        松島や雪と桜と熱き酒

所で出かける前に“昭和三陸大津波でも被災した菓子店”が復活『田老かりんとう』という新聞記事を見ていたので、プレハブの仮設商店街「たろちゃんハウス」(岩手県宮古市田老向新田東北-014東北-015東北-016148)の2階に店があると云うので寄って貰い、買って食べたが、普通の花林糖とは異なり、平らにのばした薄焼きせんべいに捻りを加えて甘味を塗った独特の食感をした花林糖だった。

帰ってきて、“とつぁん”の云っていた吉村昭の三陸海岸大津波(文春文庫,2004.3)を読んだ。明治二十九年(1896年)六月に青森・岩手・宮城の三県を襲った地震と津波の被害状況と昭和八年の津波、チリ地震・津波の三つの津波の被害を書いた実録文学で、今回と全く同じ被害が出ていることが解る。この本を読むと、何で懲りないんだろうと思うが、海しか生活の糧がなければ、繰り返すのも仕方が無いのかもしれないが、海の側に住むのを極力避ける努力は必要なのではないか。

いずれにしろ自然を完全にコントロールすることは出来ない。自然に合わせて生活をすると云うことではないのだろうか。

1)菊池英行:石巻市・東松島市・女川町 被災地視察のしおり,2012.8.11.

         (2015.5.3.)

「惚け茄子」

水曜日, 7月 3rd, 2013

            魍魎亭主人

鳩山由紀夫元首相は6月25日の香港フェニックステレビとのインタビューで、沖縄県の尖閣諸島について「中国側から見れば(日本が)盗んだと思われても仕方が無い」と述べ、同諸島は「係争地である」との認識を示したという[読売新聞,第49350号,2013.5.26.]。

元々とてつもなく方向音痴な方だから、何を云っても驚かないが、少なくとも元首相である。立ち飲み屋の酔っ払いの戯言ではないのである。外国に利用されて、外国の利益になるような世迷い言を発言すべきではないだろう。

中国政府は、尖閣諸島が日清戦争末期に日本に奪われたとの立場から「日本が清国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還する」というカイロ宣言を領有権主張の根拠としているとのことである。鳩山氏は「カイロ宣言の中に尖閣が入るという解釈は、中国から見れば当然成り立つ話だ」と述べ、中国政府の言い分に理解を示したと云うが、あんた何処の国の人間なんだと云うことだろう。それとも近いうちに中華民国に移住でもしようというのか。

しかし、それにしても一国の首相をやった人とは思えない発言をする人である。世界の情勢が全く見えていないというか、見ようとしていないと云おうか、それともそういう風に見えると云うことか。ただ、こんなお気楽な立場で、色々発言することはそろそろ止めてはどうか。今度の発言は、明らかに国損を与える発言で有り、中国を喜ばせ、勢いづけるだけである。

今、あの国は自国の権益を広げることに懸命になっており、恥も外聞もなく彼方此方にゴリ押しの手を伸ばしている。そういう国のマスコミの取材を受ける場合、サービス精神の発露は危険である。多分、お坊ちゃま気質で、物分かりのいい回答をしたのだろうが、尻の毛まで抜こうと構えている相手に、見せる態度ではない。八方美人もいい加減にしろと云わなければならない。

下手をすれば、尖閣諸島で、越境してくる彼らの船と、我が方の船との間に、何かが起こる可能性も否定できない状況下で、安気な話はしないほうがいい。それが分からないとすれば、煮ても焼いても食えない惚け茄子である。

                   (2013.6.26.)

