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「隅田川七福神」

月曜日, 1月 2nd, 2012

    鬼城竜生

 

ここの所、正月には七福神詣でをすることにしている。一つには色々歴史のある神社やお寺を拝観できるという楽しみと、足を鍛えるために一万歩は歩きたいという野心を満足させるためであ隅田川七福神-01る。

さて今回は何処に行くかということになり、谷中七福神と隅田川七福神を候補にしたが、地図を見るとどうやら谷中七福神の方が、歩く距離が長そうな気がしたので、情けない話、若干というか、相当というか、歩く距離が短そうな『隅田川七福神』を行くことにした。2011年1月7日(金曜日)に出かけることにした。まずどちらから回るかと云うことで、些か悩んだが、東武線の浅草駅から電車に乗り、堀切駅で下車して『多門寺』を出発点として逆走して浅草に戻る道程を歩くことにした。駅に降りて歩道橋を渡って墨田水門の掘り割りを渡り東部伊勢崎線の路線に沿って後戻りし、少し右側に入ると多門寺があった。

『多門寺』は真言宗智山派に属する寺院で、隅田山吉祥院多聞寺と称している。最も元の名前は、大鏡山明王院隅田寺(ぐうでんじ)といい、天徳年間(957-60)に隅田千軒宿に草創されたとの伝承があるという。天平時代の中期で、開山に関与した僧侶や開山の年月日については、明確ではないが、御本尊として不動明王が安置されたという。天正年間(1573-91)に多聞寺は現在地に移転してきたというが、徳川家康が関東八ヵ国の領主として江戸に入部したのが天正八年(1590)のこととされているが、文書は残っておらず詳細は不明だとされる。但し、天正十八年に隅田川が大反乱隅田川七福神-02を起こし、家康がただちに堤防修復を命じたことを記した古文書があり、この時代に移転したのではないかと考えられている。

多門寺の本尊である毘沙門天像は、弘法大師の作と伝えられており、鎌倉時代の特徴を示す、総高約50cmの木製の立像であるという。多聞天とも呼ばれ、ヒンドゥー教の財宝神クベーラの別名で、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一体に数えられる。四天王は古代インドの護世神であるが、仏教に取り入れられ、仏法と仏法に帰依する人達を守護する護法神であると紹介されている。四天王は仏教の世界観の中心とされる須弥山の中腹の四方に配されているという。ことに北方を守る毘沙門天は独尊で信仰されている。福徳の名声が遠く聞こえ、善行を行う者には財宝を授ける善神として七福神の中に加えられている。武装忿怒の外形は、中国で一般化されたものであり、多門寺の本尊も右手に仏の智慧を象徴する宝棒、左手に仏の教えを現す宝塔を捧げ、邪鬼を踏み、鎧を身に纏っている。頭部の兜が特徴的であるとされる。
多門寺の境内に安置されている地蔵菩薩像は、度重なる災禍を背景として造立されたものであるという。地蔵菩薩信仰は、お釈迦様が入滅し、弥勒菩薩が成仏するまでの期間、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という人間の迷い)に苦しむ衆生を救う菩薩として、末法思想と結びついて、平安時代末期から信仰が盛んになったとされる。閻魔様は、地蔵菩薩が地獄に降りて、人に躰と言葉と心の行いの重さを自覚させ、悟りへ導いている姿で隅田川七福神-03あると云われている。多門寺の境内には18世紀前半に造立された六地蔵が安置されているが、座像は都内でも4例に過ぎない貴重な姿であると紹介されている。

どうやら多門寺で忘れて貰っては困るのは、『狸塚』ようである。多門寺で戴いた半截によると『むかし江戸幕府が開かれる前の頃、多門寺の辺りは、隅田川の河原の中で、草木が生い茂るとても寂しいところで、そこには大きな池があり、一度見るだけで気を失い、何ヵ月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいた。また、牛松と呼ばれる松の大木もあり、この松の根元に大きな穴があり、妖怪狸が住み着き人々をたぶらかしていた。そこで鑁海(ばんかい)和尚と村人達はお堂を建てて妖怪狸たちを追い払うことにしました。まず大きな松の木を切り倒し、穴を塞ぎそれから池を埋めてしまいました。すると大地が轟き、空から土が降ってきたりと、いたずらは酷くなるばかりです。ある夜のこと和尚さんの前に大入道が現れ「ここはわしのものじゃ。さっさと出ていけ!」とおどかすのです。和尚さんは吃驚して一心に御本尊を拝んでいると、毘沙門天に仕える童子が現れ妖怪狸に話しました。「お前の悪さは、何時かお前を滅ぼすことになるぞ」。次の朝、2匹の狸が御堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人達は狸が可哀想になり供養のために塚を築いた』とするのが“多聞寺の狸塚の由来”だとされる。

隅田川七福神-04徳川幕府崩壊後、明治新政府が樹立されると、神仏分離令を初めとする諸令により全国各寺院は荒廃への道を辿ります。多聞寺も例外ではなく、最大の危機に直面しますが歴代住僧を中心とし、檀信徒家の外護により、その後の日本帝国主義の兵事、関東大震災、また、東京大空襲などを様々な暗雲を乗り越え、1,000年余りにわたり法灯をともし続けているとの紹介がされている。

