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『8vol%-エタノール添加0.1w/v%-塩化ベンザルコニウム液について』

火曜日, 11月 27th, 2012

 

KW:消毒・滅菌・8%・エタノール添加・塩化ベンザルコニウム液・0.1w/v%・クロルヘキシジン液・気管内吸引チューブ・歯科用医療機器・バイオフィルム・Serratia marcecens・Burkholderia cepacia

Q:0.1w/v%-塩化ベンザルコニウム液に8vol%-エタノールを添加する意味

A:塩化ベンザルコニウム液は、安価で使用し易い消毒薬であるが、Serratia marcecensに対して0.1%-塩化ベンザルコニウムは無効であったとする報告が見られる。また、Burkholderia cepaciaについても0.1%-塩化ベンザルコニウムは無効であったとする報告がある。
これらの抵抗性細菌に対する消毒薬として、低濃度エタノール(8、11vol%)を添加した0.1%-塩化ベンザルコニウムを用いた所、10分後おおよそ99.9%以上の菌数減少が見られた。既にクロルヘキシジンと5-10vol%-エタノールを併用すると相乗効果が得られることが判明しているが、塩化ベンザルコニウムとエタノールとの併用でも良好な抗菌効果が得られたとする報告が見られる。
塩化ベンザルコニウムに抵抗性を示すS.marcescens及びB.cepaciaに対して、8vol%濃度
以上のエタノール添加の0.1%-塩化ベンザルコニウムは、良好な抗菌効果を示した。塩化ベンザルコニウムとエタノールとの併用は、臨床現場でも使用価値があると考えられる。
気管内吸引チューブ浸漬用消毒薬として、塩化ベンザルコニウムに8vol%濃度以上のエタノールの添加が勧められる。但し、エタノール濃度が高いと気道粘膜に刺激を与える可能性があるので、毒性の観点からエタノールはできる限り低濃度であることが望ましい。
尚臨床使用において、気管内吸引チューブ浸漬用消毒薬として8vol%-エタノール添加1%-塩化ベンザルコニウムを用いれば、微生物汚染が生じないことが既に判明している。

気管内吸引チューブ(カテーテル)は、滅菌済みの物を使用することが必要であり、滅菌済みのディスポ製品を用いるのが原則である。しかし経済的な理由で、消毒により再使用することが行われる場合もある。この際の消毒法として、0.02-0.05%塩化ベンザルコニウム液やクロルヘキシジン液による浸漬が繁用されているが、Pseudomonas cepacia等のグラム陰性桿菌の一部に対して抗菌力が劣る消毒薬では、結果的に気管内吸引チューブ(カテーテル)の消毒が出来ていないということになる。
消毒用エタノール50mL+0.1%塩化ベンザルコニウム450mL及び消毒用エタノール50mL+0.05%クロルヘキシジン450mL(いずれもエタノール濃度は約8v/v%)の消毒薬を調整し試験した結果、P.cepacia、P.fluorescens等の塩化ベンザルコニウム、クロルヘキシジン耐性菌に対し効果を示した。また、添加エタノール量は、約8v/v%であるため、気道粘膜に対する毒性は低いと考えられるとする報告がされている。
気管内吸引チューブを繰り返し頻回使用する場合、その消毒には8v/v%-エタノール含有の塩化ベンザルコニウムやクロルヘキシジンを用いるのがよい。またこれらの消毒薬や吸引チューブは使用開始後24時間で廃棄するのが適当と報告されている。また、吸引チューブ消毒の前後に用いる滅菌精製水は、例え8v/v%-エタノール含有消毒薬で処理したとしても、滅菌精製水の細菌による汚染防止は困難であり、8-12時間毎の廃棄が推奨されるとしている。

その他、歯科用医療器具の消毒目的で、主として第4級アンモニウム塩(0.1w/v%-塩化ベンザルコニウム)に0.5w/v%-亜硝酸ナトリウム及び12vol%-エタノールを添加し、防錆及び微生物混入による汚染防止を目的とした製剤を開発した。P.aeruginosaについては、検出限界まで、3分以上の浸漬時間を要したが、通常の器具の浸漬時間は10分とされており、特に問題とはならない。また、塩化ベンザルコニウム抵抗性菌として試験したA.xylosoxidans subsp.xylosoxidansに対しては、顕著な殺菌効果の差が認められたとする報告がされている。

薬物の抵抗性あるいは耐性について、次の報告が見られる。

第3世代セフェム系を分解する基質拡張型β-lactamaseβ-lactamase(extended-spectrum beta-lactamases:ESBLs)を産生するプラスミド性遺伝子により多剤耐性が拡散したことが欧米で大きな問題になっている。エンテロバクター、セラチア、プロテウス、シトロバクターは本来的にβ-lactamase産生であり、耐性を拡大することもある。

S.marcescensは赤色からピンクの色素を産生することが多く、洗面台などにバイオフィルムを形成していることを目視で観察できる場合がある。バイオフィルムとは、菌体表面に多糖体を主成分とするグリコカリックスやスライム(粘液質)を産生し、これを介して凝集する。バイオフィルムを形成した細菌は、消毒薬に抵抗することが知られている。消毒薬が接触している表面の細菌は死滅しているが、接触していない中心部の細菌は生き残っている。四級アンモニウム塩(塩化ベンザルコニウム、塩化ベンゼトニウムなど)耐性菌では、菌体内への不透過性あるいは菌体外への排出による耐性が報告されている。