『紅葉巡り』

水曜日, 7月 3rd, 2013

              鬼城竜生

京都の紅葉を見たいと言うことで、11月28日(木)・29日(金)・30日(土)の3日間かみさんと二人で出かけた。例によって30日の日は到着早々、永代供養を御願いしている東本紅葉京都-001願寺の大谷祖廟に御参りし、その後は、紅葉を見ようということにしていた。今一つ、今回は一度も拝観したことのない金閣寺を行きたいというのが、当方の希望だった。墓参を済ませた後、取り敢えず大谷祖廟の横手の門から出ると塀沿いに紅葉が見られ、円山公園にも、紅葉があり、祖廟と公園との間の道も紅葉があふれていた。

大事な年間行事は終了したので、円山公園内の池畔に立つ“大正ロマン亭”で昼飯を食うことにし、最近嵌まっている天ざるを食うことにした。かみさんは温かい蕎麦が良いというので汁物の蕎麦を取った。しかし、不思議なのは、京都という町の蕎麦屋は、何処もそこそこの蕎麦を食わせる腕を持っているということである。別に蕎麦通を気取る気は無い。最初は体重を気にして蕎麦を食い始めたが、数をこなしているうちに、それなりに美味い不味いの判断が付くようになったというだけのことである。ただ、食い物の美味い不味いは、あくまでも個人の味覚の問題で、TVの番組で、レポーターが美味いなぞという話はあまり信用したことはない。

飯を食いながら今日の行動について相談したが、取り敢えず紅葉の時期の京都は初めてということで、前にも拝観したことのある知恩院・青蓮院を歩いて紅葉京都-002みることにした。但し、知恩院は国宝の指定を受けている御影堂の改修工事中で、中は拝観できないということで、取り敢えず三門前を通り越し、青蓮院に向かった。その途中、前を通る度に気になっていた古刹があった。何時も本堂の前までは行くが、誰も人が居ないようなので、御朱印を頂戴するのは諦めていたが、何と今回は本堂の前の障子が開けられていた。声を掛けると、作務衣を着た方が出てこられたので御朱印は戴けませんかと伺ったところ、どうぞお上がり下さいということで、本堂に揚げて戴くと同時に、お寺の由来と記念的物として何があるのかについて御説明を頂戴した。

お寺の名前は“崇泰院(そうたいいん)”という。知恩院の塔頭として建てられたようであるが、1603年徳川家康の命により知恩院の寺地の拡充に伴って親鸞聖人の廟所を現在の大谷本廟(西大谷)へ移した跡地に開創されたものだという。現在の本堂は1898年に再建され、本堂裏には親鸞聖人旧廟所として墳墓と五輪石塔が祀られているということで、御参りすることを許された。

1262年親鸞聖人が亡くなった後、鳥辺野(とりべの)の南で火葬後鳥辺野の北大谷に葬られた。1272年親鸞聖人の末娘・覚信尼が中心となって遺骨を吉水(よしみず)の北の地(現在の祟泰院辺り)の覚信尼夫妻居住地に改葬し、六角堂の草堂に親鸞聖人の影像を安置し廟所とし、大谷廟堂となった。1313年頃に本願寺第三世覚如は大谷廟堂を“本願寺(大谷本願寺)”とする寺号をつけて寺院とした。これが本願寺の始まりとされているという。1415年この大谷本願寺で第八世蓮如が生誕し、1465年大谷本願寺が比叡山の僧兵に破壊されるまで本願寺の地であったという。1483年蓮如は山科本願寺を建立していると説明されている。

御朱印を頂戴し、お話を伺い、青蓮院を目指して歩を進めた。しかし、ここ何年か京都に御参りに来ながら、かみさんの両親のお骨を預けている大谷紅葉京都-003廟が、親鸞聖人の生誕の地とする石碑は眼にしていたが、門前を通り過ぎていた祟泰院に係わってくるとは思いもしなかった。

青蓮院門跡の紅葉は見事なものでした。青蓮院に行く時は何時も、襖絵の写真を写させて貰うが、木村英輝氏の作品だとされている。今回も青蓮院*門跡を訪問して、御庭の紅葉を拝見させて頂くと同時に、フラッシュを焚かなければ良いんだろうということで、襖の写真を撮らせていただくことにした。尚、今回は、この襖絵をあしらったトウトバックがあったので、中型を購入した。

