鬼城竜生
2011年11月9日(水曜日)今回は二泊三日の予定で京都に出かけており、永代供養を御願いしている大谷祖廟の両親の霊に御参りに行った。その後KKR京都くに荘チェックイン、荷物を置いて、直ぐ近くにある京都御所に行ってみることにした。清和院御門を入って直ぐの所で地図を見ていたら御所内の管理をされている方から時間があるなら前日に申し込みをすると京都御所の見学が出来ますよと教えてくれた。更にこの道を少し行って後ろを振り返ると、大文字焼きの大の字が見えますとも教えられた。夜火が燃えている時なら誰もが気がつくかもしれないが、昼間の時間帯では、云われなければ解らない。確かに仙洞御所の塀際から振り向くと、大の字か見えた。
早速、環境省京都御苑管理事務所に行き手続きをしたところ、午前の部に入れて貰えた。京都御所の塀に沿って梨木神社という鳥居が見えたので御参りして行くことにした。御神木『愛の木』なる石碑があったりホトトギスの花が咲いており、やや時期は過ぎたとは云え、萩の花も見ることが出来た。萩の枝には投句の短冊が下げられており、選句がされたと思われる句が展示されていた。
神社のしおりによれば、梨木神社は、父子である贈右大臣正一位三條実萬(さねつむ)公と内大臣正一位大勲位公爵三條実美(さねとみ)公の二柱の神様をお祀りしています。実萬公は、菅原道真公の生まれかわりと崇められ当時の人々から今天神様と称せられた才色兼備の方で、早くから王政復古の大儀を唱えられ、明治維新の原動力となられた方です。息子の実美公は父の遺志を継ぎ、朝威回復、攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍、あらゆる困難に堪え、危機に遭遇されながらも明治維新の大業を達成されました。当社は、実萬公を御祭神として明治十八年十月に旧邸の地名(梨木町)にちなみ、今の地に「梨木神社」として創祀、大正四年の大正天皇即位式にあたって実美公を第二座御祭神として合祀するにいたりました。実萬公・実美公父子は、現在も知と行動を兼ね備えた学問の神として崇敬を集めていますとされている。
梨木神社の直ぐ横、寺町通りを渡った直ぐの所に大本山廬山寺なるお寺が有り、驚いたのは『源氏物語執筆地、紫式部邸宅跡』の案内が掲げられていたことである。本寺は廬山天台講寺が正式の名称のようである。天台系圓浄寺の大本山で、正しくは廬山天台講寺というとする説明が半截に記載されている。天慶年間(938)比叡山天台十八世座主元三大師良源(慈恵大師)によって京都の北、船岡山南麗に開かれた興願金剛院に始まる。
寛元三年(1245)に法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人(一三六八)によって廬山寺が興願金剛院に統合される。この時以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となる。
その後室町時代に、応仁の兵火に遭い、また元亀二年の信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅令を受け、天正元年(1573)現在地・紫式部邸宅跡に移転する。
当地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877-933)から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため、「堤邸」と呼ばれ、されに因んで兼輔は「堤中納言」の名前で知られていた。紫式部は百年ほど前に、兼輔が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたと云われ、この邸宅で藤原宜孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子(たかこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したものである。
現在の本堂は、宝永五年(1708)、天明八年(1788)相次いでの焼失後、寛政六年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものである。宮中の仏事を司る寺院が四ヵ寺(廬山寺、二尊院、般船院、遣迎院)あり、その中の一つであった。けれども、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預けになり、明治天皇の勅命により当山のみが復興され今日に至っております。
明治五年九月、太政官布告を以て総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年(1948)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至るとする解説が廬山寺で頂いた半截に書かれている。
おとろしい話である。あの紫式部が住んでいた地、源氏物語を書いた場所などと云うのがそこらに転がっている。長い歴史のある街とは云え、歴史上の人がその辺に出てくる。というのが気持ちが悪い。所で廬山寺の門前にある元三大師の石柱は、開山の慈恵大師の事だという。
所で廬山寺、気付いたのが遅く、拝観時間の終了の4時間近に受付に辿り着いたため、今日は諦め、明日ということで引き上げた。
11月9日の総歩行数は10,226歩となった。
10日の朝はまず京都御所見学に出かけた。
