『市ヶ谷亀岡八幡宮あたり』
火曜日, 1月 1st, 2013鬼城竜生
有楽町線の市ヶ谷駅で降りると、何時もは九段の方にでるのだが、今回は会議の始まる前に、少し早めに出かけて市谷八幡町にある“市ヶ谷八幡神社”に御参りすることにしていた。何時もとは逆な方向で、橋を渡らなければと考えていたが、何と7番出口をでると、神社の方に出ることが出来る様な案内板が掲げてあった。しかし、出口を出たはいいが、神社の入口は横断歩道を渡った反対側で、横断歩道は橋の近くにあるため、そこまで戻らなければならなかった。神社の入口に立つと、何と階段が有り、その階段の途中、左側にも神社が有り、“茶木稲荷神社”が御鎮座していた。
“茶木稲荷神社”は、今をさること一千年余り昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられているという。この山の地主の神であり、古来この地を稲荷山と呼んだのも、そのいわれによるものだという。御祭神は保食神(うけもちのかみ)、すなわち稲荷大神である。この大神は、食物・衣服のことを司るのが主なる御神徳だとされているが、その他にも、家内の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っていると紹介されている。
御祭神の保食神は神話の世界では食べ物に係わる神様である。古事記では食べ物に係わる上はオオゲツヒメ(大気都比売神)とされているが、同じ神かもしれない。それが何で稲荷になるのか解らないが、神の食事の世話をすると云うことから神の使いであるとなるのかもしれない。それと弘法大師がお寺ではなく何で神社なのかよく解らない。
更に“茶木稲荷神社”の御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があるという。古伝によれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居たが、ある時誤って茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗があったという。特に眼病の人は一七日、或は三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したとされている。
“市谷亀岡八幡宮”は、太田道灌が文明十一年(1479)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりとされる。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中にあったとされる。しかし、その後戦火にさらされ荒廃してしまったが、江戸時代に入り寛永十三年頃(1636)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。 市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建されたという。
明治・大正時代、そして昭和の戦前には、日本橋の魚河岸、大傳馬町等の諸問屋、麹町牛込の繁華街の方々に熱心な信者が多く、敬神講・小祭講等の講が数多く組織されていた。しかし、長い間の戦争により崇敬者の方々も地方に疎開、戦後永く中断していたが、2000年より再スタートが切れるまでになったと紹介されている。
市谷亀岡八幡宮の御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと:第十五代應神天皇)・気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと:神功皇后・應神天皇の母君)・與登比売神(よとひめのかみ:應神天皇の姫神)とされている。その他、境内社として金刀比羅宮・出世稲荷神社の二社が併祀されている。
市谷亀岡八幡宮の文化財としては、太田道灌が奉納したと云われる軍配団扇、新宿区内では唯一の銅鳥居(文化元年(1804)建造。銅造の明神鳥居。額には播磨国姫路藩三代藩主酒井忠道の筆による「八幡宮」の三文字が記載。新宿区指定有形文化財)、茶筌塚(ちゃせんづか)、お百度参りの百度石や力石の他、句碑・名刀碑等があると云われている。
2012.9.8.(土曜日)の総歩行数は7,762歩。
(2012.9.12.)