熊本 健軍神社
月曜日, 12月 3rd, 2012鬼城竜生
2014年7月28日(土曜日)17:00分から会議があると云うことで、熊本に出かけた。翌29日(日曜日)は、帰りの飛行機の時間まで間があるので、水前寺公園に寄って写真を撮って帰りたいと考えていた。熊本城は前回東日本大震災の翌日に来た時に、地元の方々に御案内頂き、写した写真は既に使わせて頂いた。
従って今回は水前寺公園の写真を写して機会があれば、使用したいと考えていた。今回も御案内頂けるということなので、その様に御願いし、もし時間があれば、熊本で最も古い神社と云われている健軍神社に寄りたいとの希望を申し上げた。東京に戻る連れが、熊本は初めてだということだったので、取り敢えず熊本城の天守閣だけは見て行こうということで、熊本城に行った。
水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は、肥後細川藩初代忠利公が鷹狩の際に、渾々と清水が湧くこの地を殊の外気に入り、御茶屋を建設したのが始まりとされている。後、綱利公の代に大規模な作庭がされ、桃山式の優美な回遊式庭園が完成、陶淵明の詩(帰去来辞)より成趣園と命名されたという。華やかな元禄時代には東屋も沢山あり、成趣園十景を選んで楽しまれたという。重賢公の代、宝暦の改革で建物は酔月亭一つを残して撤去され、樹木も松だけの質素なものとされた。護久公の代には版籍奉還で一時官有地となったが、明治11年10月7日、成趣園を境内地として細川藤孝公・忠興公以下歴代藩主を祀る出水神社が創建され今日に至っているとされる。
水前寺成趣園は、阿蘇の湧水で作られた池を中心にして、東海道五十三次を模した庭園であり、国の名勝、史跡に指定されている。筑山、浮石、松の木が巧みに配され、池のほとりには京都から移築した茶屋「古今伝授の間」がある。「長寿の水」は、石の水盤に流水されている、この水盤はもともとは朝鮮の京城城門の柱の礎石であったといい、「袈裟」の銘が残っていまる。細川忠興公が大いに愛され庭に置き、日夕賞玩されていたという貴重なものであると解説されている。
ただ庭を見る限り、どの辺りが東海道五十三次の風景を模したのか、残念ながらよく解らなかったが、多分あれが富士山ではないかという築山だけは見当が付いた。
水前寺成趣園の中に“出水神社(いずみ)”が祀られている。明治10年西南の役で、熊本の城下は焼け野原になったという。旧藩主を慕っていた旧藩士達は、藩主の御霊を祀り、御恩徳によって戦いで荒んだ人心を安定させ、熊本の町を発展させようとの願望から崇敬者が集い、細川家に関係の深い水前寺成趣園の地を選び此処に社殿を創建し、細川藤孝(幽斎)公(初代)ほか三柱[忠興郷(二代)、忠利朝臣(三代)]を祭鎮した。後に歴代の藩主十柱及び忠興公室のガラシャ夫人が合祀されている。
現在の社殿は、第二次世界大戦の戦火を蒙った社殿は殆ど消失したということで、昭和48年12月に現在の社殿が完成したと神社で頂戴した半截に説明されている。
水前寺成趣園にある茶屋「古今伝授の間」の座敷に上げて戴き、御茶を頂戴したが、池畔に建つ萱葺きの古い建物で、県指定重要文化財の座敷に座って茶なぞ呑んでいると、間違いなく心静かに居られる。
未だ、時間があると云うことで、熊本市最古社「健軍神社」に寄ることになった。健軍神社の参道、いわゆる一の鳥居から二の鳥居までの距離が1,230mあるということで、昔は壮大な神社だったんだろうと思われるが、今参道には車が走っている。その参道の突き当たりにある木造の鳥居は、初めてお目に掛かったが、無闇に背の低い位置に据え付けられていた。何でそんな背の低い鳥居にしたのか訊ねてもらったところ、頭を低くして境内に入るためだとの回答を得た。
健軍神社は、昔は「たけみや」("竹宮"又は"健宮")と呼ばれていたが、「健軍宮」に変わり、昭和以降「けんぐん」と音読されるようになり、健軍村→健軍町と地域名へ発展して行ったとする紹介が見られる。
祭神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、日本神話に登場する人物で、阿蘇神社の主祭神である。神武天皇の子である神八井命の子として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられるとされている。
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、神道に登場する神。天地創造に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。
仲津彦神(なかつひこのみこと)、仲津姫神(なかつひめのみこと)、神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)、阿蘇津姫命(あそつひめのみこと)、草部吉見神(くさかべよしみじんじゃ)、速甕玉命(はやみかたまのみこと)、彦御子命(ひこみこのみこと)、比