近年、消毒薬の抵抗菌に耐性遺伝子の獲得や耐性関連の遺伝子の変異が認められるなど、遺伝的な背景が感受性株と明らかに違いを呈している。耐性機構には薬剤の排出、不活化、取込み減少などが知られている。特に消毒薬の菌体外への排出は、薬剤特異性がないことから、消毒薬ばかりでなく、抗菌薬を含む多剤耐性菌の出現が考えられる。
緑膿菌、セラチア属、ブドウ球菌、レジオネラなどはバイオフィルムを形成する。バイオフィルム形成により消毒薬及び抗菌薬の標的細胞への到達が阻止され、いずれも殺菌効果が減弱する。

以上の各報告から相対的に考察すると、第4級アンモニウム塩に対して抵抗性を示す細菌の消毒に、8-12vol%-エタノールを添加するのは、細菌側の防御機構に対して、エタノールの蛋白質の凝固変性作用等が影響して、防御機構を減弱あるいは破壊することによって、消毒薬の効果が本来の機能を発揮したものと考えられる。従って臨床現場で使用した医療用具の消毒には、8-12vol%-エタノール添加消毒薬の使用が推奨される。
但し、気管内吸引チューブ等、使用することによって患者に感染の危険が考えられる場合、医原性感染を回避する意味からもdisposable製品を使用すべきである。

1)諏訪雅宣・他:低濃度エタノールを添加した塩化ベンザルコニウムの殺菌効果;医学と薬学,50(2):179-181(2003)
2)尾家重治・他:気管内吸引チューブの微生物汚染とその対策;日環感,8(1):15-18(1993)
3)和田英己・他:「インスベン

「スローKとアスパラ細粒の対応量」

火曜日, 11月 27th, 2012

 

KW:臨床薬理・対応量・スローケー錠・アスパラカリウム細粒・potassium L-aspartate・potassium chloride・K・K.C.L.エリキシル・グルコンサンK細粒

Q:スローケー錠の剤形が大きいためアスパラカリウム細粒に変更する場合、対応する量について

A:各製剤について、次の通り報告されている。
アスパラカリウム錠300mg・アスパラカリウム散50%(田辺三菱)は、L-アスパラギン酸カリウム(potassium L-aspartate)製剤で1錠中に300mg(K+:1.8mEq)・1g中に500mg(K+:2.9mEq)を含有する製剤である。尚、本品の用法及び用量について『L-アスパラギン酸カリウムとして、通常成人1日0.9-2.7g(錠:3-9錠、散:1.8-5.4g)を3回に分割経口投与する。なお、症状により1回3g(錠:10錠、散:6g)まで増量できる。』とされている。

スローケー錠600mg(ノバルティス)は1錠中(日局)塩化カリウム(potassium chloride)600mg(カリウムとして8mEq) を含有する徐放性カリウム剤である。尚、本品の用法及び用量について『通常成人は1回2錠を1日2回、食後経口投与する。年齢、症状により適宜増減する。』とされている。

両製品の対応量を見る場合、カリウム含有量での比較が必要で有るが、

アスパラカリウム散50%

2.9mEq/g

3.24mEq-9.72
mEq/日
スローケー錠 8 mEq/錠 32mEq/日

スローケー錠1日量(4錠)は32mEqで、アスパラカリウム散1日量(1.8-5.4g)は3.24mEq-9.72mEqと算出できる。単純に対応量を算出した場合、約10倍の投与量と計算できる。アスパラカリウム散で1日18g-54gいうことで、服用量の関係で単純に対応量を服用させると云うことにはならない。

従って、患者が剤形の問題で、スローケー錠を服用できないというのであれば、医師と相談し、患者が必要とするカリウム量を決定し、アスパラカリウム散として投与量を決定することが必要である。

その他、K.C.L.エリキシル(1.34mEq/mL)、グルコンサンK細粒(4mEq/g)等への変更も検討する。

1)アスパラカリウム錠・散添付文書,2010.10.
2)スローケー錠添付文書,2012.10.
3)高久史麿・他編:治療薬マニュアル2012;医学書院,2012

          [015.4POT:2012.10.10.古泉秀夫]

「統合失調症治療薬の副作用-眼球上転の発現理由」

火曜日, 11月 27th, 2012

KW:副作用・眼球上転・統合失調症・schizophrenia・スキゾフレニア・精神分裂病・非定型抗精神病薬

Q:統合失調症の治療薬を服んでいる患者が副作用として眼球上転を訴えているが、このような症状が起こる原因は何か。また対処法はあるのか

A:統合失調症は代表的な精神疾患の一つである。統合失調症(schizophrenia)を病気として認識したのはKraepelin(1856-1926)、Bleuler(1857-1939)によるところが大きい。独逸の精神医学者Kraepelinにより早発性痴呆(dementia praecox)と命名されたが、1911年瑞西のBleulerによりSchizophrenie(スキゾフレニア)と命名され、我が国では「精神分裂病」の訳語が1937年(昭和12年)より用いられてきた。その他、精神乖離症、精神分裂症と云われていたこともあるとされる。しかし、精神それ自体の分裂と誤解され易いこと、患者の人格否定につながる等の理由から、2002年(平成14)に「統合失調症」に呼称が変更され、誤解、差別、偏見の解消が期待されている。

統合失調症は青年期ないし成年前期に発症し、陽性症状や陰性症状を呈し、早期に十分な治療的介入を行わないと、進行性の経過を取り易く、再発を繰り返しやすい。発病危険率は0.8%前後で、男女差はないと報告されている。

