Archive for 3月 4th, 2012

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「納得診療」

日曜日, 3月 4th, 2012

                     医薬品情報21
                            古泉秀夫

informed consentを、日本語で端的に示す適切な訳語は見当たらないようである。

日本医師会は『説明と同意』と直訳したが、これはある意味、医師側の立場に立った訳語であり、患者側に立った訳語ではないようにおもわれる。その他、『十分な説明に基づく、納得したうえでの自由な意思に基づく同意』とする解釈もされているが、“納得した上での自由な意志に基づく同意”の前の十分な説明の“十分”とは、どの程度の説明をいうのか、説明する側と説明を受ける側とで測るべき物指しが示されていない。多分この物指しの目盛には、医師と患者との間で大きな差があることが考えられる。

『患者が自己の病状、医療行為の目的、方法、危険性、代替治療法等につき正しい説明を受け、理解した上で、自主的に選択・同意・拒否できるという原則』(日本弁護士連合会第33回人権大会,1992.11.)というのが、日弁連のinformed consentに対する解釈であり、患者側に立って考えようとすると、このinformed consentという僅か二つの単語が、無闇に長い解釈になってしまうようである。

これはinformed consentという言葉に内包される考え方が、元々日本にはない思想であり、端的に表現する日本語がないということなのだろう。国立国語研究所は、何とかカタカナ語を少なくしようと努力をしており、informed consentについてもカタカナ語の言い換え例としてinformed consent=『納得診療』なる語を挙げている。

果たしてこの納得診療という言葉が、informed consentの言葉の真の意味とともに、その思想的背景を、我が国の医療関係者あるいは国民の中に定着する事が出来るのかどうか。各専門職能と患者との関係を見た場合、それぞれの専門領域において、情報の非対称性が見られるのは一定やむを得ない事だといえる。

より多くの情報量を確保しているために専門職能といわれるのであって、一般人と同程度の情報量しか保持していない、素人に毛の生えた程度の情報量しか持っていないとすれば、それは専門職能とは云わない。更に医療に係わる情報は日々増殖し、日々更新される。その最新の情報を含めて、広範な情報を患者に伝えるのは不可能ではないのか。治療の安全性を100%保証することは出来ない。また、使用する薬の安全性を100%保証することも出来ない。人の躰をこね繰り返す医療に、100%の安全の保証はない。その前提を下敷きにして、「納得診療」を受忍する事が出来るのかどうか。「納得診療」という言葉はinformed consentの言い換えということではなく、その意味を表す言葉であるとして、言葉の持つ意味をどうしたら定着できるのか。それともそのままinformed consentを使い続けるのか。

       (2012.2.29.)

『終末期胃瘻』について

日曜日, 3月 4th, 2012

          魍魎亭主人

日本老年医学会(理事長・大内尉義東大教授)は28日、高齢者の終末期における胃瘻などの人工的水分・栄養補給について「治療の差し控えや撤退も選択肢」との見解を示した。終末期医療に対する同学会の基本的な考え方を示す「立場表明」は2001年に策定されたが、その後の実態に即したものにするため、10年振りに改訂された。近年、口から食べられない高齢者に胃に管をつないで栄養を送る胃瘻が普及。病後の体力回復などに効果を上げる反面、欧米では一般的でない、認知症末期の寝たきり患者などにも広く装着され、その是非が論議になっている。

改訂版では、胃瘻などの経管栄養や人工呼吸器の装着に対する見解が初めて盛り込まれた。高齢者に最善の医療を保証する観点からも「患者本人の尊厳を損なったり、苦痛を増大させたりする可能性がある時には、治療の差し控えや撤退も選択肢」とし、「患者の意思をより明確にするために、事前指示書などの導入も検討すべき」とした[読売新聞,第48837号,2012.1.29.]。

治療の究極の目標は、患者が退院し、自立した日常生活が出来る様にすることであると考えている。

その意味では、治療を行ったとしても、二度と自立した日常生活が送れない。ました意識不明の状態で寝たきりという高齢者では、胃瘻によって単に生命の維持を図るという方法が、果たして医療と云えるのかとの疑念を持つのである。人工呼吸器で強制呼吸を行い、胃瘻によって水分や栄養補給を行えば、一応生きていると思われる状態を維持できるかもしれないが、その様な状態が人として生きていることになるのかどうか。

自力で呼吸が出来ない。自力で栄養補給が出来ない。自力で排泄の処理が出来ない等々の状況が揃った場合、機械を使い、管を通し、むつき(襁褓)に垂れ流す状態を続けることが治療だといわれて、それでも尚生きていると思えるのかどうか。

