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『ぶらり岡山』

火曜日, 6月 5th, 2012

                              

             鬼城竜生

岡山で学会があるということで、岡山に出かけた。病院を退職した後は、学会に参加すると云うよりは、学会の前日に行われる所属組織のOB会の会合に出席することが目的である。会議の都合、その後の意見交換会の関係で、一泊せざるを得ないと云うことで、2011年10月7日(金曜日)-8日(土曜日)の両日、岡山にいることになった。

岡山-01何時もなら会議の始まるぎりぎりの時間に到着する行動計画を立てるのだが、今回は岡山市内の神社やお寺を調べ、少し早めに出かけて、会議の前に岡山神社、岡山後楽園、岡山城を見学し、翌日は早めにホテルを出て2ヵ所ばかりの神社を廻ろうという殊勝な計画を立てた。

岡山駅の構内にある旅行案内所に行き、岡山城までの徒歩での時間を確認したところ40分程度で行けると云うことなので岡山市街エリアマップを貰い、取り敢えず城を目指して歩くことにした。但し、このエリアマップには岡山県総合福祉会館に隠れて岡山神社の名前は掲載されていない。しかし、いずれにしろ城の傍にあるということで、駅を出て桃太郎大通りを真っ直ぐ城を目指して歩くことにした。

城が近づくに連れて、城の周りで何かやっている作業が眼に付き、城への道がよく解らないので先に後楽園に行くことにして堀に沿って左に曲がったら神社の幟旗が見えた。そこで神社に先に行くことにして、何枚か写真を撮って、社務所で御朱印を御願いしたところ、どちらからと云われたので東京からですと申し上げたところ、態々ご苦労様ですと云われ、思わずにたりとしたが、何も会議の序でですなどと云うことはないので、にこやかに御挨拶をして御朱印を頂戴した。

岡山神社の創建は清和天皇貞観年中860年とされている。貞観年中は859-877年とされており、貞観869年は“貞観三陸地震”という現在の東日本大震災に匹敵する大震災が、神社創建の9年後に起きている。岡山神社の主祭神は『倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)』といい、吉備津彦命の姉だとされている。副祭神は吉備津彦命・大和武尊・大山咋岡山-02命(オオヤマクイノミコト)・倉稻魂命(ウカノミタマノミコト)・武安霊命 (タケヤスビノミコト)・妹姫命(イモヒメノミコト)。中で武安霊命は池田光政であるとされているが、池田光政は備前岡山藩初代藩主とされており、死後副祭神の一人に加えられたのかもしれない。

岡山神社の縁起について、現在の岡山城本丸の地に鎮座しており、「坂下(さかおり)の社」と呼ばれ、永禄年中(1558-1570)に「岡山大明神」と改められた。天正元年(1573)、宇喜多直家が岡山城を築くにあたり、現在の社地に遷し岡山城の守護神として社領を寄附された。宇喜多秀家が本殿を、小早川秀秋が拝殿以下を造営。旧藩主池田家が城主の時は城内鎮守として特別に崇敬され、社領として三百余石を寄附された。万治年中(1658-61)以後は「酒折宮」と号し、明治十五年、社号を「岡山神社」とした。昭和二十年、戦災により随神門ほか末社数社を残すのみで他は焼失。昭和三十三年本殿を造営、昭和五十年拝殿幣殿を造営、昭和六十三年社務所、参集殿を新築したと報告されている。

類焼を免れた随神門は、池田継政によって延享二年(1745)に造立された三間一戸の八脚門で、焼け残った数少ない岡山城下の近世建造物であるとされる。平成十六年二月二十四日岡山市の重要文化財に指定されたという。

神社を後にして旭川の川に沿って川上に向かうと鶴見橋に出る。鶴見橋を渡って直ぐの所に外苑館(四季菜)という和食の店があり、例の通り遅昼を摂ることにした。品書きを見ると、岡山祭り寿司と書かれている物があったのでそれを頼むことにした。以前学会で岡山に来た時、広島県出身の同僚がしきりに云っており、中でも寿司の具に使われ岡山-03る“ママカリ”について、旨い肴だと力説していた。岡山でママカリと云われている魚は、ニシン科の魚で関東ではサッパ(