鬼城竜生
京都の紅葉を見たいと言うことで、11月28日(木)・29日(金)・30日(土)の3日間かみさんと二人で出かけた。例によって30日の日は到着早々、永代供養を御願いしている東本願寺の大谷祖廟に御参りし、その後は、紅葉を見ようということにしていた。今一つ、今回は一度も拝観したことのない金閣寺を行きたいというのが、当方の希望だった。墓参を済ませた後、取り敢えず大谷祖廟の横手の門から出ると塀沿いに紅葉が見られ、円山公園にも、紅葉があり、祖廟と公園との間の道も紅葉があふれていた。
大事な年間行事は終了したので、円山公園内の池畔に立つ“大正ロマン亭”で昼飯を食うことにし、最近嵌まっている天ざるを食うことにした。かみさんは温かい蕎麦が良いというので汁物の蕎麦を取った。しかし、不思議なのは、京都という町の蕎麦屋は、何処もそこそこの蕎麦を食わせる腕を持っているということである。別に蕎麦通を気取る気は無い。最初は体重を気にして蕎麦を食い始めたが、数をこなしているうちに、それなりに美味い不味いの判断が付くようになったというだけのことである。ただ、食い物の美味い不味いは、あくまでも個人の味覚の問題で、TVの番組で、レポーターが美味いなぞという話はあまり信用したことはない。
飯を食いながら今日の行動について相談したが、取り敢えず紅葉の時期の京都は初めてということで、前にも拝観したことのある知恩院・青蓮院を歩いてみることにした。但し、知恩院は国宝の指定を受けている御影堂の改修工事中で、中は拝観できないということで、取り敢えず三門前を通り越し、青蓮院に向かった。その途中、前を通る度に気になっていた古刹があった。何時も本堂の前までは行くが、誰も人が居ないようなので、御朱印を頂戴するのは諦めていたが、何と今回は本堂の前の障子が開けられていた。声を掛けると、作務衣を着た方が出てこられたので御朱印は戴けませんかと伺ったところ、どうぞお上がり下さいということで、本堂に揚げて戴くと同時に、お寺の由来と記念的物として何があるのかについて御説明を頂戴した。
お寺の名前は“崇泰院(そうたいいん)”という。知恩院の塔頭として建てられたようであるが、1603年徳川家康の命により知恩院の寺地の拡充に伴って親鸞聖人の廟所を現在の大谷本廟(西大谷)へ移した跡地に開創されたものだという。現在の本堂は1898年に再建され、本堂裏には親鸞聖人旧廟所として墳墓と五輪石塔が祀られているということで、御参りすることを許された。
1262年親鸞聖人が亡くなった後、鳥辺野(とりべの)の南で火葬後鳥辺野の北大谷に葬られた。1272年親鸞聖人の末娘・覚信尼が中心となって遺骨を吉水(よしみず)の北の地(現在の祟泰院辺り)の覚信尼夫妻居住地に改葬し、六角堂の草堂に親鸞聖人の影像を安置し廟所とし、大谷廟堂となった。1313年頃に本願寺第三世覚如は大谷廟堂を“本願寺(大谷本願寺)”とする寺号をつけて寺院とした。これが本願寺の始まりとされているという。1415年この大谷本願寺で第八世蓮如が生誕し、1465年大谷本願寺が比叡山の僧兵に破壊されるまで本願寺の地であったという。1483年蓮如は山科本願寺を建立していると説明されている。
御朱印を頂戴し、お話を伺い、青蓮院を目指して歩を進めた。しかし、ここ何年か京都に御参りに来ながら、かみさんの両親のお骨を預けている大谷廟が、親鸞聖人の生誕の地とする石碑は眼にしていたが、門前を通り過ぎていた祟泰院に係わってくるとは思いもしなかった。
青蓮院門跡の紅葉は見事なものでした。青蓮院に行く時は何時も、襖絵の写真を写させて貰うが、木村英輝氏の作品だとされている。今回も青蓮院*門跡を訪問して、御庭の紅葉を拝見させて頂くと同時に、フラッシュを焚かなければ良いんだろうということで、襖の写真を撮らせていただくことにした。尚、今回は、この襖絵をあしらったトウトバックがあったので、中型を購入した。
座敷から御庭を拝見した後、青蓮院門跡を出た直ぐの所に知恩院の裏口が見えたのでそこから入ってみることにした。いずれにしろ今日はその道程を行くことでお終いにして、ホテルに行くことにした。石段を上がって寺務棟の前を通り、新玄関の前を過ぎて阿弥陀堂前から三門の横に出て、三門の横を抜けて表通りに出る。そこでタクシーに乗り、本日の宿泊ホテルである京都国際ホテルに向かった。