家族にとっては、例えどのような状況にあろうとも、患者が呼吸をしてさえいれば、生きている。引き続き治療が継続されることを希望するということかもしれない。しかし、無理に生かされている患者にとって果たして幸せなことなのかどうか。何処かで送り出す決断をすることが必要ではないか。

母親の時は、父親が拘りを見せて、最後まで治療を継続することを希望した。従って子供達は何ら意思表示をしなかったが、最後は全く意識を失いながら機械的に呼吸をしているという状態であった。父親に確認はしなかったが、最後まで看取ったという思いを抱いて満足していたのではないか。但し、父親が入院することになった時、同じ轍を踏むことはしないと考えていたので、父親と一緒に住んでいた弟にはその話をしておいた。従って実際に容体が悪化し、医師から延命措置を取るかどうか尋ねられた時、90歳という父親の年令も考えて、その必要はないとお伝えし、人工呼吸器の挿管は回避して貰った。その結果、何ら無理することなく、静に息を引き取ったが、今でもそれでよかったと考えている。勿論、当人の時も、無理な延命措置はしないという事で家族には伝えてある。

          (2012.2.7.)

「笹寺当たり」

日曜日, 3月 4th, 2012

     鬼城竜生

西村望氏の『辻の宿-川ばた同心御用扣[光文社,2011]p.45』を読んでいる時、無闇に江戸の町が詳しく紹介されており、
於岩稲荷-01於岩稲荷-05「おくみはそこで仲居働きをしていたのだが、同じ塩町三丁目に笹寺と云われる古い大きな禅寺があった。笹寺、正しくは四国山長善寺といい、かっては広大な寺域一面が笹の藪になっていて、笹藪の中に古い池と池亭が一つあったという。そこから笹寺の名は起きたものと思われるが、その笹寺の総門をくぐったところに稲荷の祠がある。
これが出世稲荷で、鞴祭(ふいごまつり)はこの稲荷で執り行われていた。十一月八日の日のことだった。」

という記述が見られ、『笹寺』の名前が面白かったので、もしかしたら今もあるのかということでCPで検索したところ『笹寺』を名乗る寺院が四谷に存在した。

笹寺の正式な名称は“長善寺”で天正三年(1575)の開山と伝えられている。曹洞宗長善寺の江戸時代の境内拝領地は二千三百二十七坪と云われており、四谷最初の霊地と云うことで“四谷山”の山号を持つと云われる。笹寺の通称は、二代将軍徳川秀忠が鷹狩りの途中で長善寺に立ち寄り、生い茂っている熊笹を見て笹寺と名付けたと云われている。

笹寺は『甲陽軍艦』の著者として知られる甲斐の国武田氏の臣高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵から起こったと云われる。開山は文叟憐学和尚で、本尊の釈迦如来石像は元禄三年於岩稲荷-06(1690)七月に造られたという。この寺の寺宝として「めのう観音」(区指定文化財)があると云われているが、秀忠の死後に夫人の崇源院が寄贈したという寺伝があるとのことで、笹寺の名付け親は三代将軍とする説もあるようであるが、この経過から云えば二代将軍秀忠と考えることが自然のようである。

何せ驚いたのは、永年に亘ってこの辺りをうろうろしていながら、お寺があるようだ程度の認識しかなかった。逆に言えば、この寺に昔日の面影はなく、都会の中の普通の寺になっているということだろう。但し、寺門を過ぎた左手直ぐの所に“出世稲荷・金宝稲荷”の神額が掲げられている鳥居があったが、これも小説によると昔からあったということなのだろう。境内入って右手には「四谷勧進相撲始祖」の大きな碑があるが、損傷したためか針金で補修してある。更に右手奥に大きな観音立像が台座の上に立っていた。慶応義塾大学医学部生理学教室で実験に使用した動物供養のための蟇塚が建立されており、墓地の入口には、関係者以外の立ち入り禁止の案内が出ていたが、その入口には古い墓石が積み上げられた無縁塔があり、一番上に石の地蔵尊が安置されていた。

この日、笹寺だけではもったいないと云うことで、予て念願の於岩稲荷を訪ねることにした。地下鉄四谷三丁目の駅は、現役の頃屡々利用していた駅で、出口を間違えることはないと思ってい於岩稲荷-09たが、驚いたことに完全に間違え、20号線を左に行き、30分位歩いた結果、チョイと違うんじゃないかと云うことで、通りすがりの方にお尋ねしたところ、戻って四つ角を左に曲がると教えて戴いた。四谷警察署の少し先という道を立ち止まることもなく真っ直ぐ歩き、創価学会戸田記念国際会館の前を通り過ぎた当たりで、左の小道に入ったが、全く稲荷があるような雰囲気はなかった。仕方がない、又々通りすがりの女性にお尋ねしたが、通り過ぎて来すぎているということで、ローソンまで戻り手前の道を右に入り、更に右に曲がるとありますということなので、御礼を申し上げて早速道を戻らして戴いた。