統合失調症の成因は生物-心理-社会的な要因の複雑な相互作用により発症する。「脆弱性-ストレス」モデルは、多因子が関与し、多段階発達的に形成された脳の脆弱性に心理社会的なストレスが関与し発症するエピソードを統合失調症と見なす。

治療は薬物療法が主体で、非定型(第二世代)抗精神病薬は、錐体外路症状が少なく、陰性症状や認知機能、心理社会的機能、QOLの改善が期待される。心理社会的治療(SST等)は患者の社会復帰を推し進める上で重要である。

統合失調症の治療の最も主要なものは抗精神病薬である。更に重要、安全、効果的な治療手段である。その治療効果は、次の三方向に大別できる。

?鎮静効果(sedative effect):精神安定効果とも呼ばれ、意識状態に変化を来さない量で、精神運動興奮、攻撃性、衝動性を抑制する。
?抗異常体験(抗幻覚妄想)効果:幻覚、妄想、作為体験などが消失ないし、それらの体験に対する患者の構えが疎隔化する。
?賦活(抗自閉)効果:感情鈍麻、意欲減退、昏迷などの精神活動低下の状態を賦活し、生活療法的働きかけを容易にし、社会復帰が可能なようになる。

抗精神薬の選択基準

a.急性期における鎮静的投与:精神運動興奮や異常体験等が出現する急性期には、許容最高量に近い薬用量を比較的急速に投与する。急性の錐体外路系の副作用防止のため、抗パーキンソン薬を併用する。速い治療効果を期待する場合や、拒薬などのため経口投与が困難な場合は注射用製剤を用いる。急性期の症状が激しくなかったり、賦活効果を望む場合は、漸増、漸減が一般的である。
*ハロペリドールデカン酸(haloperidol decanoate)[セレネース錠(大日本住友)][副作用]ジストニア(痙攣性斜頸、顔面・咽頭・頸部の攣縮、後弓反張、眼球回転発作等)錐体外路症状→パーキンソン薬投与等処置
*フルフェナジンデカン酸(fluphenazine decanoate)[フルデカシン注(田辺三菱)][副作用]ジストニア(眼球上転、眼瞼痙攣、舌突出、痙性斜頸、脛後屈、体幹側屈、後弓反張、構音障害、舌のもつれ等)錐体外路症状→抗パーキンソン薬投与等処置

b.維持療法:急性の諸症状が消退して、社会復帰のための生活指導、作業・レクリエーション療法、集団精神療法、デイケアなどを行う際に、中等量の抗精神病薬の維持投与を続ける。

c.再発防止療法:寛解に至っても少量の抗精神病薬を服用することが、良好な社会生活への適応と再発防止のため重要である。

d.新しい抗精神病薬:統合失調症の特徴的な症状を、陽性と陰性の二つの大きなカテゴリーに分けて概念化する試みもある。

陽性症状[妄想、幻覚、解体した会話、酷く解体した又は緊張病性の行動等]:ドパミン受容体(D2)遮断作用が有効。

陰性症状[感情平板化、思考の貧困、意識低下等]:セロトニン受容体(5-HT2)遮断作用が有効。

非定型抗精神病薬(D2遮断作用・5-HT2遮断作用を併せ持つ)
*リスペリドン(risperidone)[リスパダール錠(ヤンセン)][副作用]眼障害(調節障害、眼球回転発作、眼瞼痙攣、視力低下)。
*オランザピン(olanzapine)[ジプレキサ錠(イーライリリー)][副作用]ジストニア(眼球挙上、下肢不安症、動作緩慢)錐体外路症状→抗パーキンソン薬投与等処置。
*クエチアピンフマル酸(quetiapine fumarate)[セロクエル錠(アストラゼネカ)][副作用]錐体外路症状(アカシジア、振戦、構音障害、ジスキネジア、嚥下障害、ジストニア、眼球回転発作、パーキンソン症候群)

錐体外路症状(dopamine D2受容体遮断による副作用)

錐体外路系は、大脳基底核(尾状核、被殻、淡蒼球)と黒質、赤核、視床下部を中心とした経路であり、前障及び視床、脳幹網様体の一部も含まれると考えられる。臨床的には、垂体路、小脳系以外の運動を抑制する系の意味で用いられる。錐体外路系の機能障害による神経症状を錐体外路症状(extrapyramidal symptom;EPS)と称する。EPSには不随意運動、筋緊張異常、随意運動発現障害(無動)、姿勢異常などの症状が含まれる。薬剤性EPSの原因は殆ど抗精神病薬である。症状としてはパーキンソニズム、アカシジア、ジストニアがあり、薬剤内服のタイミングと発症との関係において早発症状と遅発症状に分けられる。

早発症状の一つである急性ジストニア(acute dystonia;ADt)では、突然奇異な姿勢や運動を生じるのが特徴である。一定の筋群の収縮によって不随意的な捻転運動が見られる。舌を突出したり、斜頸、後弓反張、口頭ジストニア、眼球上転発作などが出現する。強い痛みのため、日常生活に支障を来す場合がある。若い男性で急性ジストニアのリスクが高い。

ジストニア(dystonia):筋肉が異常に縮み、首、目蓋、手首などが曲がったり、引きつったりする症状が見られる。運動すると症状が強くなる。腕に起これば書痙、首に起これば痙性斜頸。治療法としては、抗痙攣薬のclonazepamやパーキンソン病治療薬のl-dopaが有効なことがある