桓武天皇は、延暦三年(西暦784年)に都を奈良の平城京から京都の長岡京へ移され、同十三年(794年)、更に平安京に遷都された。平安京は、現在の京都市街の中心地に当たるところに造営され、南北約5.3km、東西約4.5kmの方形で、東西の中央を南北に通じる朱雀大路(現在の千本通り)によって左京(東方)と右京(西方)に二分、それぞれ大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。そして都の北端にある一条大路に内接した南北約1.4km、東西約1.2kmの大内裏(宮城)があり、政務や儀式を行う朝堂院、豊楽院、太政官その他の官庁が置かれていた。朝堂院は大内裏南部中央に朱雀大路に南面し、院内の北部には正庁である大極殿(現在の千本丸太町あたり)が建っていた。ちなみに今の平安宮の社殿は当時の大極殿を縮小して復元したものである。
皇居は内裏と呼ばれ、天皇の住まいであった。大内裏の中央東より、朝堂院の北東に位置し、南北300m、東西220mあまりの地域を占めていた。正殿のある紫宸殿のほか、清涼殿、弘徽殿、麗景殿、飛香舎など王朝文学で馴染みの深い宮中殿舎が立ち並んでいた。
遷都から166年を経た天徳四年(960)に内裏は最初の火災に遭い、時の村上天皇は冷泉院(後院)を仮皇居とし、内裏は直ちに再建された。しかし、その後も内裏は度々火災による焼失と再建を繰り返し、内裏完成までの間は貴族の邸宅などを仮皇居に充てられるようになっていた。何時しかこれを里内裏(さとだいり)と呼ぶようになり、平安時代の末期には大内裏にある内裏はあまり使用されず、里内裏を日常の皇居とするようになった。この間、大内裏の大極殿等も再三火災を起こし、相次ぐ戦乱等のために再建されることもなく、遂には内裏も同様の経過を辿って、全く廃墟と化すことになった。現在の京都御所は土御門東洞院殿といわれる里内裏の一つで、平安内裏の廃滅と前後して用いられることが多くなり、元弘元年(1331)光厳天皇が此処に即位されてから、明治二年(1869)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。
京都御苑の中央北部にある。(東西約250m、南北約450mの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政二)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模している。御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがある。小御所前には大きな池を配した優雅な庭園がある等の説明が半截に記載されている。
中の見学は、団体で係の方が案内してくれた。
前日拝観できなかった廬山寺に行き、寺内の写真を撮ると共に、御朱印を頂戴した。
その後本日の目的地である瑠璃光院を目指した。京都御所から京阪電車の出町柳駅まで。更に叡山電車の出町柳駅から電車に乗り八瀬比叡山口駅で下車。駅前の食堂で遅昼を摂り、瑠璃光院を目指した。瑠璃光院は紅葉が綺麗だということで目的地に選定したが、残念ながら今年の紅葉は京都全体が遅れており、瑠璃光院へ行く道の木々の紅葉には未だ間があるように見えた。
瑠璃光院の説明には今一つ解らないところがあるが、無量寿山『光明寺本坊』瑠璃光院とするのが正式な名称のようである。『光明寺本坊』については、延喜式にも記される大洞神社の宮司が、室町時代に蓮如上人の教化によって浄土真宗に帰依し、近江祖坊を建立。幾多の変遷を経ながら五百年の法統を守り続け、今日に至っている。光明寺は現在、東京・千葉・埼玉・岐阜・滋賀・京都・宇治にそれぞれ別院を持ち、当寺に籍をもつ僧侶方が布教活動をしていると報告されている。
また瑠璃光院については、『八瀬の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに「やすらぎ」の郷として愛されてきた。本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと記録に残っており、明治の元勲三条実美公は、当時の庵に「喜鶴亭」と名付けて直筆の命名額を下されているという。その後、大正末から昭和の初めにかけて、一万二千坪の敷地に延二四〇坪に及ぶ数奇屋造りに大改築するとともに、自然を借景とした名庭を造営。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は佐野藤右衛門一統の作と伝えられているという。
そして現在は、文化財の保護と公益を目的に、一般の方々にも公開する機会を持ち、皆様に「心のやすらぎ」を提供するに至りましたとする紹介がされている。
八瀬比叡山口に戻り、未だ時間があると云うことで、歩いて『蓮華寺』に寄ることにした。何があるか解らないが、兎に角歩いてみようと云うことである。
途中で宗道神社という神社の前を通ったが、何せ高い階段の奥の方にあるので、御参りするのは遠慮したが、紅葉は見事という話もあった。宗道神社は、その社伝によれば、785年(延暦四年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年-877年)に創建されたという。1915年(大正四年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の三社が合祀されたという。
帰命山蓮華寺は、天台宗。江戸初期の寛文年間(1661-73)加賀藩の家老今枝近義が洛中から移し再興。本堂前に六角形急勾配の笠をつけた蓮華寺型石灯籠があり、茶人の間で有名。鐘楼には黄檗2世木庵禅師銘のある銅鐘がかかっている。庭園は池泉廻遊式で石川丈山作とも伝える。建立は1662年(寛文二年)とされている。
