鬼城竜生
箱根駅伝の最終ランナーがゴールテープを切ったのをテレビで見て、その後腰を持ち上げたので、約3時間は掛かるという七福神巡りを巡り終えるという確信は無かったが、かみさんと二人で出かけた。
大江戸線の大門で乗り換え、赤羽橋駅で下車。ザ・プリンスパークタワーの裏側を抜けると“宝珠院 ”に行き着く。宝珠院は、浄土宗お寺で貞亨二年(1685)に増上寺三十世霊玄上人が白蓮池に弁天堂を建立、同時に宝珠院を開創し、歴代住職をかねて来たといわれている。宝珠院には、港区指定文化財の閻魔大王の像があり、寄木作りで高さ2m、貞亨二年(1685)に作られたものであるとされている。右に司録、左に司命の二像(書記官)を従えているのが特徴だとされている。宝珠院に祀られているのは、“弁財天”である。
宝珠院を出て右に道なりに行くと熊野神社が見える。港区麻布台鎮座とされる“飯倉熊野神社”の勧請・縁起については元禄16年(1703)の火事によって旧記録が消失したため不明とされているが、神社で頂いた半截によると、養老年間(714-724)芝の浜辺に勧請されたものが、後当地へ遷座したという解説も見られる。当神社に祀られているのは“恵比寿”である。
次いで飯倉雁木坂児童遊園を左に折れ、外苑東通りを暫く行って十字路を首都高速都心環状線に入り、アークヒルズの前を六本木駅方向に左に入ると直ぐの所に久国神社が見えると簡単に書いたが、六本木坂下公園の所に歩道橋があるのに気付かずANAインターコンチネンタルの前まで行って、行き過ぎたのではないかと云うことで後戻りすることにした。地図では郵便局の前を曲がることになっていたが、郵便局に気付く前に神社の旗が眼に付いた。
“久国神社”について、創建年代は明らかではないが、もとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあって、その後何度かの移転を経て寛保元年(1741)に現在地に移ったと伝えられている。太田道灌が鎌倉時代の名工久国作の刀を寄進したことにより、久国稲荷として崇敬されてきた。昭和二年(1927)に現在名に改称。拝殿の額は勝海舟の筆によるものとされている。此処に祀られているのは“布袋尊”である。
次に六本木駅を目指し、駅前の十字路を右に入り、少し行って左に入ると天祖神社が見られる。“天祖神社”の御祭神は、天照大神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)で、今から約六百年前、南北朝の後小松院の御代、至徳元年八月十六日に、芝西久保、飯倉城山に、初めて祀られたものと伝えられている。
このお宮に、品川沖から毎夜龍が御灯明を献じたということで、この地を「龍灯山(りゅうどうやま)」といったといわれている。また太田道灌が、方五丁の祭田を寄進し、神社の社殿を再建し、信仰したことも伝えられている。元和の時代、徳川二代将軍秀忠の江戸城郭改築の際、社寺の移転があって現在の地に移転。この地一帯を龍灯(りゅうどう)からとって「龍土村」と唱えるようになり、神社の名前も「龍土神明宮」と称えられ、氏子の町々も「龍土六本木」「龍土材木町」と呼ばれ開けてきたという。
由緒ある本神社に祀られているのは、“福禄寿”と云うことであったが、5時を僅かに過ぎており、社殿の入口は閉じられていた。御朱印は諦めるかと一瞬思ったが、社務所の玄関から巫女さんが出てきたので御朱印を御願いしたところ、神主を呼んで戴き、御朱印は頂戴したが、今回の七福神参りは、此処までで中止することにした。1月3日(土曜日)の総歩行数は11,597歩で終わった。
家で夕飯を食って御茶を飲んでいたらかみさんが途中で止めるのは気持ちが悪いから明日残りを廻りましょうと云ってくれた。そんな訳で4日(日曜日)は、10時位に家を出て、大江戸線六本木駅に向かった。六本木駅の4b出口から六本木通りに出て、六本木六丁目交差点を目指した。その交差点を左に、心臓血管研究所病院の方向に行き、右側に入る道を入ると櫻田神社に行き当たる。
治承四年(1180)に源頼朝の命によって渋谷庄司重国が霞山に祀ったことに起こるという。
文治五年(1189)奥州征伐の奉賽として、源頼朝より30貫の田地を寄進された。この御神田の境界を区分するために畦道に桜を植えたところ、その桜が見事に咲き誇ったことから「桜田」と讃え、村の名も桜田村とすることにしたとされるが異説もあるようである。
