『紅葉の等々力渓谷』
木曜日, 7月 5th, 2012等々力渓谷という名前は、若い頃耳にしたことがあったが、何かの雑誌で、汚れ放題という話を聞いて、その後忘れてしまっていた。今回、何処か、紅葉の写真を撮りに行きたいなということで探していたが、都内・紅葉で検索したところ、等々力渓谷が引っかかった。そこで等々力渓谷に写真を撮りに行くことにしたが、何せ変な刷り込みが入っているから、写真が撮れるかどうか解らん等とぶつくさ言っていた所、かみさんが一緒に行くと云うことになった。
東急大井町線等々力駅で降り、ゴルフ橋入口の階段を降りると谷沢川沿いに散策路が整備されていた。ただ、道は濡れていたので滑るといかんと思いながら歩いていたが、靴底が確実に道を捉えてくれる靴を履いていたので、滑る心配はなかった。ただ、眼に見える範囲に眼を引く紅葉はなく、失敗したのかなと思って歩いていると、やがて紅葉が眼に付くようになってきた。
等々力不動尊の庭なのかどうか境界がはっきりしないが、不動尊の境内に紅葉が集中しているように見えた。不動の滝の前に“雪月花”という茶店があり、くず餅と御茶を貰うことにした。本当は酒があればコップ酒を一杯というところだが、酒は置いていなかった。茶店の横にある石段を上ると不動尊の境内に出る。境内に出る前、滝の横の階段の途中に役の行者の像が祀られている岩穴が見られる。
等々力不動尊は、平安時代末期に紀伊国・根来寺を開いた興教大師が霊夢に導かれて、この地に役小角自刻と伝わる不動明王像を安置したのが始まりという古刹で、正式には瀧轟山(りゅうごうざん)明王院という。等々力駅の北方にある真言宗智山派・致航山(ちこうざん)満願寺(1470年創建)の別院となっている。
境内に案内所があったので御朱印を御願いしたが、現在住職は定例十五日の護摩供養中で、暫くお待ち下さいということだった。本堂の前で待っていた所、中に入って御参りして下さいということだったので、恐る恐る入ってみると、将に護摩供養の最中で、見ると相当高齢な方だと思われたが、経を読む声は朗々と響いていた。護摩供養を目の前で見たのは初めての経験だったが、細長く切った薪木を炉に入れて燃やし(護摩焚き)、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする信仰から生まれたものとされる。兎に角迫力のある光景を見せて戴けて、かみさんと2人で感動していた。
その後、等々力不動の近くにある善養蜜寺に廻った。善養寺は京都東山の総本山智積院の末寺で影光山仏性院善養寺という名称が正しい名前のようである。その他、大毘廬遮那殿という名前も見られる。紹介によると本尊は大日如来坐像、開山は祐栄(ゆうえい)阿闍梨で慶安五年(1652年)七月二十六日に遷化しているとされる。
「新編武蔵風土記稿」の記述によると、昔深沢村からここに移され、鎮守野毛六所神社の神輿をいれる神輿堂や閻魔堂があったとされている。昭和三十六年四月奈良唐招提寺様式の金堂が建立されたとされる。また境内にあるカヤの大木は昭和三十九年に都の天然記念物に指定されている。
善養寺の縁起については、中興開基の祐榮大阿闍梨が深沢のお寺にいた頃。不動の滝で修行を行ったり、八幡古墳、稲荷古墳、御岳古墳などを巡り地域発展の祈願を行なっていたという。 真言宗智山派という宗派の本質的なことは解らないから、この寺院の境内におかれている種々の石像等について、宗派の約束事なのか、住職の趣味なのか解らないが、
参道の左右にそびえる石造の『かい駝』はまだしも、印度の寺院にあるような像までおかれているのは、些かやり過ぎではないかと思われたが、まあ、日本の宗教というのはおおらかに出来ているんだろうからいいのかもしれない。
続いて近くにある六所神社に廻った。六所神社は、世田谷区野毛にある神社で野毛六所神社とも云われている。この神社は元和年間(1615-1623)の洪水のとき、府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神(現大国魂神社)と崇めて創建したといい、江戸時代には上下野毛村の鎮守社だったと云われている。明治三十一年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社を合祀したとされている。
祭神は伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)、その他で、大山都見之命、大山咋之命、菅原道真を奉斎したとされる。なお、境内社は北野神社であるとする紹介もされている。別当は善養寺。
帰りは道に迷って、取り敢えず神社の横に出て大塚古墳の方に向かい、最終的に玉川ICから環八通りを暫く歩き、上野毛通りに入って東急大井町線の上野毛駅から電車に乗り、大井町駅で乗り換えて我が家に戻ってきた。2011年12月15日(木曜日)の総歩行数は13,012歩。結構歩いたと思っていたが、実際には歩数は伸びていなかった。
(2012.5.29.)