Archive for 12月 25th, 2011

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「最高裁判断『混合診療禁止「適法」』」

日曜日, 12月 25th, 2011

        魍魎亭主人

保険診療と保険外診療、いわゆる自由診療を併用する『混合診療』を原則禁止している国の政策が適法かどうかが争われた訴訟で、最高裁第三小法廷は(大谷剛彦裁判長)は25日「医療の質の確保や財源面の制約などを考えると政策は適法」の初の判断を示した。その上で、混合診療への保険適用を求めた原告側の請求を棄却した二審判決を支持し、原告側の上告を棄却した。原告側の敗訴が確定した。

同小法廷は、混合診療を原則禁止した健康保険法の規定について「医療の安全性を脅かすような医療行為を抑止する意味を持ち、財源などの健康保険制度全体のあり方も考慮している」と評価。「保険外併用療養費制度の対象とならない医療行為との併用については、保険診療分も含めて保険を適用できないと解釈するのが妥当だ」と結論付けた。生存権などを定めた憲法にも反しないとした[読売新聞,第48743号,2011.10.26.]。

厚生労働省は、「保険外併用療養費制度」 によって、一定の保険外診療について、併用療養を認めている。役所のやることである。石橋を叩いて、尚渡らないという優柔不断な性格をしており、決定までに時間は掛かるが、それなりに前進はしている。ただ、患者の立場からすれば、自らの期待する治療が受けられないという苛立ちはあるだろうが、一定のルールの中で生活している以上、そのルールに従わざるを得ない。

保険診療は、国の定めた一定のルールの中で運用されている訳で、保険に加盟すると云うことは、そのルールの中で治療を受けることを認めると云うことである。それが嫌だというのであれば、全ての治療を自由診療で受ければいいわけで、個人の都合で何でも好きなようになるということにはならない。それぞれの個人が自分の都合に合わせてルールの変更を求めるとすれば、ルールを決めること自体が意味を持たなくなってしまう。

ところで保険診療は何時まで継続できるのか。新しい抗癌剤が次々に開発されるのはいいが、いずれも価格は高い。その分を全て現状の保険の中で見ていけるのかどうか。更に将来、移植医療がより頻繁に行われるようになれば、高額な医療費が請求される。もしそうなれば現行の保険診療で全てを賄うことは不可能で制度そのものが空中分解してしまう。そうなれば最終的に全ての診療行為に『混合診療』を否応なしに導入せざるを得ないのかもしれないが、今はまだそういう時期ではないということではないか。

いずれにしろ膨大な税金を投入しなければ、維持できない状況は到来する。高額な費用を要する医療が次々と開発され、受診する側はその治療の実施を要求する。そうなれば受診を抑制することは困難であり、経費の負担をどうするのかは、重要な課題にならざるを得ない。

        (2011.11.30)

「北陵クリニック事件」

日曜日, 12月 25th, 2011

     魍魎亭主人

「北陵クリニック事件(守 大助氏)」の判決文を読む機会があった。事件の主題となっている薬は、“マスキュラックス静注用(ベクロニウム臭化物)”である。“マスキュラックス静注用”は『毒薬』に分類される薬で、毒薬については、薬事法においてその取扱が規定されている。

第四十四条 毒性が強いものとして厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて指定する医薬品(以下「毒薬」という。)は、その直接の容器又は直接の被包に、黒地に白枠、白字をもつて、その品名及び「毒」の文字が記載されていなければならない。
2 略
3前二項の規定に触れる毒薬又は劇薬は、販売し、授与し、又は販売若しくは授与の目的で貯蔵し、若しくは陳列してはならない。

第四十七条 毒薬又は劇薬は、十四歳未満の者その他安全な取扱をすることについて不安があると認められる者には、交付してはならない。

第四十八条 業務上毒薬又は劇薬を取り扱う者は、これを他の物と区別して、貯蔵し、又は陳列しなければならない
2 前項の場合において、毒薬を貯蔵し、又は陳列する場所には、かぎを施さなければならない

つまり毒薬については、他の医薬品と区分して『鍵』の掛かる所に保存しなければならないとされており、厚生労働省は、毒薬の保管に関して、次の通達を出している。

『毒薬については、薬事法第48条の規定に基づき、適正に貯蔵、陳列、施錠の保管管理を行うとともに毒薬の数量の管理方法について検討し、これを実施すること。また、毒薬の受払い簿等を作成し、秋鎌倉-10帳簿と在庫現品の間で齟齬がないよう定期的に点検する等、適正に保管管理すること。』

