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『港区七福神巡り』

土曜日, 6月 1st, 2013

       鬼城竜生

箱根駅伝の最終ランナーがゴールテープを切ったのをテレビで見て、その後腰を持ち上げたので、約3時間は掛かるという七福神巡りを巡り終えるという確信は無かったが、かみさんと二人で出生田神社-001かけた。麻布七福神-02

大江戸線の大門で乗り換え、赤羽橋駅で下車。ザ・プリンスパークタワーの裏側を抜けると“宝珠院 ”に行き着く。宝珠院は、浄土宗お寺で貞亨二年(1685)に増上寺三十世霊玄上人が白蓮池に弁天堂を建立、同時に宝珠院を開創し、歴代住職をかねて来たといわれている。宝珠院には、港区指定文化財の閻魔大王の像があり、寄木作りで高さ2m、貞亨二年(1685)に作られたものであるとされている。右に司録、左に司命の二像(書記官)を従えているのが特徴だとされている。宝珠院に祀られているのは、“弁財天”である。

宝珠院を出て右に道なりに行くと熊野神社が見える。港区麻布台鎮座とされる“飯倉熊野神社”の勧請・縁起については元禄16年(1703)の火事によって旧記録が消失したため不明とされているが、神社で頂いた半截によると、養老年間(714-724)芝の浜辺に勧請されたものが、後当地へ遷座したという解説も見られる。当神社に祀られているのは“恵比寿”である。

次いで飯倉雁木坂児童麻布七福神-03遊園を左に折れ、外苑東通りを暫く行って十字路を首都高速都心環状線に入り、アークヒルズの前を六本木駅方向に左に入ると直ぐの所に久国神社が見えると簡麻布七福神-04単に書いたが、六本木坂下公園の所に歩道橋があるのに気付かずANAインターコンチネンタルの前まで行って、行き過ぎたのではないかと云うことで後戻りすることにした。地図では郵便局の前を曲がることになっていたが、郵便局に気付く前に神社の旗が眼に付いた。

“久国神社”について、創建年代は明らかではないが、もとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあって、その後何度かの移転を経て寛保元年(1741)に現在地に移ったと伝えられている。太田道灌が鎌倉時代の名工久国作の刀を寄進したことにより、久国稲荷として崇敬されてきた。昭和二年(1927)に現在名に改称。拝殿の額は勝海舟の筆によるものとされている。此処に祀られているのは“布袋尊”である。

次に六本木駅を目指し、駅前の十字路を右に入り、少し行って左に入ると天祖神社が見られる。“天祖神社”の御祭神は、天照大神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)で、今から約六百年前、南北朝の後小松院の御代、至徳元年八月十六日に、芝西久保、飯倉麻布七福神-05城山に、初めて祀られたものと伝えられている。

麻布七福神-06このお宮に、品川沖から毎夜龍が御灯明を献じたということで、この地を「龍灯山(りゅうどうやま)」といったといわれている。また太田道灌が、方五丁の祭田を寄進し、神社の社殿を再建し、信仰したことも伝えられている。元和の時代、徳川二代将軍秀忠の江戸城郭改築の際、社寺の移転があって現在の地に移転。この地一帯を龍灯(りゅうどう)からとって「龍土村」と唱えるようになり、神社の名前も「龍土神明宮」と称えられ、氏子の町々も「龍土六本木」「龍土材木町」と呼ばれ開けてきたという。

由緒ある本神社に祀られているのは、“福禄寿”と云うことであったが、5時を僅かに過ぎており、社殿の入口は閉じられていた。御朱印は諦めるかと一瞬思ったが、社務所の玄関から巫女さんが出てきたので御朱印を御願いしたところ、神主を呼んで戴き、御朱印は頂戴したが、今回の七福神参りは、此処までで中止することにした。1月3日(土曜日)の総歩行数は11,597歩で終わった。

家で夕飯を食って御茶を飲んでいたらかみさん麻布七福神-06が途中で止めるのは気持ちが悪いから明日残りを廻りましょうと云ってくれた。そんな訳で4日(日曜日)は、10時位に家を出て、大江戸線六麻布七福神-07本木駅に向かった。六本木駅の4b出口から六本木通りに出て、六本木六丁目交差点を目指した。その交差点を左に、心臓血管研究所病院の方向に行き、右側に入る道を入ると櫻田神社に行き当たる。

