鬼城竜生
「高輪の札の辻までには………。となるとぎりぎり芝の大仏ぐらいか。あの境内に誘い込めば人目を気にせずやれるだろう」
芝の大仏とは高輪泉岳寺の南隣にある如来寺の別名である。境内に高さ一丈(三メートル)の五体の石像が並べられているので、大仏寺と呼ばれるようになった。品川を出てその当たりまでは、大名の下屋敷があるだけで閑静な道筋だ。下屋敷と云っても、別荘と同じだから留守居の者がいるに過ぎない。高輪に入り、札の辻を超えると品川に入る」
舫鬼九朗(もやいおにくろう)を主人公にする高橋克彦の小説(新潮文庫,1992) 。まだ売り出し前の幡随院長兵衛、子分の唐犬権兵衛、それと外国帰りの天竺徳兵衛、柳生十兵衛に天海僧正、沢庵和尚、あまつさえ左甚五郎が乱破、根来衆の親玉として登場する、ある意味荒唐無稽と思われる話だが、よく調べて書くことでも知られている作家なので、帰命山如来寺は、あるいは高輪に存在するのではないかと思った。しかし、現在、高輪泉岳寺の隣にそのような寺はない。調べてみると他所に移転して今も健在と云うことなので、これは是非とも拝見に行かなければと云うことで、機会を待っていた。
如来寺という名前と五体の仏像を“検索語”として検索した結果、如来寺は現在品川区の西大井に移転しており、院号も『帰命山』から『養玉院』に変更されていた。院号の変更は上野寛永寺の塔頭養玉院と合併したことによるとする紹介がされていた。
更に幸いなことに“荏原七福神”の中に加わっており、2012年1月6日(金)に七福神巡りをすることにした。まずJR京浜東北線大井町駅で降りて進行方向左手に大井町線の大井町駅の前を過ぎて直ぐの位置に、大井蔵王権現神社(福禄寿)がある。但し、道がよく解らず突然神社の前に出たような気がするが、狭い中に押し込められたような感じを受けた。金山毘古命(かなやまひこのかみ)、金山毘売命(かなやまひめのかみ)またなかの大神として建速須須佐男(たてはやすさのおのみこと)を祀り、その起源は遠く平安時代(十世紀)に鎮座されたと伝えられているようである。ただ、正史は定かでないとされている。奥殿に祀られている石堂は寛政五年(1793年)に、現在のJR東日本工場である権現台に鎮座し、一郷の鎮守として住民の信仰を集めていたが、明治四十三年品川操車場埋め立て工事の際に東大井の来福寺に移遷し、その後更に移遷を繰り返し、昭和六十三年に新しく竣工遷座したもので、石堂には蔵王大権現と刻まれているという。
神社の前を右に、クリニックの角を右に折れると東光寺(毘沙門天)に行き着く。この寺は比叡山延暦寺の末寺で久遠山不動院東光寺といい、天文十三年(1534年)什仙上人により創建されたとされる。嘗ては大井から荏原へ通じる道筋にあり、近くに立会川が流れていたと云う。現在の本堂は文化十年(1813年)に浄権大僧都が再建したものであるという。御本尊は阿弥陀如来、左に脇仏として毘沙門天が祀られている。往古は天祖神社の別当をしていたが、明治の神仏分離令により別当は止めざるを得なかったということの様である。東光寺で特記すべきは、参道の途中に東司(とうす)守護の烏瑟沙摩大明王(便所の守護)祀られていることではないか。烏瑟沙摩は下の病気を避けるために「おまたぎ」を跨いで記念するということで、抗生物質等のなかった時代に起こった信仰だろうと云える。
東光寺を出て元の道に戻り、立会通りから横須賀線の西大井駅の前を左に、光学通りを道なりに線路を渡って最初の十字路を左に坂を下ると如来寺(布袋尊)に辿り着く。如来寺は、今から約360年前に、芝高輪の東海道大木戸に近い東辺を見下ろす元刑場跡に、木喰但唱上人が創立した。如来寺は、上人の発起によって造立された五智如来が安置されているところから、高輪の大佛と呼ばれていた。如来寺は明治41年(1908年)に現在地に移転したと紹介されている。養玉院は寛永12年(1635年)に創立され、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身で、開山として天海を迎えているが、 寺を創立したのは天海の弟子賢海、二代目は賢海の弟子念海であるとされる。元禄11年(1698年)に下谷坂本に移って養玉院と改め、大正12年(1923年)如来寺と合併して、現在の場所に移転。 両寺を一寺とした当山先代の瑞應院大僧正亮中大和尚を中興第一世としているという。
現在地に移り、関東大震災、空襲などの全ての難を逃れとしているが、古刹がそのまま残されたというのはある意味奇跡に近いと云える。これも如来堂に安置されている大日如来を中心とした五体の如来の御利益だと云えるかもしれない。五智如来は品川区指定文化財であるとされている。