荒川と隅田川に挟まれた位置にある多門寺から、墨堤通りを隅田川沿いに歩くと、“白髭神社”に辿り着く。

白髭神社の半截によると、寺島村総鎮守白髭神社は、今から千年余の昔(天暦五年・西暦951年)、近江国志賀郡境打颪(現・滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊をお祀りしたことが、向島鎮座・白鬚神社の始まりです。 墨田区の旧寺島町にあたる「東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上」地区の氏神様として、地元の人々に支えられてきました。主祭神である猿田彦大神様は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。人を正しく導くことが叶うとのことから、旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めていますと説明されている。

隅田川七福神の中で、中々見つからなかった寿老人を、白い髭の長寿の神様として白髭大明神を当てたことから「神」としているの解説がされている。

隅田川七福神-05隅田川七福神-06七福神について、インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入りまじって形成された、神仏習合からなる、日本的な信仰対象であると説明されている。また、室町時代末期頃から信仰されているといわれており、歴史的には比較的新しい信仰だということが出来る。

白髭神社を出て、直ぐの信号を左に入ると“向島百花園”に到着する。どういう訳かここに“福禄寿尊堂”がある。

向島百花園は、約200年前の文化・文政時代、仙台出身の佐原鞠塢(きくう)によって開設された。開設当時、太田南畝をはじめとした文人墨客が数多く常連客として訪れ、作庭にも江戸庶民の趣向をこらしていた。その後も、十一代将軍家斉公などとともに、江戸庶民の行楽の場として「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」の盛況を得、明治時代になっても御幼少時代の昭和天皇、伊藤博文や乃木将軍など、多くの人々に愛されてきた。

この間、明治に移り、数多くの工場が周辺にできるなどの環境の変化、また度重なる隅田川の洪水により疲弊していったが、大正時代初期に小倉常吉氏の支援により息を吹き返し、昭和8年、国指定の「名勝・史跡」となった。その後、小倉隅田川七福神-07隅田川七福神-010氏の遺志により百花園は東京市に寄付をされ、昭和14年に東京市の公園として再開園された。

百花園園主鞠塢は、福禄寿の陶像を愛蔵していたが、ある初春の一日、百花園で風流にひたっていた文人たちが誰ともなく、その福禄寿にちなむ正月の楽しみごとはないものかという話になった。隅田村多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の長命寺に弁財天がまつられていることがわかると、何とか七福神をそろえたいものと頭をひねり、詮索を重ねていくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國の小祠があり、また、須崎村の弘福寺には黄檗禅に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明しました。残るは寿老人である。だが、それがなかなか見つからない。結局思案のあげく、百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神 は、白鬚と申し上げる以上、白い鬚のご老体のお姿であろうから、寿老人(神)には打ってつけだと、いかにも江戸人らしい機知をはたらかせ、ここにめでたく七福神が揃ったと云うが、旦那衆のお遊び以外の何物でもない。

元に道に戻り、墨堤通りを桜橋方向に向かうと、“長命寺”に辿り着く。長命寺は桜餅で知られているようであるが、まだ喰ったことは無い。しかし、最初に桜餅を作った方は、桜の葉は塩漬けにしないとあの独特の香りが出ないと云うことに何処で隅田川七福神-011気付いたのか。まあ、それはそれとして長命寺に祀られているのは“弁財天”である。隅田川七福会の半截によれば、「三代将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛を、寺内の井戸水で薬を服用し快癒したことから、長命水の名を戴き、寺号も長命寺とした。弁財天は河(水)の神と云うことから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれた」と説明されている。

長命寺の宗派は天台宗で、山号は宝寿山、院号は遍照院。御本尊は阿弥陀如来である。長命寺の創建年代等については不詳であるが、平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596-1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、腹痛を起こした家光に僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒したところから長命寺と改名したとされている。

長命寺の先に“弘福寺”があり、布袋尊が祀られている。弘福寺は黄檗宗の寺院。山号は牛頭山。本尊は釈迦如来で、1673年(延宝元年)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院であるといわれている。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年(昭和8年)に再建された。境内右手の小祠には咳の爺婆尊(じじばばそん)の石像が祀ら隅田川七福神-013隅田川七福神-014れており、この像は寛永年問(1624-44)に、風外(ふうがい)和尚が真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられている。風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めており、咳止めの飴が売られている。

弘福寺は中国風の特色を持つ禅宗建築である。また布袋尊は、中国の禅僧で、弥勒の化身とも云われており、七福神の中では唯一実在する人物であるといわれている。

全く話は別だが、遅昼を喰う店として、弘福寺の前にある天ぷら屋に入ったが、美味い天丼を喰わせてくれた。

最後は“三囲神社”で大黒神と恵比寿神が祀られている。三囲神社の祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)とされている。元は田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを三度回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。

元禄六年(1693)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」の一句を神前に納めたところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した。
三囲神社には石造りの三柱鳥居があるが、この三柱鳥居は「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されている。

三囲神社には今日で三度目だが、神社の名前がいい。全ての場所で御朱印を戴いたが、三囲神社に前に来た時は、三囲神社で書いて戴いたが、今回は大黒神、恵比寿神で書いて戴いた。

さて本日の総歩行数は15,665歩と云うことで、1万歩は超えた。今回は立て込んでるのが嫌で桜餅も言問団子も食わなかったが、今度は喰うために隅田川七福神に再度挑戦してみようかと考えている。

   

(2011.9.17.)