28日(水曜日)の総歩行数は、9,316歩。
今回の最大の目的は、金閣寺を参拝することにおいていた。金閣寺・銀閣寺は大概、中学あるいは高校の修学旅行で行くことになっているようであるが、どちらの修学旅行にも参加しなかった当方は、銀閣寺には昨年行ったが、金閣寺には未だ行っていない。そこでかみさんに頼んで1日は金閣寺周辺でと云う計画にしてもらった。最も計画といっても金閣寺に行くということ以外何も決めておらず、後は成行きで地図を見ながらお寺や神社を廻ると云うだけのことである。
通常、金閣寺と称しているが、正名は『鹿苑寺』で、臨済宗相国寺派の禅寺であるとされる。金閣はお釈迦様のお骨(仏舎利)を祀った舎利殿のことだといわれる。つまり舎利殿のつもりで建てたが、あまりに強烈すぎで一般人は金閣寺と思い込んでいるということ手はないか。鹿苑寺といわれても京都以外の住人は、金閣を思い浮かべることは難しいのではないか。
鹿苑寺は相国寺の塔頭寺院の一つで、元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘として北山殿を造ったのが始まりとされている。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと云われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化というとされている。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられたという。
今回、鹿苑寺では、特別公開として方丈(本堂)が公開されていた。方丈は延宝六年(1678)後水尾天皇のご寄進によって再建された。方丈は、聖観世音菩薩を中心に、梵天、帝釈天の三像および開山夢窓国師と中興文雅和尚および足利義満の木像をお祀りしている。方丈前庭は、相阿弥の作と伝えられている。方丈と同時代の作庭で、唐門を背景に後水尾天皇お手植えの侘助椿があり、女龍石、布袋石、走馬石、蟠龍石、露盤石などを巧みに配置して落着きをみせている。方丈襖絵は、黒川道祐の遠碧軒記に延宝九年(1681)に狩野外記が描いたと記されいるという。外記を称する狩野派の画家は幾人か数えられますが、ここでは信政の子、寿石敦信(秀信)だと考えられているという。
室中障壁画の一部である四面の画題は、帝堯より天下を譲るという話を聞いて、耳が汚れたと流れで洗う許由と、そのような水は牛に飲ませられないと引き返す巣父の二人を描いたもので、丸味のある筆癖が特徴的であり、比較的、古風な感じがする絵であります。また、須弥檀の絵は、下村観山の筆によるものと紹介されている。
当日は案内人が自動的に付き、方丈内の案内をしていたが、金閣寺を左に見て、方丈の裏手の廊下から眼の前にある“陸船の松”の説明を受けたが、何とも金閣を目指して帆掛け船が向かっている図とのことであったが、迂遠と云おうか何と云おうか、石組みをして土を積み上げ松の木を帆に見立てて、舎利殿に向かうという作庭が壮大な無駄に思えるというのは、将軍の器にはないということかもしれない。方丈について平成17年より2年6ヵ月の間、創建以来初の解体修理を行い、方丈の杉戸絵を近代日本画家石踊達哉・森田りえ子両画伯に書いて戴いたという案内がされたが、100年後にまで残って重文位になるのかどうか。紅葉の中金閣の写真が撮れたのは満足。
金閣寺を出て右に、立命館に沿ってきぬかけの道を行くと龍安寺に至る。龍安寺は臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来。龍安寺は元は徳大寺家の別荘を、宝徳二年(1450年)に細川勝元が譲り受け、創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺五世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(1467-1477年)で焼失。勝元の子の細川政元と、四世住持・特芳禅傑によって長享二年(1488年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護しているとする解説が見られる。