蓮華寺の所在地は鴨川源流の一つ高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期に、今枝近義が再建したものであると紹介されている。此処も紅葉の時期は凄い紅葉が見られるようで、京都の怖いところは、あまり知られていない寺にいいところがあると云うことである。瑠璃光院は御朱印は書いておいてある物をお持ち帰り下さいというものであったが、蓮華寺は御住職が書いて下さった。感謝である。
本日の総歩行数は、17,615歩で、この歩行数は一人では稼げなかった歩数である。
11日は東寺と東福寺を御参りすることにしていた。
京都駅を降りると、何時もは七条通の側に出るため、東寺とは全く御縁がなかった。今回はかみさんと相談して東寺を御参りすると共に、紅葉がいいと評判の東福寺の紅葉を見に行くことにしていた。
『真言宗総本山東寺について』(東寺配布資料)
このお寺は平安京造営の時、東寺として創建されました。皇居から南へ延びる朱雀大路(すざくおおじ)の南端に、都への入口として羅城門(らじょうもん)があり、その東側に東寺、西寺の官立寺院が建立されました。そして東寺を弘法大師に賜ったのであります。東寺は左京と東日本の守り寺として一千二百年になります(西寺は現在存在していません)。
弘法大師はその教えを真言宗と名付けられ、東寺は教王護国寺と名乗りました。人間も自然もそのまま仏様と同じであると教えられ、誰でもやれば出来ることを示されました。
今日はわざわざご参詣下さいまして、大変ありがとうございました。 合掌。
真言宗総本山 教王護国寺(東寺)
東寺は、真言宗寺院の総本山であると共に根本道場であり、東寺真言宗の総本山である。山号は八幡山。御本尊は薬師如来であると紹介されている。東寺は、平安京鎮護のための寺院として計画された後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名刹として存続している。昭和九年(1934年)に国の史跡に指定、平成六年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。この寺には「東寺」及び「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」であるとされている。
「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。つまり近代以降の法人名としては教王護国寺が正式名称であるといえる。ただ、東寺という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。
教王護国寺という名称は、平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶八年=1308)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正一九年(1591)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯にも「東寺」としてあり、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している様である。
所で東寺、でかいというのが最初の印象。次に五重塔。天長三年(826)弘法大師の創建着手に始まるが、しばしば災火を受け、焼失すること4回に及んでいる。現在の塔は寛永二十一年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの現存する日本の古塔中再校の塔であると紹介されている。
この国宝五重塔を写真に撮ろうと苦心惨憺したが、中々どうしてでかすぎて巧く治まらない。更に紅葉を加えて五重塔を撮りたいと思ったが、佳いところに紅葉の木はない。無理に写したら葉先だけが赤い木がか細く写るという体たらくであった。池と五重塔も巧い位置で取り込むことは出来ず、五重塔は塔の根方で撮る物ではない、絵葉書みたいな出来合いになってしまう。写真を諦め、丁度秋期特別公開の期間であったため、金堂・講堂・宝物館・観智院を拝観できるということで、一回りすることにした。
重要文化財である金堂は東寺一山の本堂で延暦十五年(796)創建されたという。文明十八年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に竣工した。天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風みなぎる桃山時代の代表的建築で、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れているする解説がされている。金堂には薬師三尊(薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像)と十二神將が安置されている。
重文講堂は東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成した。その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきたが、文明十八年(1486)の土一揆による戦火で焼失した。現在の講堂は延徳三年(1491)再興された建物で、旧基壇の上の上に建てられ、様式も純和洋で優美な姿を保っている。堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来を始め五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一