座敷から御庭を拝見した後、青蓮院門跡を出た直ぐの所に知恩院の裏口が見えたのでそこから入ってみることにした。いずれにしろ今日はその道程を行くことでお終いにして、ホテルに行くことにした。石段を上がって寺務棟の前を通り、新玄関の前を過ぎて阿弥陀堂前から三門の横に出て、三門の横を抜けて表通りに出る。そこでタクシーに乗り、本日の宿泊ホテルである京都国際ホテルに向かった。

28日(水曜日)の総歩行数は、9,316歩。

今回の最大の目的紅葉京都-004は、金閣寺を参拝することにおいていた。金閣寺・銀閣寺は大概、中学あるいは高校の修学旅行で行くことになっているようであるが、どちらの修学旅行にも参加しなかった当方は、銀閣寺には昨年行ったが、金閣寺には未だ行っていない。そこでかみさんに頼んで1日は金閣寺周辺でと云う計画にしてもらった。最も計画といっても金閣寺に行くということ以外何も決めておらず、後は成行きで地図を見ながらお寺や神社を廻ると云うだけのことである。

通常、金閣寺と称しているが、正名は『鹿苑寺』で、臨済宗相国寺派の禅寺であるとされる。金閣はお釈迦様のお骨(仏舎利)を祀った舎利殿のことだといわれる。つまり舎利殿のつもりで建てたが、あまりに強烈すぎで一般人は金閣寺と思い込んでいるということ手はないか。鹿苑寺といわれても京都以外の住人は、金閣を思い浮かべることは難しいのではないか。

鹿苑寺は相国寺の塔頭寺院の一つで、元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘として北山殿を造ったのが始まりとされている。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと云われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化というとされている。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられたという。

紅葉京都-005今回、鹿苑寺では、特別公開として方丈(本堂)が公開されていた。方丈は延宝六年(1678)後水尾天皇のご寄進によって再建された。方丈は、聖観世音菩薩を中心に、梵天、帝釈天の三像および開山夢窓国師と中興文雅和尚および足利義満の木像をお祀りしている。方丈前庭は、相阿弥の作と伝えられている。方丈と同時代の作庭で、唐門を背景に後水尾天皇お手植えの侘助椿があり、女龍石、布袋石、走馬石、蟠龍石、露盤石などを巧みに配置して落着きをみせている。方丈襖絵は、黒川道祐の遠碧軒記に延宝九年(1681)に狩野外記が描いたと記されいるという。外記を称する狩野派の画家は幾人か数えられますが、ここでは信政の子、寿石敦信(秀信)だと考えられているという。

室中障壁画の一部である四面の画題は、帝堯より天下を譲るという話を聞いて、耳が汚れたと流れで洗う許由と、そのような水は牛に飲ませられないと引き返す巣父の二人を描いたもので、丸味のある筆癖が特徴的であり、比較的、古風な感じがする絵であります。また、須弥檀の絵は、下村観山の筆によるものと紹介されている。

当日は案内人紅葉京都-006が自動的に付き、方丈内の案内をして紅葉京都-007いたが、金閣寺を左に見て、方丈の裏手の廊下から眼の前にある“陸船の松”の説明を受けたが、何とも金閣を目指して帆掛け船が向かっている図とのことであったが、迂遠と云おうか何と云おうか、石組みをして土を積み上げ松の木を帆に見立てて、舎利殿に向かうという作庭が壮大な無駄に思えるというのは、将軍の器にはないということかもしれない。方丈について平成17年より2年6ヵ月の間、創建以来初の解体修理を行い、方丈の杉戸絵を近代日本画家石踊達哉・森田りえ子両画伯に書いて戴いたという案内がされたが、100年後にまで残って重文位になるのかどうか。紅葉の中金閣の写真が撮れたのは満足。

金閣寺を出て右に、立命館に沿ってきぬかけの道を行くと龍安寺に至る。龍安寺は臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来。龍安寺は元は徳大寺家の別荘を、宝徳二年(1450年)に細川勝元が譲り受け、創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺五世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
 
龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(1467-1477年)で焼失。勝元の子の細川政元と、四世住持・特芳禅傑によって長享二年(1488年)に再興され紅葉京都-008紅葉京都-009た。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護しているとする解説が見られる。