龍安寺と云えば“石庭”と云われるほど有名だが、龍安寺の方丈庭園である。幅 22m、奥行 10mほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を無造作に5か所、点在させただけの簡素な庭である。巨大な中国の山水の世界を日本人独特の感性で写したとされる「枯山水」の庭である。最大の特徴は、「水を感じさせるために水を抜く」ということで、水を見立てられるようなものを作る。白砂も大海をイメージし、岩は島というより山である。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。
龍安寺を出て右に道なりに仁和寺を目指す途中に、蓮華寺という案内が眼に付いた。地図を見ながら此処に寄り道をして仁和寺に行く道程はさして難しい道ではないと判断して寄り道することにした。蓮華寺は真言宗御室派、別格本山五智山蓮華寺で、近畿三十六不動尊第十五番霊場とされている。
五智不動尊縁起によると天喜五年(1057年)藤原康基は、御冷泉天皇の願いにより蓮華寺を建立した。その後、応仁の乱(1467年)の兵火にあい、蓮華寺は鳴滝音戸の山上に移されたが、その後百数十年の長い間荒廃が続き、寛永十二年(1635年)伊勢生まれの江戸の豪商樋口平太夫家次翁が、五智不動尊の霊夢に導かれ、発心入道して常信と名を改め秩父三十四ケ所・西国三十三ケ所・坂東三十三ケ所を木の実、草の根を食べながら、裸足で六年間の修行を遂げ、寛永十八年(1641年)荒廃していた蓮華寺の伽藍堂宇を再興し、仁和寺の宮覚深法親王(後水尾天皇皇兄)より改めて五智山蓮華寺の号を賜った。
以後六部の総本山として栄えると共に、曇寂・乗円等の名僧磧学を輩出した。昭和三年(1928年)住職慈海大僧正によって寺院は現在の地に移され、その後昭和三十三年(1958年)五智如来を始め石仏群は、山上山下に離散し、痛ましい御姿であったのを、収集し修復をして境内に遷座安置された。鳴滝音戸山山頂には、今も蓮華寺中興十七代までの各代霊墓が祀らているの紹介が、お寺で戴いた半截にされている。庭全体を占める石仏は見事である。
蓮華寺の裏門を抜け、突き当たりの塀が仁和寺の塀であり、塀に沿って道なりに行き、右に行くと仁和寺の門前に辿り着く。但し、仁王門に行く前、塀の途中に東門があり、境内に入ることが出来た。東門を入った左側に和食処『甍』の看板が出ていたので、腹も減ったし此処で飯を食おうということになった。食ったのは湯葉入りの蕎麦だったと思うが、あまり食い物に執着がないためか、完全に忘れている。
真言宗御室派総本山仁和寺は、仁和二年(886年)第五十八代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まる。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第五十九代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和四年(888年)に完成。寺号については建立時の元号から仁和寺とされたという。
仁和寺の仁王門は、京都では珍しいく道路に面しており、京都三大門のひとつと云われているようである。今回は横から入ったが、広大な境内に驚かされることは同じである。仁王門の対局、突き当たりにある“金堂”は国宝だという。中門と金堂の中間の位置右側に五重塔があるが、重要文化財だという。中門の右手に『御室桜』の案内が見えたが、金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇るなか、中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があり、古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われていると云うが、背の低い妙な桜の木が林立する様子は、花の時期は壮観だろうと云うことは認識できた。