治承四年(1180)に源頼朝の命によって渋谷庄司重国が霞山に祀ったことに起こるという。
文治五年(1189)奥州征伐の奉賽として、源頼朝より30貫の田地を寄進された。この御神田の境界を区分するために畦道に桜を植えたところ、その桜が見事に咲き誇ったことから「桜田」と讃え、村の名も桜田村とすることにしたとされるが異説もあるようである。
文明年間(1469-87)に太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納した。寛永元年(1624)、江戸の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現社地に遷った。江戸城桜田門は桜田郷の名に因むという。また、現在の西新橋1丁目の一部(芝桜田)はかつての桜田村の一部であり、現在も桜田神社の氏子であるとされる。七福神は壽老人が祀られている。沖田総司や乃木希典大将が御参りしたという伝承も残っているようである。

櫻田神社を出て右に麻布税務署前の道を左にサンマリノ共和国の大使館前の道を行くとリトアニア共和国大使館の前に出る。狸坂を見て暗闇坂を過ぎて大黒坂に至ると、大黒坂の謂わ麻布七福神-08れとなた大法寺に至る。栄久山大法寺は慶長二年(1597)十一月の創立。開山は慈眼院日利とされている。江戸時代は赤門寺と呼ばれ、五世妙乗院日亮が伝教大師作と伝えられる三神具足の大黒天を祀り、甲子縁日には大変賑わった。三神具足とは尊像の姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を現わしているところから、呼ばれるようになったもの。関東大震災で焼失、昭和十四年十一月に再建されたが、昭和二十年年四月十五日の戦災によって全焼。昭和二十九年仮建築の本堂・庫裡を再建、昭和四十二年十一月に増改築がされたという。

付近に「麻布一本松」別名「冠の松」(江戸名所の一)があり、現在も茂っている。縁日は五の日。節分会・追儺式には豆撤きが行われている。寺宝として麻布一本松大黒天(伝・伝教大師作)がお祀りされており、御住職が説明されていたが、毎年七福神の時期に御開帳されているという。大法寺では御神酒と甘酒が振る舞われており、有難く頂戴した。

大法寺を出て右へ毘沙門天を祀る氷川神社を目指した。天慶五年(942)源経基が勅命を受け、天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松の地)に、境内二千余坪を勧請したのがはじまりだとされている。源経基は文武に秀でた武士で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖である。江戸城を修築した太田道灌も氷川神社を厚く崇敬されたことから、太田道灌勧請説(文明年間 ・1469~1485)もあるとされる。 遠く富士山も眺望できる絶景の地で、多くの武将が鷹狩りの時などに立ち寄ったという高台の社だった。このような四方絶景の坂上の地でしたが、方位等の関係で万治二年(1659)に、お社は麻布一本松付近より現地にご遷座した。江戸時代以降も芝居や能が賑やかにとりおこなわれた江戸氷川七社の一社として、また麻布の総鎮守府として崇敬されてきた。明治、大正時代を経て昭和の戦災に遭遇したが、宮神輿庫、神楽殿、手水舎は災禍を逃れて今に至っている。氏子区域は現在の元麻布、南麻布、西麻布と麻布十番、六本木、青山の一部とされている。               

氷川神社を出て、元の道を戻り、大法寺の前を通り過ぎて麻布十番に抜けた。七福神ということからいえば、十番稲荷神社は関係ないということになるが、何故か八番目ということで宝船が祀られているという。十番稲荷神社は、もと末広神社及び竹長稲荷神社であるとされる。両神社は、昭和二十年四月十五日に戦災に遭い焼失、昭和二十五年六月復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地した。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成九年三月二十九日に現社殿に建て替えられたという。

十番稲荷神社には江戸時代の文政四年(1821)七月二日、麻布古川あたりより始まった大火で、殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れたという。これは邸内の池の大蛙が、水を吹きかけて猛火を防いだからだという。そこで山崎家では文政四年の九月より、「上(じょう)」という一字が書かれた御札を万人に授けるようになったという。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めていたという。で今でも大蛙が祀られており、「かえる」お守りと名前を変えて配布されている。

麻布十番は初めてなので、きみちやん像の写真を撮り、豆菓子の豆源で豆菓子を買い、『布屋太兵衛永坂更科』で蕎麦を食って帰ってきた。二日目の総歩行数は8,022歩。

        (2013.1.25.)