龍安寺と云えば“石庭”と云われるほど有名だが、龍安寺の方丈庭園である。幅 22m、奥行 10mほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を無造作に5か所、点在させただけの簡素な庭である。巨大な中国の山水の世界を日本人独特の感性で写したとされる「枯山水」の庭である。最大の特徴は、「水を感じさせるために水を抜く」ということで、水を見立てられるようなものを作る。白砂も大海をイメージし、岩は島というより山である。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。

龍安寺を出て右に道なりに仁和寺を目指す途中に、蓮華寺という案内が眼に付いた。地図を見ながら此処に寄り道をして仁和寺に行く道程はさして難しい道ではないと判断して寄り道することにした。蓮華寺は真言宗御室派、別格本山五智山蓮華寺で、近畿三十六不動尊第十五番霊場とされている。

五智不動尊縁起によると天喜五年(1057年)藤原康基は、御冷泉天皇の願いにより蓮華寺を建立した。その後、応仁の乱(1467年)の兵火にあい、蓮華寺は鳴滝音戸の山上に紅葉京都-010紅葉京都-011移されたが、その後百数十年の長い間荒廃が続き、寛永十二年(1635年)伊勢生まれの江戸の豪商樋口平太夫家次翁が、五智不動尊の霊夢に導かれ、発心入道して常信と名を改め秩父三十四ケ所・西国三十三ケ所・坂東三十三ケ所を木の実、草の根を食べながら、裸足で六年間の修行を遂げ、寛永十八年(1641年)荒廃していた蓮華寺の伽藍堂宇を再興し、仁和寺の宮覚深法親王(後水尾天皇皇兄)より改めて五智山蓮華寺の号を賜った。
以後六部の総本山として栄えると共に、曇寂・乗円等の名僧磧学を輩出した。昭和三年(1928年)住職慈海大僧正によって寺院は現在の地に移され、その後昭和三十三年(1958年)五智如来を始め石仏群は、山上山下に離散し、痛ましい御姿であったのを、収集し修復をして境内に遷座安置された。鳴滝音戸山山頂には、今も蓮華寺中興十七代までの各代霊墓が祀らているの紹介が、お寺で戴いた半截にされている。庭全体を占める石仏は見事である。

蓮華寺の裏門を抜け、突き当たりの塀が仁和寺の塀であり、塀に沿って道なりに行き、右に行くと仁和寺の門前に辿り着く。但し、仁王門に行く前、塀の途中に東門があり、境内に入ることが出来た。東門を入った左側に和食処『甍』の看板が出ていたので、腹も減ったし此処で飯を食おうということになった。食ったのは湯葉入りの蕎麦だったと思うが、あまり食い物に執着がないためか、完全に忘れている。

真言宗御室派総本山仁和寺は、仁和二年(886年)第五十八代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まる。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにし紅葉京都-012紅葉京都-013て崩御されたため、第五十九代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和四年(888年)に完成。寺号については建立時の元号から仁和寺とされたという。

仁和寺の仁王門は、京都では珍しいく道路に面しており、京都三大門のひとつと云われているようである。今回は横から入ったが、広大な境内に驚かされることは同じである。仁王門の対局、突き当たりにある“金堂”は国宝だという。中門と金堂の中間の位置右側に五重塔があるが、重要文化財だという。中門の右手に『御室桜』の案内が見えたが、金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇るなか、中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があり、古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われていると云うが、背の低い妙な桜の木が林立する様子は、花の時期は壮観だろうと云うことは認識できた。

仁和寺の仁王門を出て、門前の道を真っ直ぐ行くと、京福電気鉄道仁和寺駅に出る。この駅で電車に乗り一駅、妙心寺駅で降りて、妙心寺に寄ることにした。駅を降りて直ぐの所に北総紅葉京都-014紅葉京都-015門があり、案内所で妙心寺山内図を戴いたが、見た瞬間に絶句。京都花園臨済宗大本山妙心寺は、日本最大の禅寺と紹介されている。