北陵クリニックでは、毒薬である“マスキュラックス静注用”の管理について、法律に基づく取扱は何もされておらず、杜撰を絵に描いたような状況に置かれていたと云える。このような状況下では、毒薬である本剤を誰が持ち出したかも解らず、持ち出した個人を断定することは出来ないのではないか。クリニックの場合、薬剤師に管理の委任がされていない場合、毒薬の管理責任は院長にあり、まず院長の管理責任が問われなければならない。管理の徹底がされていれば、このような騒ぎにならなかったはずである。

また“マスキュラックス静注用”の使用済みの空アンプルの写真が証拠として提出されているようであるが、ロット番号が同一の空アンプルを持参していたという割には、ロット番号が写されていないという、奇妙な写真が証拠として提示されている。単に使用済みの空アンプルを写して証拠写真としているのだとすれば、それは何を証明しようとしているのか、甚だ疑問だと云わなければならない。

    (2011.12.24.)

「隅田公園から待乳山聖天」

日曜日, 12月 25th, 2011

       鬼城竜生

隅田公園リバーサイドギヤラリーにおいて“風子会”の展示会を開催しているので、見に来て欲しいというお葉書を頂戴し、2010年12月8日(水曜日)出かけることにした。場所は水上バス待乳山-01発着所の直ぐ傍ということで、絵を拝見しがてら浅草神社、待乳山聖天(まつちやましょうてん)、今戸神社までを経巡ることにした。

今回、浅草神社に出かけることにしたのは、不明にして浅草寺の右隣に浅草神社があることに全く気付かず、見向きもしていなかった。三社祭については何処の神社のお祭りか分からないが、浅草の何処かに大きな神社があるのではないかと思っていた。東京に来て既に50年が過ぎようというのに、浅草神社を知らなかった不明を恥じなければならないが、近々浅草寺の隣の神社に行くことにしていたので、今回の展覧会の場所は、願ってもない場所だということである。

浅草神社の社伝によると推古天皇の三十六年三月十八日、漁師の桧前浜成・竹成兄弟が、隅田川で漁労に精を出していたとき、魚は一匹も網に掛からず網にかかるのは人型の像だけであった。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を持って今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置した。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明した。

兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはそ待乳山-02の日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。翌十九日に再び網を打ったところ願いのごとく大漁を得ることができた。土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺とし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源である。土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされている。

それにしても網に掛かった人型の像は、最初は捨てていた訳で、それから見るとたいした人型ではなかったのではないか。それが何で突然浅草寺に祀られるような大層な仏像に化けたのか、生半には信用できない話である。更に何回も網に掛かったという話を前提にすると、木製の像が水を含んで重くなって沈んでいたのかと思ってしまう。

その他、浅草神社の成り立ちについて、『創建は今を去る1350年程の昔ということになるが、これは少々無理なようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺と袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、明治6年に現在の名称に至ります。今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社待乳山-03ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。』とする話も報告されている。

ところで推古三十六年は628年で、推古天皇は75歳で没したとされており、天皇になる前は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめのみこと)といった女性で、37年の長きに亘り正式に即位した最初の女帝であるとされている。

浅草神社に初めて来たが、浅草寺に比較すると、些か寂しい気もする。しかし、明治政府の『神仏分離令』が出された中で、これだけ守られてきたというのは、地元の人達に大事にされてきたということなのだろう。

浅草神社から隅田公園リバーサイドギヤラリーに廻り、ギヤラリーの場所の都合上隅田川の右岸に沿って上流を目指した。暫く行くと左手に時代物の小説に屡々出てくる待乳山聖天の表示が見えた。てっきり“じゅにゅうさんせいてん”と読むものとばかり思っていたが、置いてある冊子を見ると“まつちやましょうてん”という振り仮名がされていたので、思わず「ヘッ」となってしまったが、何で“まつちやま”なのか。どうやら待乳山は、浅草隅田川の西岸を望む海抜9.50m、僅か1000坪に満たない小丘陵があり、下町の平坦な地の一画に、鬱蒼とした木立に囲まれた山の姿が見えたということで、多分その山の名前が、“待乳山”ということの様である。最も待乳山を崩して日本堤を作ったという文献もあるとのこと、元々の姿は今見るよりも荘厳なものだったのかもしれない。

