『金沢駆け足紀行』
月曜日, 9月 24th, 2012鬼城竜生
『薬剤師認定制度認証機構』という組織がある。この組織は「薬剤師に対する各種の生涯学習と認定制度を第三者評価する機関」である。英名はCouncil on Pharmacists Credentials。略称はCPCと標記されている。
2012年3月24日(土曜日)金沢でCPCの参加組織の協議会の会合があったので出かけた。新幹線で越後湯沢迄行き、乗り換えてほくほく線で金沢に行く旅程を選んだが、現地の人に言わせると、冬にこの行程は選ばないとのことであった。確かに越後湯沢の駅を出ると、いきなり廻りの風景は変わり、雪の中に潜っていた。
金沢駅を降りた時から曇天で風は冷たく、暖かな東京から来た身には、些か寒さが応えた。幸い駅からホテルまでの距離は短く、差ほど歩かなくて済んだが、突然パラパラと雨が降り出したのには驚いた。尤も、本日は会議が主体で、外に出る必要はないため問題にするほどのことは無いが、さて明日はどうなのかと明日の天気の方が気になった。
3月25日(日曜日)は朝から金沢市内を見学し、午後の汽車に乗る予定にしていたが、何たる不幸せ、霧雨のような雨が降っていた。それに寒さは昨日より酷く、思わず身震いをするほどであった。取り敢えず駅前から車に乗り、兼六園に向かった。
突然、運転士が
「ここの人でなければ、近江町市場を見ながら行きますか」と声を掛けて来たので、
「ええいいですよと」返事はしたが何か見所があると云うことなのか。
「兼六園からの帰りに寄ってみるといいですよ、賑やかな所だから」とまで云ってくれた。「ありがとうございます、しかしこの天気じゃね、歩く元気も出ない」なんて失礼なことを申し上げていた。
右手に城左手に公園入口が見える所で車が止まり、
「偉く綺麗な城ですね」と申し上げた所、
「塀だけが復元された」と妙なお言葉を伺った。今回は城を見る予定にはなっていないので、
「ああそうなんですか」で終わったが、後で調べたところ、『金沢城公園の新しいシンボル、新しく復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓』という紹介がされていた。
早速、兼六園に入ったが、何しろ“降りみ降らずみ”のなか片手に傘、片手にカメラでは落ち着かないことこの上ない。何しろ雨と風、挙げ句の果てに霰まで降り出す始末で、庭の梅の木も花を付けているのは、ほんの僅かばかりという体たらくである。
兼六園は、江戸時代の代表的な林泉廻遊式庭園である。金沢城に面した傾斜地に五代藩主綱紀が延宝四年(1676年)、別荘「蓮池御亭」を建て、その周辺を作庭した。これが兼六本園の始まりで、当時、蓮池庭と呼ばれていたという。宝暦九年(1759年)の金沢大火で、蓮池庭も大半が焼失した。十一代藩主・治脩(ハルナガ)が復興に取り組み、安永三年(1774年)に現在に見られる夕顔亭や翠滝を築造している。
東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられるなどの変遷があったが、文政五年(1822)には十二代藩主・斉脩(ナリナガ)の豪壮な隠居所、竹沢御殿が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に、斉広(ナリナガ)は、奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宗時代の詩人李格非の書いた洛陽名園記の文中から取って宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望のを兼備するという意味で『兼六園』と命名したとされている。
兼六園は林泉廻遊式庭園の要素を取り入れながら、様々な時代の庭園手法を駆使して総合的につくられた庭園だとされる。廻遊式とは、寺の方丈や御殿の書院から見て楽しむ座観式の庭園ではなく、土地の広さを最大限に活かし、庭のなかに大きな池を掘り、築山を築き、御亭(おちん)や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園であると説明されている。幾つもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので「築山・林泉・廻遊式庭園」とも言われている。
兼六園を見たことで、日本三名園といわれる岡山の後楽園、水戸の偕楽園、金沢の兼六園の全てを見たことになるが、天気のせいで一番印象が悪かったが、季候のいい時に再度訪問して印象を変えないと、金沢県民に失礼かもしれない。ただ、時雨亭にあげて戴いて、御茶を頂けたのは感謝。何せ膝が悪くて正座が出来ない。それでもいいですかねと尋ねたところ、結構ですよと云う。他の方達は皆さん正座をされていたが、一人だけ膝を崩していたのは些か格好の悪い話。
兼六園の随身坂に至る道から金沢神社という案内が見えたので、一瞬公園を出て覗くかと思ったが、雰囲気から神官がいない可能性があると判断し、覗くのを止めてしまった。その代わり真弓坂口からでて、広坂を渡り直ぐの所にある石浦神社に行ったが、残念ながら“初宮参り”の神事が行われており、神主以下忙しそうなので、御朱印は御願いせず、次の神社を目指した。
次の目的地は尾山神社で、兼六園から百万石通りを歩いて目的地まで辿り着いた。
現在の尾山神社は、明治四年(1871)の廃藩で、藩主前田家が華族として東京に移ることになったときに、元重臣の前田直信を代表とする旧藩士たちが、藩祖の偉功を守ることを希望し、さびれていた旧社殿を再興する運動を起こした。
新たな社殿は、旧社殿のあった卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治六年(1873)に本殿、拝殿が建てられたという。卯辰八幡宮から御神体が遷座されて尾山神社と命名されたという。
明治八年(1875)建立の神門は、三層のアーチ型楼門で、屋根には日本最古といわれる避雷針、最上階の三層目の窓にはステンドグラスがはめ込まれている。夜には灯りが点され、その灯りは海をゆく船からも見え、灯台がわりにもなったとの説明がされている。神門のデザインは、現在では斬新と評されるが、創建時は「醜悪」と言われて不評だったとされる。不評の声は昭和十年(1935)に価値が認められて国宝(現在は重要文化財)に指定されるまで続いたそうである。因みに神門の設計は加賀藩の大工だった津田吉之助と紹介されている。
拝殿の右側の神苑にはアーチ型石橋の図月橋(とげつきょう)があり、また、裏門にあたる東神門は、金沢城の二の丸殿舎にあった唐門を移したもので、旧金沢城の現存する建造物として貴重なものとなっているという。現在の尾山神社は、平成十年(1998)に、利家の妻まつも合祀され、金沢の総鎮守的な神社として親しまれているという。
境内には前田利家の銅造が建立されている。利家は最初小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられたとされる。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。信長より能登一国23万石を拝領し大名となる。
利家の銅造が背負っている母衣(ホロ)は、元来は平安時代末期に生まれた懸保侶(かけぼろ)という補助防具であるという。背中に長い布をたわませたもので、馬を駆けると風をはらんでふくらみ、背後に長く引いて背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たすので、大鎧とともに馬を駆り弓を主武器とする、当時の武士の戦闘法に適していたというが、風で膨らんでしまったら走り難いことこの上ないのではないか。絶対後ろに引っ張られる。最もこの当時の馬は、サラブレッドやアラブ系の現在のスピードのある馬とは違い、日本産の小型の馬で、それほどスピードは速くなかったのではないかと思われる。騎馬戦闘が廃れた室町時代の頃から、内部に竹などで編んだカゴを入れることで。常にふくらんだ形状を維持した装飾具に変化し、指物の一種となったとされている。馬上に母衣付きの武士が騎乗している像は、初めて見せてもらった。
本日の総歩行数10,334歩。
(2012.6.22.)