仁和寺の仁王門を出て、門前の道を真っ直ぐ行くと、京福電気鉄道仁和寺駅に出る。この駅で電車に乗り一駅、妙心寺駅で降りて、妙心寺に寄ることにした。駅を降りて直ぐの所に北総門があり、案内所で妙心寺山内図を戴いたが、見た瞬間に絶句。京都花園臨済宗大本山妙心寺は、日本最大の禅寺と紹介されている。
臨済宗はインドの達磨大師から中国の臨済禅師を経て、妙心寺開山無相大師へと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としているという。1337年、95代の花園法皇の勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師の法流は四派に分かれ、全国3400ヶ寺に広がっているという。お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めるとされている。
案内図によると、南総門から放生池・三門・仏殿・法堂・大庫裡が縦に並んでいるが、その周りを取り囲んで『院』の付く建物が無闇に並んでおり、それこそ宏大な敷地に多くの塔頭が並んでいる。その中で幸いなことに妙心寺大法院が紅葉のこの時期特別公開していると云うことで寄ることにした。『且坐喫茶(且坐喫茶)』「まあ、坐って御茶でも召し上がれ。大法院の庭を眺めながら、一服のお茶を飲むゆとり。心が和む大切なひととき。」
仰る通り、紅葉の御庭を拝見し、お茶を一服。心休まる一時を過ごさせて戴いた。因みに大法院は妙心寺塔頭の一つで妙心寺境内にある。真田幸村の兄で松代藩主であった真田信之の菩提寺。露地庭園が美しいことで知られる。境内には、松代藩の真田家一門や兵法学者佐久間象山の御墓があるとする紹介がされている。
臨済宗の大本山妙心寺を中心に全山同派の塔頭で纏めた寺域が平地に分かり易く分布しており、初めての経験だっただけに驚いたが、京都の怖いところはこういうのが何気なく残っているという所である。
妙心寺からタクシーでホテルに戻り、ホテルで珈琲を飲みながら夜間特別拝観の照明がされているお寺で宵闇の紅葉を見ようという相談が纏まった。その様なお寺は清水寺しか知らなかったので、タクシーに乗って夜間特別拝観がされているお寺の紅葉を見たいので清水寺へと伝えたところ、そこは止めた方が良いですよ。タクシーも途中までしか入れませんし、人が多くて舞台まで上がるのに相当待たされますから。
今の時期夜見ることが出来るところは、何処も混みますけど、比較的空いているところがあるので、そこに御案内しましょうか。本当は将軍塚に行くと良いんですけど、永観堂も見応えのある紅葉が見られますよと云うことで、永観堂に連れて行った貰った。
永観堂は浄土宗西山禅林寺派総本山“永観堂禅林寺”、『みかえり阿弥陀』で知られた古刹である。
お寺で頂戴した半截によると、『永観律師を遡ること200年あまり、禅林寺は真言密教の寺として始まりました。863年弘法大師の高弟・真紹(しんじょう)僧都が、清和天皇から寺院建立の許可を貰い、禅林寺という名を賜ったのです。禅林寺が大きく発展したのは、永観律師の時代です。律師は境内に施療院を建てるなど、恵まれない人々のために奔走。永観律師を慕う人々によって、禅林寺は何時しか永観堂と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代に住職となった静遍(じょうへん)僧都は、高名な真言宗の僧侶でした。お念仏をとなえるだけで救われるという教えに反発を覚え、自分の方が正しいと証明しようと、法然上人の著書を開きました。ところが幾ら読んでも「間違っているのは自分では」と思わせられることばかりでした。ついに静遍はお念仏の教えに深く帰依します。そして法然上人の愛弟子・証空上人を次の住職として招きました。』
永保二年(1082年)二月十五日早朝。阿弥陀堂に人影が動く。夜を徹して念仏行に励んでいる僧侶がいるらしい。東の空がしらじらとし始めた。ふっと緊張がとけた一瞬、僧は息をのんだ。自分の前に誰かがいる。それが誰か気がついて、足が止まった。