待乳山-05待乳山本龍院は、台東区浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院の一つであるとされる。待乳山は山号で、御本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天とも称されるという。この寺には浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。待乳山聖天の古い縁起によると、推古天皇三(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたとする伝承があるといわれている。この不思議な降起は、十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」が御出現になる先触れで、それから6年後、天候不順に人々が悩まされ、永い日照り続きで、人々は飢えと焦熱地獄に陥り塗炭の苦しみの中にいた。そのとき大聖歓喜天が現れ、こうした人々を苦しみからお救いになられたという。それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間、浴油修行をされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられている。

江戸時代になり元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されたとされている。以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭ったが今日まで篤い尊信は続いているという。本尊の大聖歓喜天は、仏法を守護する大本の神として、ことに庶民の迷いを救い、願いを叶える広大な包容力をもっているという。当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄を待乳山-07それぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示している。

その他、この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇三年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったといわれる。601年(推古天皇九年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置された。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れているとする紹介も見られる。

待乳山聖天の境内には、至る所に大根と巾着が印されているが、この大根と巾着は、信心・祈願することによって得られる御利益を端的に表したものだとされている。大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合の御加護・功徳を表しているという。巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天の信仰のご利益の大きいことを示されたものであると解説されている。

待乳山聖天を出て左に行くと今戸神社に行き着く。今戸神社は、後冷泉天皇康平六年(1063年)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡神社(八幡松林院→現・今戸神社)の創建になるとしている。

待乳山-08その後、白河天皇永保元年(1081年)、謀反をおこした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するあたり戦勝を祈願した。その甲斐あって勝ち軍を治めることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復した。更に戦乱兵火に遭うごとにしばしば再建されてきたが、江戸時代になると三代将軍徳川家光が、舟越伊豫守と八木但馬守に命じて、寛永十三年(1636年)今戸八幡の再建が行われた。大正十二年九月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、間もなく復興したものの、つぎは昭和二十年三月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭った。

今戸神社は、被災=再建の歴史をくりかえしながら、昭和四十六年十一月、現在の社殿が、氏子崇敬者の浄財によって造営された。その間、昭和十二年七月に、今戸の隣接地に鎮座されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称された。

御祭神は應神天皇、伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)、そして七福神のうちの福禄寿とされる。八幡さまの信仰は、一般には武運長久の霊験と思われているが、一方で、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているものとされる。伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて、日本の国土を創成し、諸神を産み、山海や草木を生したといわれる男女の神で、古くから産霊の神として仰がれている。

今戸神社の狛犬は今戸焼職人によって宝暦二年(1752年)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社に寄進され、文政五年(1822年)に再興された。浅草新堀の石工・小松屋竹右衛門が制作したといわれている。今戸焼は江戸時代から今戸周辺の地場産業。瓦、日常生活道具、土人形、工芸品などの焼き物を生産販売していたという。狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人と世話人42人の記銘がみられる。しかし、残念なのは、いま、今戸焼を継承しているのはわずか1軒になっ待乳山-10てしまったといわれる。今戸で産

待乳山-13

出する土器は、天正頃(西暦1540年)に下総千葉家の一族の配下の者が武蔵の浅草辺で土器や瓦を造りだしたのが始まりとされる。

待乳山聖天・今戸八幡神社(今戸神社)は昔からこの地にあり、神社としては名門なんだろうが、何回かの被災により、現在の神社はその都度、建て替えられているとされているだけに、古色蒼然という感じはしない。以下はこの辺りの話に関する蛇足である。

“弾左右衛門が鳥越から移動してきたのは1645年以降、引っ越し先は山谷堀の河口、待乳山聖天宮の対岸だ。そこはまだ農家が散らばる程度だが、ひとかたまりの寺があった。今戸神社もあった。今戸八幡神社(八幡松林院)と呼ばれ、境内には松や欅や銀杏の老樹がすでにあった。祭神は応神で、康平六年(1063年)の創立という。この土地の古株である[塩見鮮一郎:弾左右衛門の謎;河出文庫,2008]。
長史弾左右衛門の屋敷は今戸神社の裏側にあり、南北三町、東西一町余の広さで、一郭を成しており、南北の門は誰でも通り抜けることが出来、邸内には各種商家が立ち並んでいたという。その奥に明暦の大火で全焼した吉原から浅草田圃移転してきた新吉原が存在する。何れも幕府の命で、移転してきたとされているが、吉原の場合、火事がなければ引っ越しはなかったと思われる[山本眞吾:江戸の町がよくわかる時代小説「江戸名所」事典;株式会社双葉社,2011]。          (2011.8.5)