非定型抗精神病薬の錐体外路症状発現率

clozapineやquetiapineでは、殆ど錐体外路症状(EPS)の発現は見られず、olanzapineとrisperidoneは従来の抗精神病薬よりEPSの発現率は少ないものの、投与量に依存して出現する。非定型抗精神病薬を第二世代抗精神病薬とする報告がある。第二世代抗精神病薬は効果的な臨床用量を投与すると、全て従来の抗精神病薬より顕著にEPSのが少なくなっている。従来の定型抗精神薬の使用では、EPSは日常的で、重篤な副作用を併発する。患者の訴えは不快感(discomfort)と苦悶(distress)に加えて、EPSによってcomplianceが悪くなり、結局は治療効果が悪くなる。第二世代抗精神病薬は、急性と遅発性に起こるEPSの両者の減少をもたらす。全ての第二世代抗精神病薬は概ねEPSを少なくし、大きい問題を併発しうる抗パーキンソン薬の投与を減ずることが出来る。長期間の研究dataでは、第二世代抗精神病薬が遅発性ジスキネジアの発症リスクも減少させることを示唆している。

統合失調症を中心とする急性・慢性の精神病状態(精神運動興奮・昏迷、幻覚、妄想等)の治療薬は、臨床薬理学的には、?抗精神病効果、?dopamine D2受容体親和性を共通特性とするが、用量力価(mg potency)や定型・非定型によって薬理作用と副作用は若干異なる。抗精神病効果・錐体外路症状・血中プロラクチン上昇は、dopamine受容体への結合を介して現れる。つまり効果と副作用は統合失調症治療薬の薬理作用の正負の関係で発現するものといえる。

1)上島国利・他:NEW精神医学 改訂第2版;南江堂,2008
2)高久史麿・他編:治療薬マニュアル2012;医学書院,2012
3)融 道男:向精神薬マニュアル 第3版;医学書院,2008

             [065.EPS:2012.7.10.古泉秀夫]

『東寺』

火曜日, 11月 13th, 2012

          鬼城竜生

2011年11月9日(水曜日)今回は二泊三日の予定で京都に出かけており、永代供養を御願いしている大谷祖廟の両親の霊に御参りに行った。その後KKR京都くに荘チェックイン、荷物東寺-001を置いて、直ぐ近くにある京都御所に行ってみることにした。清和院御門を入って直ぐの所で地図を見ていたら御所内の管理をされている方から時間があるなら前日に申し込みをすると京都御所の見学が出来ますよと教えてくれた。更にこの道を少し行って後ろを振り返ると、大文字焼きの大の字が見えますとも教えられた。夜火が燃えている時なら誰もが気がつくかもしれないが、昼間の時間帯では、云われなければ解らない。確かに仙洞御所の塀際から振り向くと、大の字か見えた。

早速、環境省京都御苑管理事務所に行き手続きをしたところ、午前の部に入れて貰えた。京都御所の塀に沿って梨木神社という鳥居が見えたので御参りして行くことにした。御神木『愛の木』なる石碑があったりホトトギスの花が咲いており、やや時期は過ぎたとは云え、萩の花も見ることが出来た。萩の枝には投句の短冊が下げられており、選句がされたと思われる句が展示されていた。

神社のしおりによれば、梨木神社は、父子である贈右大臣正一位三條実萬(さねつむ)公と内大臣正一位大勲位公爵三條実美(さねとみ)公の二柱の神様をお祀りしています。実萬公は、菅原道真公の生まれかわりと崇められ当時の人々から今天神様と称せられた才色兼備の方で、早くから王政復古の大儀を唱えられ、明治維新の原動力となられた方です。息子の実美公は父の遺志を継ぎ、朝威回復、攘夷決行の急進派少壮公卿の中心人物として活躍、あらゆる困難に堪え、危機に遭遇されながらも明治維新の大業を達成されました。当社は、実萬公を御祭神として明治十八年十月に旧邸の地名(梨木町)にちなみ、今の地に「梨木神社」として創祀、大正四年の大正天皇即位式にあたって実美公を第二座御祭神として合祀するにいたりました。実萬公・実美公父子は、現在も知東寺-002と行動を兼ね備えた学問の神として崇敬を集めていますとされている。

梨木神社の直ぐ横、寺町通りを渡った直ぐの所に大本山廬山寺なるお寺が有り、驚いたのは『源氏物語執筆地、紫式部邸宅跡』の案内が掲げられていたことである。本寺は廬山天台講寺が正式の名称のようである。天台系圓浄寺の大本山で、正しくは廬山天台講寺というとする説明が半截に記載されている。天慶年間(938)比叡山天台十八世座主元三大師良源(慈恵大師)によって京都の北、船岡山南麗に開かれた興願金剛院に始まる。

寛元三年(1245)に法然上人に帰依した住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人(一三六八)によって廬山寺が興願金剛院に統合される。この時以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となる。

その後室町時代に、応仁の兵火に遭い、また元亀二年の信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅令を受け、天正元年(1573)現在地・紫式部邸宅跡に移転する。

東寺-003当地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877-933)から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため、「堤邸」と呼ばれ、されに因んで兼輔は「堤中納言」の名前で知られていた。紫式部は百年ほど前に、兼輔が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたと云われ、この邸宅で藤原宜孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子(たかこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したものである。