如来寺を出て坂を上り、富士見台中学の前を通り、坂を下りて朋優学園・はらっぱ公園を過ぎると上神明天祖神社(弁財天)に出る。東光寺が別当をしていたという天祖神社はこの神社のことと思われるがどうだろう。主神は天照大御神で、配祀は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、応神天皇とされている。旧社格は上蛇窪村の鎮守としての村社であったという。
文永八年(1272年)十一月北条四郎左近太夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在地)に残って、当地域を開発するようにと諭して、自らはこの土地を去った。時千代は後に法円上人と称して現在の大田区大森の地に厳正寺を開山、家臣の多くは蛇窪付近に居住した。
元亨二年(1322年)、武蔵の国一帯が大干魃になり飢饉の到来は必至と見られた時に、法円の甥の第二世法密上人は、この危機を救うために厳正寺の戌亥の方角に当たる森林の古池の畔にある龍神社に、雨乞いの断食祈願をした所、大雨が沛然と降り注ぎ、ついに大危機から村人を助けることが出来た。この神助に感じ入った人々が勧請したのが、天祖神社であるとされている。現在も池と龍神が祀られているが、今も雨を降らせる神通力はあるのかどうか。
神社を出て真っ直ぐ行き、大井町線の荏原駅に向かった先に法連寺(恵比寿)がある。八幡山法蓮寺は、日蓮宗の寺で、荏原七福神の恵比寿の寺としても知られているとされる。開山は鎌倉時代中期、日本が蒙古来襲の脅威にさらされていた文永年間(1264-75)のこととする伝承があり、八幡太郎義家の子孫というこの地の豪族荏原氏の館に創建された寺だったとされる。「こゝに荏原郡の領主荏原左衛門尉義宗と云ふ人あり(姓は源にして即ち八幡太郎義家朝臣の遠裔なり)代々この地を禄す、依つて中延を氏とし又この所に館せり」。『江戸名所図会』の「中延八幡宮」、現旗岡八幡神社に関する記述では、荏原氏が八幡神社と法蓮寺が建つ地に館を構えていたとしている。義宗は日蓮上人の教えに帰依して、末子の徳次郎を日蓮の高弟日朗に弟子入りさせた。朗慶(徳次郎)は後に越中阿闍梨と称された高僧になり、父の館の地に建つ法蓮寺の開祖と伝えられている。
昭和二十年五月の大空襲により全てが灰燼に帰したが、戦後早い時期に復活したとされる。
八幡さまはもともと源氏と縁の深い神さまだが、荏原氏が支配した旗の台、中延地区はとりわけ源氏との関係が深かった。中延には「源氏前」という地名が近年まであり、小学校の名前として今も残っている。
荏原商店街を通り、旗の台駅を左に見て中原街道を渡り、昭和大病院の左側を抜け、右に昭和大を見て暫く行くと摩耶寺(寿老人)に出る。仏母山摩耶寺は、仏母山という山号が示すようにお釈迦様の母親である摩耶夫人をお祀りしているとされる。延宝六年(1678年)に摩耶夫人像が造られ、本堂左側の摩耶堂(天保年間1830年-1844年に建立)に安置されている。伽藍は、震災、空襲などの難を免れたが、老朽化は甚だしく昭和五十三年に本堂を改築、摩耶堂も改修し現在に至っている。摩耶寺は日蓮宗に属している。鎌倉時代に日蓮聖人(1222年-1282年)が社会不安と自然災害に苦しむ人を救うため、法華経とお題目を弘められたことにより法華宗が成立し、明治時代に日蓮宗となった。そのためこのお寺では、法華経と日蓮聖人の書かれた文章(御遺文)、そしてお題目(南無妙法蓮華経)を唱えて戴いていますの紹介がされている。
摩耶寺から指呼の間に小山八幡神社(大黒天)がある。御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)で、創建年代等は不詳だが、口伝によれば長元三年(1030年)源頼信が霊威を感得し、当地に誉田別尊を奉斎したという。併せて妙見菩薩を祀り、妙見八幡宮とも呼ばれたという。もとは小山村全体の鎮守であったが、元禄年間(1688-1704)「宗教上の軋轢」により三谷八幡神社を分祀、氏子も二分することになった。明治の神仏分離により、妙見菩薩は旧別当・仏母山摩耶寺に遷された。明治六年村社に列格。境内の椎の木は品川区の天然記念物に指定されている。また、境内は区内一の高台(標高35m)にあり、眺望がよいことから品川百景に選ばれているとのことであるとする紹介がされている。
帰りは目黒線の西小山駅からJRの目黒駅まで行き品川経由で戻ってきた。今回の七福神巡りでは、頂いた地図が分かり難いというか、街中で道が輻輳していて分かり難いというか、もう少し案内の掲示があってもいいような気がした。それと法連寺には広い庭があり、四季折々の花が見られるようであるが、今回は庭にまで目が行かなかった。
今回の目的である如来寺の大仏像を見ることができてそれなりに納得。全歩行総数は16,060歩。
(2012.5.17.)