「永観、遅し」ふりかえりざま、その方は、永観の眼を見つめられた。
永観堂禅林寺の御本尊は、首を左にかしげ、ふりむいておられます。
みかえり阿弥陀は今も阿弥陀堂に祀られているという。東山を背景とした永観堂の紅葉は見事なものだったが、悲しいかな腕がない。殆どの夜景が焦点の合わない写真になっていた。しかし、「永観、遅し」と云って振り返ったのは何だったのか。悟りを開くのが遅いと云うことだとすれば、少し無理な注文ではないのか。最も高僧といわれた人のようであるからそれだけ期待があったと云うことかもしれないが。29日(木曜日)の総歩行数は10,475歩。
京都駅の裏側、八条通の方向はあまり行かない。しかし今回は伏見稲荷に行くということで、計画していた。京都駅のコインロッカーに荷物を入れ奈良線に乗って二つ目の駅、稲荷駅で下車すると、眼の前に伏見稲荷大社が鎮座ましましている。楼門をくぐると本殿があり、本殿の裏から千本鳥居を潜って熊鷹社迄行き、そこでそれ以上登るのは諦めた。もっと上には御社、一の峯などがあるが、膝の状態を考えると登るのには限界がある。若い頃は面倒がって神社の階段を登ることはなく、年を取れば足の具合が悪くて登れない。出来る時にやっておかないと後で後悔すると云うことか。
いわゆる御稲荷さんの成り立ちは、小難しい歴史の中に潜り込んでおり、伏見稲荷大社のHPにお譲りする。
帰る前にどうしても行きたいということで、伏見稲荷の前から車に乗り、石峰寺に御願いしたいと云ったところ、ここから直ぐですよと云うことだった。歩いても行ける距離ですか。行けなくはないけど道が解り難いかも。いずれにしろ足弱な年寄りですから、迷惑でなければ乗せていって下さい。直線距離では大してないんですけど、車の通れる道ではないので少し遠回りになりますけど。それでいいということで車で運んで貰ったが、そこまでしていきたかったのは、伊藤若冲が彫ったという五百羅漢があると云うことで、拝見したかったと云うことである。
正式な名称は“黄檗宗系百丈山石峰寺”で、現在はあまり大きなお寺ではないようであるが、江戸中期の正徳三年(1713年)に黄檗宗萬福寺(宇治市五ヶ庄)の第六世千呆性侒(せんかんせいあん)禅師により創建された禅道場が始まりという。本堂裏の竹林に並ぶ「羅漢石仏」が特に著名。それら石仏は江戸中期の画家伊藤若冲が下絵を描き、石工に彫らせたもので、約500体並ぶことから「石峰寺五百羅漢」と称されている。
石峰寺は、七面山西麓にある。民家と民家の間の狭くなだらかな石段が参道。石段を登りきると竜宮造りの赤い総門があり、「高着眼(こうちゃくがん)」の扁額が架かる。黄檗宗萬福寺開祖の隠元禅師の高弟即非(そくひ)禅師で、石峰寺創建の千呆(せんかん)禅師の師。総門を潜ると正面に本堂が見え、参道は禅宗寺院に見られる平石の参道に変わり、左右は季節を感じさせる草花が茂る。本堂に祀られている本尊は薬師如来。当初の石峰寺は、諸堂整う大寺であったと伝えられるが、大正四年(1915年)と昭和五十四年(1979年)の二度の火災で現在では本堂と庫裏のみとなっているの紹介がされている。
石仏の写真撮影は禁止と云うことで、写真はないが野ざらしの仏像群であり、形あるものはやがて無に帰すという思想から云えば、写真は駄目という意味はないような気がするが、想像するに、写真を撮る時にへぼ達が仏像の並ぶ中にずかずかと入り込み、踏み倒す可能性があると云うことを心配してのことと思われる。
紅葉の五百羅漢や石峰寺
綿帽子五百羅漢の石峰寺
雪の野や五百羅漢の石峰寺
尚、雪の作品は石峰寺で購入した絵はがきの写真を見てのことである。しかし、あまり有名ではないかもしれないが、こういうお寺の方が趣味に合う。帰りは石峰寺で戴いた地図を便りに稲荷駅まで歩き、稲荷駅の近くで昼の食事を取り、その後稲荷駅から電車で東福寺駅まで行き、昨年来た時に紅葉の時期には速すぎて写真が撮れなかった、東福寺に寄って京都駅に戻ることにした。30日(金曜日)の総歩行数は16,946歩で、この3日間で一番歩いたことになっているが、伏見稲荷大社の上り下りで稼いだのではないか思う。
(2013.2.6.)