現在の本堂は、宝永五年(1708)、天明八年(1788)相次いでの焼失後、寛政六年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものである。宮中の仏事を司る寺院が四ヵ寺(廬山寺、二尊院、般船院、遣迎院)あり、その中の一つであった。けれども、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預けになり、明治天皇の勅命により当山のみが復興され今日に至っております。

明治五年九月、太政官布告を以て総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年(1948)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至るとする解説が廬山寺で頂いた半截に書かれている。

おとろしい話である。あの紫式部が住んでいた地、源氏物語を書いた場所などと云うのがそこらに転がっている。長い歴史のある街とは云え、歴史上の人がその辺に出てくる。というのが気持ちが悪い。所で廬山寺の門前にある元三大師の石柱は、開山の慈恵大師の事だという。

所で廬山寺、気付いたのが遅く、拝観時間の終了の4時間近に受付に辿り着いたため、今日は諦め、明日ということで引き上げた。

11月9日の総歩行数は10,226歩となった。

10日の朝はまず京都御所見学に出かけた。

桓武天皇は、延暦三年(西暦784年)に都を奈良の平城京から京都の長岡京へ移され、同十三年(794年)、更に平安京に遷都された。平安京は、現在の京都市街の中心地に当たるところに造営され東寺-004、南北約5.3km、東西約4.5kmの方形で、東西の中央を南北に通じる朱雀大路(現在の千本通り)によって左京(東方)と右京(西方)に二分、それぞれ大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。そして都の北端にある一条大路に内接した南北約1.4km、東西約1.2kmの大内裏(宮城)があり、政務や儀式を行う朝堂院、豊楽院、太政官その他の官庁が置かれていた。朝堂院は大内裏南部中央に朱雀大路に南面し、院内の北部には正庁である大極殿(現在の千本丸太町あたり)が建っていた。ちなみに今の平安宮の社殿は当時の大極殿を縮小して復元したものである。

皇居は内裏と呼ばれ、天皇の住まいであった。大内裏の中央東より、朝堂院の北東に位置し、南北300m、東西220mあまりの地域を占めていた。正殿のある紫宸殿のほか、清涼殿、弘徽殿、麗景殿、飛香舎など王朝文学で馴染みの深い宮中殿舎が立ち並んでいた。

遷都から166年を経た天徳四年(960)に内裏は最初の火災に遭い、時の村上天皇は冷泉院(後院)を仮皇居とし、内裏は直ちに再建された。しかし、その後も内裏は度々火災による焼失と再建を繰り返し、内裏完成までの間は貴族の邸宅などを仮皇居に充てられるようになっていた。何時しかこれを里内裏(さとだいり)と呼ぶようになり、平安時代の末期には大内裏にある内裏はあまり使用されず、里内裏を日常の皇居とするようになった。この間、大内裏の大極殿等も再三火災を起こし、相次ぐ戦乱等のために再建されることもなく、遂には内裏も同様の経過を辿って、全く廃墟と化すことになった。現在の京都御所は土御門東洞院殿といわれる里内裏の一つで、平安内裏の廃滅と前後して用いられることが多くなり、元弘元年(1331)光厳天皇が此処に即位されてから、明治二年(1869)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。

京都御苑の中央北部にある。(東西約250m、南北約450mの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政二)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模している。御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがある。小御所前には大きな池を配した優雅な庭園がある等の説明が半截に記載されている。

中の見学は、団体で係の方が案内してくれた。

前日拝観できなかった廬山寺に行き、寺内の写真を撮ると共に、御朱印を頂戴した。

その後本日の目的地である瑠璃光院を目指した。京都御所から京阪電車の出町柳駅まで。更に叡山電車の出町柳駅から電車に乗り八瀬比叡山口駅で下車。駅前の食堂で遅昼を摂り、瑠璃光院を目指した。瑠璃光院は紅葉が綺麗だということで目的地に選定したが、残念ながら今年の紅葉は京東寺-006都全体が遅れており、瑠璃光院へ行く道の木々の紅葉には未だ間があるように見えた。

瑠璃光院の説明には今一つ解らないところがあるが、無量寿山『光明寺本坊』瑠璃光院とするのが正式な名称のようである。『光明寺本坊』については、延喜式にも記される大洞神社の宮司が、室町時代に蓮如上人の教化によって浄土真宗に帰依し、近江祖坊を建立。幾多の変遷を経ながら五百年の法統を守り続け、今日に至っている。光明寺は現在、東京・千葉・埼玉・岐阜・滋賀・京都・宇治にそれぞれ別院を持ち、当寺に籍をもつ僧侶方が布教活動をしていると報告されている。

また瑠璃光院については、『八瀬の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに「やすらぎ」の郷として愛されてきた。本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと記録に残っており、明治の元勲三条実美公は、当時の庵に「喜鶴亭」と名付けて直筆の命名額を下されているという。その後、大正末から昭和の初めにかけて、一万二千坪の敷地に延二四〇坪に及ぶ数奇屋造りに大改築するとともに、自然を借景とした名庭を造営。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は佐野藤右衛門一統の作と伝えられているという。

東寺-008して現在は、文化財の保護と公益を目的に、一般の方々にも公開する機会を持ち、皆様に「心のやすらぎ」を提供するに至りましたとする紹介がされている。

八瀬比叡山口に戻り、未だ時間があると云うことで、歩いて『蓮華寺』に寄ることにした。何があるか解らないが、兎に角歩いてみようと云うことである。

途中で宗道神社という神社の前を通ったが、何せ高い階段の奥の方にあるので、御参りするのは遠慮したが、紅葉は見事という話もあった。宗道神社は、その社伝によれば、785年(延暦四年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年-877年)に創建されたという。1915年(大正四年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の三社が合祀されたという。

