Archive for 10月 26th, 2011

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「緩んでしまった箍」

水曜日, 10月 26th, 2011

        魍魎亭主人

 

肺がん治療薬「イレッサ」の副作用を巡って患者の遺族らが国と製薬会社に損害賠償を求めた訴訟に絡み、厚生労働省幹部らが和解勧告に懸念を示す声明を出すよう関係学会に働きかけた問題で、同省内の検証経過を示す文書が黒塗りで開示されたのは不当だとして「薬害オンブズパースン会議」(東京)が、国に全面開示を求める訴えを東京地裁に起こしたとする記事が眼に付いた。これに対し厚生労働省は「適正に開示しており、訴状を見た上で対応を検討したい」という例によって例のごとき紋切り型の対応を示している[読売新聞,第48738号,2011.10.21.]。

検証経過を示す文書を黒塗りにして開示したと云うが、それを一般には開示したとは云わないのではないか。結果に自信があるのであれば、そのまま出せば済む話で、何も黒塗りにすることは無い。もしそれが都合の悪い文書であれば、最初から内部問題として、公開することなく突っぱねた方が潔かったのではないか。開示したという事実を残して、都合の悪いものは隠して、逃げることが出来ると考えていたとしたら御粗末極まりない。

最も「イレッサ」裁判の判決を有利に導こうと、その道の権威といわれる諸氏に意見を求める根回しをして、それが外部に漏れるという、従前なら考えられない組織的な緩みの方が、御粗末と云えばより御粗末かもしれない。将に厚生労働省、組織としての箍が明らかに緩んでいると云われても仕方が無い。

しかし、考えてみると、世論を喚起し、裁判を有利なものにしたいという発想そのものが御粗末といえば御粗末だったのではないか。裁判所において十分に所信を述べることで、「イレッサ」承認の正当性を示すのが厚労省の役割であって、世の同情を得て裁判に勝とうなどと云う姑息なことを考える筋のものではない。これでは世の批判を受けている原発の世論誘導と何ら変わるところがない。世論誘導という、全く似たような発想が、経済産業省、厚労省で見られると云うことは、最近の役所は、目的達成のためには、恥も外聞もなく、何でもありという考え方と云うことなのか。

この裁判を通して厚労省に期待したのは、添付文書の法的な位置付けを明確にすることだったのである。単なる助言的な文書なのか、法的に拘束力のある文書なのか。現状は単に保険請求に影響する程度で、何の拘束力もない。特に医師は、添付文書に拘束されることを嫌い、添付文書情報を信頼性の低いものとして見がちである。薬剤師はその立場上、添付文書の記載事項を順守させようと努力するが、拘束力のない単なる法的文書では、往々にして無駄な努力に終わってしまう。だから薬剤師の立場からすれば、法的拘束力のある文書にすべきだと考える訳である。

キノホルムによるスモンの発生も医師の適応外使用が原因であり、日本商事が開発した帯状疱疹治療薬“ソリブジン”が、1993年9月の発売後1年間に15人の死者を出した事件も、添付文書の記載事項をよく読みさえすれば、避けられた話である。勿論、治験段階で投与された患者3人が死亡していたことが後から判明したり、企業のMRが「兎に角採用してくれ、採用してくれ」の一点張りで、使用を迫ったという結果はあるにしろ、添付文書に法的拘束力があれば避けられたはずである。尤もその当時の添付文書の書き方は、概ね企業に肩入れした書き方になってはいたが。

今回「イレッサ」の判決で、添付文書の記載順序が問題になったようだが、何番目に書いてあろうが、医師の認識は変わらない。更に副作用としての“間質性肺炎”の重要性について、重大な副作用の中に書いてあれば、順番に関係なく、医師なら重視するはずである。従って何番目に書いてあるかが問題ではなく、添付文書の記載内容に配慮する意識が薄いことが問題なのである。添付文書は薬を使用する際には、順守すべきものであるとすることが是非とも必要なのである。

           

  (2011.10.23.)

