『本門寺松濤園』
木曜日, 2月 7th, 2013鬼城竜生
年に1回池谷本門寺の松濤園が公開されると云うことで9月13日(木曜日)、夏の暑さがそのまま残るなか出かけてきた。総歩行数は10,427歩、本門寺までの往復と松濤園内の歩行だけで、大して歩数は稼げなかったが、松濤園内を結構小まめに歩いたと云うことである。
松涛園は本門寺の旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州(1579-1647)によって作られたと紹介されている。作庭に当たっては、この4千坪に広がる庭に遠州茶道の極意を具現し、渓流と池を回遊する名園としました。それはまた本坊客殿より渓谷美を俯瞰できるように作られたものであるといわれている。宗祖700年遠忌の後期事業として修築され、平成三年五月に落慶したとされている。どの程度修築されたのか解らないが、小堀遠州が死んでから365年が経過している。死ぬ直前に作庭したとは思えないが、少なくとも350年は過ぎているのではないか。それだけの時間経過があって、果たして小堀遠州の作庭がそのまま残っているとは考えられないが、平成三年時の修築で何処まで復元できたのか。
松濤園内には相当の巨木がある。この巨木はある意味庭の歴史を示すことになるが、それだけの木の大きさを当初から考えに入れて作庭したとすれば、凄いということになる。ところで松濤園の一般公開は年に1回ということだが、なぜ何時も9月なのか。この時期2度ほど参加したが、目配りが悪いのか、サルスベリの花しか眼に付かなかった。出来れば、春なり秋なりの時期に公開して戴ければ、庭の別の顔が見えるかもしれない。
なお、池の左手に島が作られているが、亀島と云う名前が付けられているようであるが、確かに正面から見た姿は、亀の頭が見え、確かに亀島であると確認できた。池の水は湧水と云うことだが、1箇所の井戸から出ているだけで、他からの流れ込みは見られなかった。昔と違い開発が進んでいる中で、湧水の確保は難しいのではと思えたが、この間殆ど雨が見られなかったにもかかわらず、池の水は十分に足りているように見えた。ところで狸の石像が一体だけ飾られていたが、あれは何かいなと首を捻らされた。
松濤園の売りの一つは西郷隆盛と勝海舟会見が行われたと云うことである。紹介によると慶応四年(1868)四月に西郷隆盛と勝海舟はこの庭のあずまやで江戸城明け渡しに関する会見をしたと伝えられている(東京都史跡指定)。本門寺には当時、新政府軍の本陣がおかれていたという。現在は石碑が建てられているが、この跡地に平成四年四月に完成した茶室が、法華思想である『水』に因んで『浄庵』と名付けられている。浄庵は庭園の一番高い所にあり、国賓などを接遇できる茶室だとされている。
松濤園にはその他『根庵・鈍庵・松月亭』という三つの茶室が有る。『根庵』は三井物産の祖と云われる益田 孝、茶人としても有名で鈍翁と号した益田の庇護が厚つかった陶芸家大野鈍阿の住いだったといわれている。この建物と、茶室「鈍庵」の二棟を裏千家より寄贈され、移築したものとしている。「鈍庵」に対して根庵と名付け、大運庵と三つの茶室を合わせ「運・鈍・根」の組合わせとなると紹介されている。八畳間の茶室二間、一回の最大収容人数は50名と茶室としては大きすぎやしないか。
根庵と同時に寄贈された『鈍庵』は、四畳中板の茶室で、栗材を使った建物。「鈍庵」の名は、大野鈍阿が自らの名にちなんで付けたものと云われている。『松月亭』は庭の西の小高い見晴しの良い場所に建てられたあずま屋で、茶会では庭の西の小高い見晴しの良い場所に建てられたあずま屋で、茶会では立札席(りゅうれいせき:椅子席に座って気軽に御茶を頂く席)として使用され、床几等を配し、60名の席を作ることができるとされている。
(2012.9.15.)