文明年間(1469-87)に太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納した。寛永元年(1624)、江戸の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現社地に遷った。江戸城桜田門は桜田郷の名に因むという。また、現在の西新橋1丁目の一部(芝桜田)はかつての桜田村の一部であり、現在も桜田神社の氏子であるとされる。七福神は壽老人が祀られている。沖田総司や乃木希典大将が御参りしたという伝承も残っているようである。
櫻田神社を出て右に麻布税務署前の道を左にサンマリノ共和国の大使館前の道を行くとリトアニア共和国大使館の前に出る。狸坂を見て暗闇坂を過ぎて大黒坂に至ると、大黒坂の謂われとなた大法寺に至る。栄久山大法寺は慶長二年(1597)十一月の創立。開山は慈眼院日利とされている。江戸時代は赤門寺と呼ばれ、五世妙乗院日亮が伝教大師作と伝えられる三神具足の大黒天を祀り、甲子縁日には大変賑わった。三神具足とは尊像の姿が大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を現わしているところから、呼ばれるようになったもの。関東大震災で焼失、昭和十四年十一月に再建されたが、昭和二十年年四月十五日の戦災によって全焼。昭和二十九年仮建築の本堂・庫裡を再建、昭和四十二年十一月に増改築がされたという。
付近に「麻布一本松」別名「冠の松」(江戸名所の一)があり、現在も茂っている。縁日は五の日。節分会・追儺式には豆撤きが行われている。寺宝として麻布一本松大黒天(伝・伝教大師作)がお祀りされており、御住職が説明されていたが、毎年七福神の時期に御開帳されているという。大法寺では御神酒と甘酒が振る舞われており、有難く頂戴した。
大法寺を出て右へ毘沙門天を祀る氷川神社を目指した。天慶五年(942)源経基が勅命を受け、天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松の地)に、境内二千余坪を勧請したのがはじまりだとされている。源経基は文武に秀でた武士で、鎌倉幕府の栄華を築いた清和源氏の祖である。江戸城を修築した太田道灌も氷川神社を厚く崇敬されたことから、太田道灌勧請説(文明年間 ・1469~1485)もあるとされる。 遠く富士山も眺望できる絶景の地で、多くの武将が鷹狩りの時などに立ち寄ったという高台の社だった。このような四方絶景の坂上の地でしたが、方位等の関係で万治二年(1659)に、お社は麻布一本松付近より現地にご遷座した。江戸時代以降も芝居や能が賑やかにとりおこなわれた江戸氷川七社の一社として、また麻布の総鎮守府として崇敬されてきた。明治、大正時代を経て昭和の戦災に遭遇したが、宮神輿庫、神楽殿、手水舎は災禍を逃れて今に至っている。氏子区域は現在の元麻布、南麻布、西麻布と麻布十番、六本木、青山の一部とされている。
氷川神社を出て、元の道を戻り、大法寺の前を通り過ぎて麻布十番に抜けた。七福神ということからいえば、十番稲荷神社は関係ないということになるが、何故か八番目ということで宝船が祀られているという。十番稲荷神社は、もと末広神社及び竹長稲荷神社であるとされる。両神社は、昭和二十年四月十五日に戦災に遭い焼失、昭和二十五年六月復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地した。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成九年三月二十九日に現社殿に建て替えられたという。
十番稲荷神社には江戸時代の文政四年(1821)七月二日、麻布古川あたりより始まった大火で、殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽の領主、山崎主税助の屋敷のみが類焼を免れたという。これは邸内の池の大蛙が、水を吹きかけて猛火を防いだからだという。そこで山崎家では文政四年の九月より、「上(じょう)」という一字が書かれた御札を万人に授けるようになったという。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めていたという。で今でも大蛙が祀られており、「かえる」お守りと名前を変えて配布されている。
麻布十番は初めてなので、きみちやん像の写真を撮り、豆菓子の豆源で豆菓子を買い、『布屋太兵衛永坂更科』で蕎麦を食って帰ってきた。二日目の総歩行数は8,022歩。
(2013.1.25.)