帰命山蓮華寺は、天台宗。江戸初期の寛文年間(1661-73)加賀藩の家老今枝近義が洛中から移し再興。本堂前に六角形急勾配の笠をつけた蓮華寺型石灯籠があり、茶人の間で有名。鐘楼には黄檗2世木庵禅師銘のある銅鐘がかかっている。庭園は池泉廻遊式で石川丈山作とも伝える。建立は1662年(寛文二年)とされている。

蓮華寺の所在地は鴨川源流の一つ高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期に、今枝近義が再建したものであると紹介されている。此処も紅葉の時期は凄い紅葉が見られるようで、東寺-009京都の怖いところは、あまり知られていない寺にいいところがあると云うことである。瑠璃光院は御朱印は書いておいてある物をお持ち帰り下さいというものであったが、蓮華寺は御住職が書いて下さった。感謝である。
本日の総歩行数は、17,615歩で、この歩行数は一人では稼げなかった歩数である。

11日は東寺と東福寺を御参りすることにしていた。

京都駅を降りると、何時もは七条通の側に出るため、東寺とは全く御縁がなかった。今回はかみさんと相談して東寺を御参りすると共に、紅葉がいいと評判の東福寺の紅葉を見に行くことにしていた。

『真言宗総本山東寺について』(東寺配布資料)

このお寺は平安京造営の時、東寺として創建されました。皇居から南へ延びる朱雀大路(すざくおおじ)の南端に、都への入口として羅城門(らじょうもん)があり、その東側に東寺、西寺の官立寺院が建立されました。そして東寺を弘法大師に賜ったのであります。東寺は左京と東日本の守り寺として一千二百年になります(西寺は現在存在していません)。
弘法大師はその教えを真言宗と名付けられ、東寺は教王護国寺と名乗りました。人間も自然もそのまま仏様と同じであると教えられ、誰でもやれば出来ることを示されました。
今日はわざわざご参詣下さいまして、大変ありがとうございました。 合掌。

真言宗総本山 教王護国寺(東寺)

東寺は、真言宗寺院の総本山であると共に根本道場であり、東寺真言宗の総本山である。山号は八幡山。御本尊は薬師如来であると紹介されている。東寺は、平安京鎮護のための寺院として計画された後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名刹として存続している。昭和九年(1934年)に国の史跡に指定、平成六年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。この寺には「東寺」及び「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがあ東寺-010る。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」であるとされている。
 
「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。つまり近代以降の法人名としては教王護国寺が正式名称であるといえる。ただ、東寺という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。

教王護国寺という名称は、平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶八年=1308)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正一九年(1591)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯にも「東寺」としてあり、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している様である。

所で東寺、でかいというのが最初の印象。次に五重塔。天長三年(826)弘法大師の創建着手に始まるが、しばしば災火を受け、焼失すること4回に及んでいる。現在の塔は寛永二十一年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの現存する日本の古塔中再校の塔であると紹介されている。

この国宝五重塔を写真に撮ろうと苦心惨憺したが、中々どうしてでかすぎて巧く治まらない。更に紅葉を加えて五重塔を撮りたいと思ったが、佳いところに紅葉の木はない。無理に写したら葉先だけが赤い木がか細く写るという体たらくであった。池と五重塔も巧い位置で取り込むことは出来ず、五重塔は塔の根方で撮る物ではない、絵葉書みたいな出来合いになってしまう。写真を諦め、丁度秋期特別公開の期間であったため、金堂・講堂・宝物館・観智院を拝観できるということで、一回りすることにした。

重要文化財である金堂は東寺一山の本堂で延暦十五年(796)創建されたという。文明十八年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に竣工した。天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風みなぎる桃山時代の代表的建築で、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れているする解説がされている。金堂には薬師三尊(薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像)と十二神將が安置されている。

重文講堂は東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成した。その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねてきたが、文明十八年(1486)の土一揆による戦火で焼失した。現在の講堂は延徳三年(1491)再興された建物で、旧基壇の上の上に建てられ、様式も純和洋で優美な姿を保っている。堂内の白亜の壇上には大東寺-011日如来を中心とした五智如来を始め五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一

『桜と東京スカイツリー』

月曜日, 11月 12th, 2012

 

鬼城竜生

桜の時期に墨堤に出かけ、完成した東京スカイツリーと桜の写真を撮ろうと4月6日(金曜日)に出かけた。東京メトロ銀座線浅草駅で降り、何時もは吾妻橋に出るところを駒形橋に出墨堤-01墨堤-04た。駒形橋の浅草側の欄干から対岸を見ると、完成した東京スカイツリーとアサヒビールの筋斗雲が見えた。アサヒビール吾妻橋ビルは、ビールのジョッキをイメージしたと云われる姿をしており、右側にあるのはスーパードライホールという名前のようであるが、その上にあるのは筋斗雲では無く、フランスのデザイナーであるフィリップ・スタルクによる『炎』のオブジェで、躍進するアサヒビールを象徴するものだと云うことであるが、申し訳ないが、横に寝ている姿は『炎』では無く筋斗雲である。