『第X回目のクラス会』

土曜日, 6月 1st, 2013

           鬼城竜生

11月1沼津-011日(日曜日)-12日(日曜日)の両日に架けて、三島市立北中学校3年D組のクラス会を開催した。場所は沼津市志下にあるKKR沼津“はまゆう”に設定した。参加者は全員75歳、中に二人ばかり74歳というのが居たが、卒業してから何年経ったのか勘定するするのも面倒くさい位に昔の話だ。此処に一晩泊まって翌日下香貫島郷にある御用邸を見学することにしていた。勿論、我々が生徒の頃の御用邸は、まだ天皇家の物で、管理が厳しく、入ることは出来なかったが、島郷海岸に泳ぎに来た時、海の方から眺めたことがある程度であるが、昭和44年に御用邸としては廃止され、45年からは記念公園となって、庭園や邸が公開されるようになったと云うことである。

当日、夕方から雨の予報で、次の日まで引き摺ると云われており、そうなると御用邸の見学は難儀だなと思っていたところ、予報通り雨が降り出した。自然の範疇に入る天候について、くよくよ考えても仕方が無い、明日のことは明日のこととして、6時から食事を開始。宴会が始まる前に、館内の自動販売機で缶ビールを購入、宴会が始まる頃には相当出来上がっていて、宴会ではあまり酒は進まなかった。尤も明らかに年齢の問題もあって、酒が弱くなったと云うこともあるのだろうが、最初に頼んだ分だけですんでしまった。日本酒も何本か頼んでおいたが、誰も呑む人が居なかったので、幹事の責任で全て片付けさせていただいた。

その後、歌を歌おうと云うことで、話がまとまり、カラオケルームについて確認したところ、1曲100円で御自由にと云うことだったので出かけていって、何曲が歌たっ所に元気のいい女性の一群が沼津-02入ってきたので、引き上げることにして部屋で飲み直すことになった。

幸いなことに翌日は晴れて日が照っていた。御用邸を見学の後、香貫山に車で登れるところまで登ると云うことになっていたので、天気が回復したのは、心から感謝である。

朝出かけにホテルの前で前方の山を見ていた担任があれは象山だろうと云うので眼をやると成る程そんな形をしている山が目の前にあった。尤も象山は地元の人の言う通称で正式な名称は“徳倉山”である。隣町の三島に住んでいながら知らなかったが、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線は沼津アルプスと命名されているようである。地元の愛好会が登山道を整備し名付けたものという。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要だと云われている。その他、耳新しい言葉として『沼津垣』なる言葉を眼にした。これは昔から沼津周辺で浜の潮風を防ぐために用いられてきた垣根沼津-03で、箱根竹という細い篠竹を十数本ずつ束ねて、網代編みにした物だという。

ホテルの庭もそうだったが、此処も雨上がりの庭に黄色い石蕗の花が、点々と咲いていた。御用邸の邸内を見学したが、窓にはゆがみの入ったガラスが入っていたが、何とこれは昔のガラスを再生したガラスだという。建物全体の立て付けは、夏の避暑地ということではいいのかもしれないが、冬は住みたくない建て付けをしていた。明らかに暖房をするには非効率的な建物だと云える。

                          『見渡せば石蕗の花雨上がる』

建物内では特別企画として「吉田多最(たもつ)」の日本画展が実施されていた。その他庭では第42回菊花展が開催されていた。旧厩舎の近くにあるお休み処「主馬」で抹茶と和菓子を食し、香貫山を目指して出発した。但し、頂上を目指した訳ではなく、慰霊塔のある香陵台の駐車場まで上がった。そこでしばらく沼津港などの風景を遠望した後、食事をする予定の沼津港に向かった。沼津港では新鮮な魚が食いた沼津-04いと云うことで、魚河岸丸天でそれぞれ刺身盛り合わせ定食や海鮮丼を食して解散した。

地元の人達と別れて、沼津駅まで送ってもらった後、新幹線で東京に戻った。さて後何回クラス会が出来るのか、担任の先生は84歳と云っていたが、未だ元気だった。来年別の人間が幹事をやるが、今回の仲間が元気で集まれることを期待したい。

            (2012.11.18.)