道を右に曲がった瞬間、賑やかな赤い旗が眼に付き、稲荷があることが解ったが、於岩稲荷が向き合って並んでいるのには驚いた。

於岩稲荷田宮神社について、神社で戴いた半截によると寛永十三年(1636)田宮岩没。お岩さまが信仰していた屋敷社が「お岩稲荷」と呼ばれるようになり崇敬者が多数あった。享保二年(1717)に「お岩稲荷」勧請、「於岩稲荷」となる。文政八年(1825)祭神である「於岩さま」が主人公の東海道四谷怪談(四世鶴屋南北作)が上演される。文政十年(1827)「文政町方書上」に「於岩稲荷社来由」が付される。明治三年頃(1870)「於岩稲荷田宮神社」と改称。明治十二年(1879)現中央区新川にも同神社出来る。昭和六年(1931)四谷左門町「於岩稲荷田宮神社」の地が東京都史跡として指定される。平成十年(1998)中央区新川の神社境内の鳥居・百度石が中央区民文化財に指定される[第11代宮司 田宮均]。

この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初め、四谷左門町で健気に一生を送った女性のことで、その女性が信仰していた屋敷社について、円満なお岩夫婦と田宮家の繁栄に於岩稲荷-10あやかろうと近隣の人達が御参りするようになり、遂には公開することとなった。それからは於岩稲荷、大巖稲荷、四谷稲荷、左門町稲荷など色々に呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、更には悪事や災難よけの神として益々江戸の人気を集めるようになった。この於岩稲荷の成り立ちの話を聞いていた歌舞伎の戯作者四世鶴屋南北が『東海道四谷怪談』という怪談話に作り上げ、大当たりを取った。

「講釈師見てきたような嘘を云いという」俚諺があるが、物書きも似たようなものである。仲良く家を盛り立て、傍もうらやむ裕福な家庭を築き、それにあやかりたいという話から於岩稲荷の功徳が喧伝され、それをネタにして『東海道四谷怪談』が出来上がった。それが評判を取り、何回も再演が繰り返される中、最初は出演者が四谷迄御参りに来ていたが、明治に入り市川左団次が「四谷まで毎度行くのは遠すぎる、是非とも新富座などの芝居小屋の傍に移転して欲しい」との要望もあり明治十二年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社であるが、昭和二十年(1945)の戦災で焼失し、戦後に四谷の稲荷神社と共に、復活し、現在は二つの稲荷神社があるとされる。

所で「お岩さん」の墓地は、豊島区巣鴨の「妙行寺」にあり、お寺の直ぐ傍にお岩通りなる通りがある。特に賑やかな通りではないが、電車道から妙行寺に入る通りなのかもしれないが、逆方向から来たのでよく解らない。それにしても何でこんな所にと思っていたら元々はこのお寺四谷に在ったという話であり、お岩さんの実家の菩提寺ということの様である。

於岩稲荷-12所で「於岩稲荷田宮神社」の鼻の先に東京四谷えんむすびお岩さま『於岩稲荷陽運寺』なるお寺があった。頂戴した三つ折りによる陽運寺の縁起について、次の紹介がされている。

当寺は山梨県、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院です。茨城県水戸市にある本山久昌寺(徳川光圀公由縁の寺院)の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立しました。本堂は宝暦七年(1757)建造の薬師堂を移築したものであり、寄木造りの貴重な建造物です。堂内には宗祖日蓮大聖人御尊像をはじめ、鬼子母尊神像、弁財尊天像、大黒尊天像などが勧請安置されています。つまりは日蓮宗長照山陽運寺が正式な名称ということである。

また当寺は、江戸時代の文政年代に活躍した四世 鶴屋南北作「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷」とも呼ばれています。本堂にはお岩様の木像が安置されており、境内には昭和32年に新宿区より文化財に指定されたお岩様ゆかりの井戸があります。なお、歌舞伎興行の際には安全と成功を願って役者等関係者が必ず参拝に訪れます。また、悪縁を除き、良縁を招く縁結びには多大なご利益があり、多くの参拝者が訪れます。
                               
兎に角探し出すのに苦心惨憺したが、於岩稲荷と笹寺を回ることが出来たと云うことで、相当強行軍をこなしたが、この後友人と四谷三丁目で一杯飲むという約束がしてあったので持ちこたえられたのかもしれない。
2011年9月9日(金曜日)の総歩行数は12,553歩であった。

  (2011.10.11.)