臨済宗はインドの達磨大師から中国の臨済禅師を経て、妙心寺開山無相大師へと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としているという。1337年、95代の花園法皇の勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師の法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっているという。お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めるとされている。

案内図によると、南総門から放生池・三門・仏殿・法堂・大庫裡が縦に並んでいるが、その周りを取り囲んで『院』の付く建物が無闇に並んでおり、それこそ宏大な敷地に多くの塔頭が並んでいる。その中で幸いなことに妙心寺大法院が紅葉のこの時期特別公開していると云うことで寄ることにした。『且坐喫茶(且坐喫茶)』「まあ、坐って御茶でも召し上がれ。大法院の庭を眺めながら、一服のお茶を飲むゆとり。心が和む大切なひととき。」

仰る通り、紅葉の御庭を拝見し、お茶を一服。心休まる一時を過ごさせて戴いた。因みに大法院は妙心寺塔頭の一つで妙心寺境内にある。真田幸村の兄で松代藩主であった真田信之の菩提寺。露地庭園が美しいことで知られる。境内には、松代藩の真田家一門や兵法学者佐久間象山の御墓があるとする紹介がされている。

臨済宗の大本山妙心寺を中心に全山同派の塔頭で纏めた寺域が平地に分かり易く分布しており、初めての経験だっただけに驚いたが、京都の怖いところはこういうのが何気なく残っているという所である。

妙心寺からタクシーでホテルに戻り、ホテルで珈琲を飲みながら夜間特別拝観の照明がされているお寺で宵闇の紅葉を見ようという相談が纏まった。その様なお寺は清水寺しか知らなかったので、タクシーに乗紅葉京都-016って夜間特別拝観がされているお寺の紅葉を見たいので清水寺へと伝えたところ、そこは止めた方が良いですよ。タクシーも途中までしか入れませんし、人が多くて舞台まで上がるのに相当待たされますから。

今の時期夜見ることが出来るところは、何処も混みますけど、比較的空いているところがあるので、そこに御案内しましょうか。本当は将軍塚に行くと良いんですけど、永観堂も見応えのある紅葉が見られますよと云うことで、永観堂に連れて行った貰った。

永観堂は浄土宗西山禅林寺派総本山“永観堂禅林寺”、『みかえり阿弥陀』で知られた古刹である。

お寺で頂戴した半截によると、『永観律師を遡ること200年あまり、禅林寺は真言密教の寺として始まりました。863年弘法大師の高弟・真紹(しんじょう)僧都が、清和天皇から寺院建立の許可を貰い、禅林寺という名を賜ったのです。禅林寺が大きく発展したのは、永観律師の時代です。律師は境内に施療院を建てるなど、恵まれない人々のために奔走。永観律師を慕う人々によって、禅林寺は何時しか永観堂と呼ばれるようになりました。

鎌倉時代に住職となった静遍(じょうへん)僧都は、高名な真言宗の僧侶でした。お念仏をとなえるだけで救われるという教えに反発を覚え、自分の方が正しいと証明しようと、法然上人の著書を開きました。ところが幾ら読んでも「間違っているのは自分では」と思わせられることばかりでした。ついに静遍はお念仏の教えに深く帰依します。そして法然上人の愛弟子・証空上人を次の住職として招きました。』

永保二年(1082年)二月十五日早朝。阿弥陀堂に人影が動く。夜を徹して念仏行に励んでいる僧侶がいるらしい。東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気がついて、足が止まった。
「永観、遅し」ふりかえりざま、その方は、永観の眼を見つめられた。

永観堂禅林寺の御本尊は、首を左にかしげ、ふりむいておられます。

みかえり阿弥陀は今も阿弥陀堂に祀られているという。東山を背景とした永観堂の紅葉は見事なものだったが、悲しいかな腕がない。殆どの夜景が焦点の合わない写真になっていた。しかし、「永観、遅し」と云って振り返ったのは何だったのか。悟りを開くのが遅いと云うことだとすれば、少し無理な注文ではないのか。最も高僧といわれた人のようであるからそれだけ期待があったと云うことかもしれないが。29日(木曜日)の総歩行数は10,475歩。