駒形橋から東京スカイツリーと筋斗雲を入れて写真を撮り対岸に渡り左に曲がり吾妻橋の方向を目指す。橋際に“吾妻橋観光案内所”があるので、覗いて『東京スカイツリー周辺ガイドマップ2012春版』なるものを手に入れた。再び川に沿って勝海舟像を右手に見て、隅田公園に、写真を撮りながら牛嶋神社に御参りをし、桜と鳥居を入れて東京スカイツリーを写そうとしたが、思うようなアングルが得られなかった。

牛嶋神社を出て左に、見番通りを通って三囲神社まで脚を伸ばし、数枚の写真を撮り、裏へ抜けて再び川っ淵に出て言問橋まで戻ることにした。三囲神社は今迄に何回か来たが、古人の俳句の碑や色墨堤-02々な神様が併祀されている墨堤-03賑やかな神社である。それに名前が印象に残るのは、時代物の小説に頻繁に出てくる神社の名前として記憶されるせいでは無いかと思われるが、どうだろう。尤もこちらが思うほどには世間の方々の認知度は高くないのかもしれないが、向島という町の名前と、三囲神社という名前が一つになると、つい粋だねーと云いたくなってしまう。

江戸通りを辿って吾妻橋の岸際に辿り着き対岸の写真を狙う。ここからも東京スカイツリーと筋斗雲の写真を撮ることが出来るので、それを狙った。その後昼飯を食う場所を探したが、14時近い時間帯で、準備中の看板ばかりが目立ったので、浅草寺まで行き伝法院通りを抜けて浅草寺の裏通りにある飲み屋街に適当に入り、飯は止しにして酒と筋煮込み・焼き鳥で遅昼の代わりにした。此処には何回か来ているが、焼き鳥などは、組合せで売るのでは無く、単品で売ってくれないのかなと思う。どちらかと云えば、熱燗1本にしろ塩5本などと云う注文の仕方をしたいので、一皿取り混ぜて3本などと云う決めは止めてもらいたいもんだと思っている。

所で何処の飲み屋でも冷や酒をコップで一杯等という注文をすると、態々常温ですかと聞き直されるが、これは止めてもらえないんでしょうかね。低温保存を要する酒は、“冷酒”という呼び名が付けられており、冷やとは云わないはずである。冷酒を頼む奴が冷やというのかどうか知らないが、一々常温ですかと確認して戴かなくても、頼むのは二級酒の安酒で、温度管理の出来る保冷庫に保存されるような高級な酒は飲まない。第一、コップの一杯や二杯では呑んだ気に為らない体質をしている。高級な酒を一?二杯というよりは、二級酒で結構、それなりに呑みたい訳である。更に暑い夏には冷やと云うことになるので常温などと聞き返されたのでは、理科の実験をやっているような気分になってしまう。

本日の総歩行数12,398歩。

       (2012.7.19.)

「ロートコンの薬理作用と副作用」

土曜日, 11月 3rd, 2012

 

KW:薬名検索・OTC薬・ロートコン・薬理作用・副作用・莨

『スルホンアミド基と光線過敏反応』

土曜日, 11月 3rd, 2012

 

KW:副作用・スルホンアミド基・光線過敏症・光線過敏性反応・sulfonamide・サルファ剤・毒性・副作用

Q:構造中にスルホンアミド基を持つ薬剤は光線過敏性反応の原因となるか

A:スルホンアミド(sulfonamide):別名:スルファミド、スルファミン。一般式RSO2NH2で標記される。スルホン酸(-SO3H)のOH基をNH2基で置換したアミド。またスルファニルアミドの医薬品としての慣用名。サルファ剤とも云う。

一般式のRはアルキル基又はアリール基。アミノ基の水素が更にアルキル基又はアリール基で置換されたものを総称する。スルホクロリドとアミンの反応で得られ、一般に融点の高い結晶性の化合物である。
imageカルボン酸のアミドに比べ、酸や塩基による加水分解、ヒドリド還元などに対して一般に安定である。生体内でも代謝を受け難く、水溶性もよいことから医薬の部分構造として多用される。

sulfonamideの毒性は、経口及び局所sulfonamideにより起こることがある。発疹、スティーブンジョンソン症候群、脈管炎、血清病、薬物熱、アナフィラキシー及び血管性浮腫等の過敏性反応、結晶尿、乏尿及び無尿、胃腸炎、顆粒球減少、血小板減少、新生児における核黄疽(スルホンアミド系はアルブミン上のビリルビン結合部位を競合し、胎児の血中の非抱合型ビリルビン濃度を上昇させて核黄疽のリスクを高める)。及びG6PD欠損患者における溶血性貧血などの血液学的反応、光線過敏症、末梢神経炎、不眠及び頭痛などの神経学的作用である。分娩間近の妊婦及び新生児にはsulfonamide系を投与してはならない。

『sulfonamide 系薬剤の添付文書の記載例』

§本剤はスルホンアミド基を有するため交叉過敏症(皮膚過敏からアナフィラキシーまで)が発現する可能性がある[投与禁忌:スルホンアミド系薬剤に過敏症の既往歴のある患者]。

acetazolamide(アセタゾラミド)[ダイアモックス錠250mg(三和化学)]

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benzylhydrochlorothiazide(ベンチルヒドロクロロチアジド)[ベハイド錠4mg(杏林)]
celecoxib(セレコキシブ)[セレコックス錠(アステラス)]

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chlorpropamide(クロルプロパミド)[アベマイド錠250mg(小林化工)]