京都駅の裏側、八条通の方向はあまり行かない。しかし今回は伏見稲荷に行くということで、計画していた。京都駅のコインロッカーに荷物を入れ奈良線に乗って二つ目の駅、稲荷駅で下車すると、眼の前に伏見稲荷大社が鎮座ましましている。楼門をくぐると本殿があり、本殿の裏から千本鳥居を潜って熊鷹社迄行き、そこでそれ以上登るのは諦めた。もっと上には御社、一の峯などがあるが、膝の状態を考えると登るのには限界がある。若い頃は面倒がって神社の階段を登ることはなく、年を取れば足の具合が悪くて登れない。出来る時にやっておかないと後で後悔すると云うことか。

いわゆる御稲荷さんの成り立ちは、小難しい歴史の中に潜り込んでおり、伏見稲荷大社のHPにお譲りする。

帰る前にどうしても行きたいということで、伏見稲荷の前から車に乗り、石峰寺に御願いしたいと云ったところ、ここから直ぐですよと云うことだった。歩いても行ける距離ですか。行けなくはないけど道が解り難いかも。いずれにしろ足弱な年寄りですから、迷惑でなければ乗せていって下さい。直線距離では大してないんですけど、車の通れる道ではないので少し遠回りになりますけど。それでいいということで車で運んで貰ったが、そこまでしていきたかったのは、伊藤若冲が彫ったという五百羅漢があると云うことで、拝見したかったと云うことである。

正式な名称は“黄檗宗系百丈山石峰寺”で、現在はあまり大きなお寺ではないようであるが、江戸中期の正徳三年(1713年)に黄檗宗萬福寺(宇治市五ヶ庄)の第六世千呆性侒(せんかんせいあん)禅師により創建された禅道場が始まりという。本堂裏の竹林に並ぶ「羅漢石仏」が特に著名。それら石仏は江戸中期の画家伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもので、約500体並ぶことから「石峰寺五百羅漢」と称されている。

石峰寺は、七面山西麓にある。民家と民家の間の狭くなだらかな石段が参道。石段を登りきると竜宮造りの赤い総門があり、「高着眼(こうちゃくがん)」の扁額が架かる。黄檗宗萬福寺開祖の隠元禅師の高弟即非(そくひ)禅師で、石峰寺創建の千呆(せんかん)禅師の師。総門を潜ると正面に本堂が見え、参道は禅宗寺院に見られる平石の参道に変わり、左右は季節を感じさせる草花が茂る。本堂に祀られている本尊は薬師如来。当初の石峰寺は、諸堂整う大寺であったと伝えられるが、大正四年(1915年)と昭和五十四年(1979年)の二度の火災で現在では本堂と庫裏のみとなっているの紹介がされている。

石仏の写真撮影は禁止と云うことで、写真はないが野ざらしの仏像群であり、形あるものはやがて無に帰すという思想から云えば、写真は駄目という意味はないような気がするが、想像するに、写真を撮る時にへぼ達が仏像の並ぶ中にずかずかと入り込み、踏み倒す可能性があると云うことを心配してのことと思われる。

                            紅葉の五百羅漢や石峰寺
                            綿帽子五百羅漢の石峰寺
                            雪の野や五百羅漢の石峰寺

尚、雪の作品は石峰寺で購入した絵はがきの写真を見てのことである。しかし、あまり有名ではないかもしれないが、こういうお寺の方が趣味に合う。帰りは石峰寺で戴いた地図を便りに稲荷駅まで歩き、稲荷駅の近くで昼の食事を取り、その後稲荷駅から電車で東福寺駅まで行き、昨年来た時に紅葉の時期には速すぎて写真が撮れなかった、東福寺に寄って京都駅に戻ることにした。30日(金曜日)の総歩行数は16,946歩で、この3日間で一番歩いたことになっているが、伏見稲荷大社の上り下りで稼いだのではないか思う。

                  (2013.2.6.)