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furosemide(フロセミド)[ラシックス錠10mg(サノフィ・アベンティス)
gliclazide(グリクラジド)[グリミクロンHA錠20mg(大日本住友)]                
glibenclamide(グリベンクラミド)[オイグルコン錠1.25mg(中外)]
indapamide(インダパミド)[ナトリックス錠(京都)]
meticrane(メチクラン)[アレステン錠150mg(日本新薬)]
naratriptan hydrochloride(ナラトリプタン塩酸塩)[アマージ錠2.5mg(GSK)]
salazosulfapyridine(サラゾスルファピリジン)[サラゾピリン錠500mg(ファイザー)]
sulfamethoxazole(スルファメトキサゾール)[バクタ配合錠(塩野義)]
sulfanilamide(スルファニルアミド)
sulfisoxazole(スルフイソキサゾール)[サイアジン点眼液(アステラス)]
sumatriptan(スマトリプタン)[イミグラン錠50(GSK)]
torasemide(トラセミド)[ルプラック錠4mg(田辺三菱)]
trichlormethiazide(トリクロルメチアジド)[フルイトラン錠1mg(塩野義)]

brinzolamide(ブリンゾラミド)[エイゾプト懸濁性点眼液1%(アルコン)]
dorzolamide hydrochloride(ドルゾラミド塩酸塩)[トルソプト点眼液0.5%(MSD)]

1)薬科学大辞典 第2版;廣川書店,1990
2)志田正二・編集代表:化学辞典 普及版;森北出版株式会社,1985
3)福島雅典・総監修:メルクマニュアル第18版日本語版;日経BP社,2007
4)高久史麿・他編:治療薬マニュアル2012;医学書院,2012

          [065.SUL:2012.3.7.古泉秀夫]

『エチコンエスについて』

土曜日, 11月 3rd, 2012

 

KW:物理化学的性状・滑沢剤・absorbable dusting powder・滑剤・エチコンエス・タルク・手術手袋用滑沢剤・滑剤除去法・ethicon S

Q:手術用ゴム手袋装着時に用いる滑沢剤エチコンエスの代替品はないか。手術時に患部に滑沢剤が付着すると困るため。

A:エチコンエス(日本化薬)は、精選コーンスターチを特殊な化学的並びに物理的処理をして得られた澱粉誘導体に2%以内の酸化マグネシウムを添加した物で、米国薬局方absorbable dusting powderの規格に適合している。

手術ゴム手袋用滑沢剤として使用されているタルクは、開腹手術にともなって往々にして引き起こされる腹膜癒着の一因とされている。1933年にタルクを腹腔内に散布すると腹膜間肉芽腫、腸管膜癒着、その他の障害の原因になることが確認され、タルクに代わる無害な滑沢剤が要望され、トウモロコシ澱粉に特殊処理を施したエチコンエス(ethicon S)が製造された。本品は蒸気滅菌を行っても糊化せず、滅菌後も活性を失うことなく、且つ害の少ない滑沢剤である。

本品は腹腔内に飛散しても比較的短時間で生理的に吸収代謝されて局所に残留せず、癒着、その他の障害を殆ど起こさない。手術用手袋一組に付着するタルクの量は、普通0.2-0.3gで、犬による実験ではこの半量(0.15g)でも明らかに軽度ないし中等度の腸管膜癒着を生ずるが、エチコンエスは約3倍量(0.8g)を散布しても異常はなく、1週間以内に吸収されて局所に殆ど残留していないことが報告されている。

本剤の用法については、本品を手、指によく散布し、ゴム手袋を装着する。装着後手袋の表面に付着した粉末は十分に除去するとされているが、除去する方法については、手袋装着後の手を叩くことによって、付着したエチコンエスを物理的な力によって取り除くかあるいは消毒剤を用いて洗い流す方法が用いられているようである。

本品の使用上の注意として、『本品でも一時に大量のものが腹腔内に入れば吸収されず、Starch-granuloma(澱粉肉芽腫)や癒着を起こす恐れがあるので、手袋に付着した粉末は十分に除去し、できる限り腹腔内に入らないよう注意すること』の記載がされているが、動物実験の結果から見て、通常、手袋に付着している程度の本品の量で、特に問題になるとは考えられず、また、手袋装着後、手を叩くことで手術部位に影響しない程度まで、除去は可能であると考えられる。

尚、本品に代わる滑沢剤を用いたとしても、ゴム手袋に滑沢剤が付着することは避けられず、同様の処理は必要である。

1)エチコンエス添付文書,1986
2)日本化薬株式会社学術課・私信,1991
3)国立国際医療センター薬剤部医薬品情報管理室・編:FAX.DI-News,No.103,1991.6.18.

         [790.FD15.014.45ETH.1991.6.17.古泉秀夫・1999.3.31.一部修正]

追記:産婦人科で使っていた粉末「タルク」に混入したアスベスト(石綿)が原因で中皮腫になったとして元准看護師が労災認定された問題で、2012.8.27.大阪市内で当事者が記者会見した。医療現場での日常的な作業で石綿に触れていたことを知らず、病気の原因が分からずに悩んできた心情を吐露し、「私と同じ状況にいる人が救済されるきっかけになれば」と語った。1981年から約5年、産婦人科医院に勤務。当時、手術用ゴム手袋を再利用する際、手袋がくっつかないよう、袋に入れてタルクをまぶす作業をし、袋を開く時にタルクを吸い込んだという。(2012年8月28日  読売新聞)。

上記の報道を受けてエチコンエスに興味が持たれたようであるが、残念ながら本品は2006年3月31日までの経過措置品目の扱いとなっている。