「信じられないことが起こるものです」

水曜日, 10月 26th, 2011

         医薬品情報21 
                古泉秀夫

§ 立正佼成会付属佼成病院(東京都中野区)は12日、80歳代の女性に対する胃の内視鏡の際、薬剤を誤使用し、女性を重篤な状態に陥らせる医療過誤が起きたと発表した。同院や報告を受けた東京都によると、医療過誤が起きたのは9月22日。女性は外来で同院を訪れて検査を受けた。その際、検査に使用する薬剤の濃度が誤っていたため、帰宅後、体調が悪化したという。現在は別の病院に入院し、治療中という[読売新聞,第48729号,2011.10.12.]。

§ 立正佼成会付属佼成病院で起きた医療過誤で、同病院は12日、記者会見を開き、同病院の男性内科医(34)が、胃の内視鏡検査で通常の7倍以上の濃度の酢酸を使用していたことを明らかにした。神保好夫院長は、「全ての責任は当院にあり、深くお詫び申し上げる」と謝罪した。同院によると、女性は胃がんで、9月22日に癌の部位を特定する内視鏡検査を受けた。酢酸は癌の部位を白く浮かび上がらせる検査薬として使われるが、この検査法は同院では行われていない。内科医は院内にあった酢酸原液を薄めて使ったが、高濃度だと健康被害が生じるという認識が薄く、通常1.5-3%のところを結果的に23%で使用した[読売新聞,第48730号,2011.10.13.]。

§ 同院で起きた医療過誤で、誤って高濃度の酢酸を検査薬として使用され重篤な状態に陥っていた患者が14日午後に死亡したと発表した。警視庁は業務上過失致死の疑いもあるとして病院関係者から詳しい事情を聞く方針[読売新聞,第48732号,2011.10.15.]。

§ 少なくとも人の命に係わる以上、経験の無い治療なり検査なりを行うなら、前もって調べるのが当たり前である。調べた上で確認し、確信を持って初めて実行する。勿論、患者の容体によっては、時に果断に行動することも必要ではあるが、今回の事例では特に緊急に対応する必要は無かったのでは無いか。もし、自分で調べることが苦手だというなら、院内にいる薬剤師に調査の依頼をすればいいわけで、そのために院内には医薬品情報担当の薬剤師がいるはずである。

§ 残念ながら今回この女性患者は亡くなられた。患者にとっては甚だしく不幸な話ということになるが、調べるという僅かな努力をないがしろにしたばかりに、人一人の命を縮め、自らも業務上過失致死ということになれば、医師として致命的な状況に追い込まれてしまう。医師であれば何をしてもいい。あるいは医師である自分のすることは全て正しいと思っていたとすれば、とんでもない思い上がりだと云わなければならない。

§ 新聞報道報道の範囲からは、今回の事件が発生した背景は全く解らない、従って軽々に判断すべきではないのかもしれない。何か特段の事情があって、結果として今回の事態を出来させたと思いたい。それでなければ今回の出来事は“あまりにも信じられないことが起こった”と云わざるを得ない。

              

  (2011.10.15.)

「善光寺」

水曜日, 10月 26th, 2011

     鬼城竜生

 

2010年10月10(日曜日)-11日(月曜日)の連休を利用して長野市で日薬の学術大会が開催された。10日の夜同窓会の催しがあり、参加しなければならない為、午後に着く電車善光寺-01で出かけた。現地の方々の綿密な準備と、全国からの参加者もあり、50名を超える集会となり、久々に盛大な会になったといえる。

翌日は学術大会に参加する予定は入れていなかったので、善光寺を覗いて行くことにした。“The Saihokukan Hotel”を出たところで霧のような雨が降っていた。傘はいらないかと思ったが、折角持ってきたのだからと折りたたみ傘を広げたが、何と手持ちの傘のうち一番小さな傘を持ってきたようで、本降りになったら丸ごと濡れるのを覚悟しなければならないような傘だった。

玄関を出て左に行き、最初の信号を左に行くと、電話機の石碑に出くわした。写真を撮って直ぐ突き当たりの広い通り、多分善光寺表参道を左に行くと直ぐ北野文芸座なる演芸場みたいなものが見えた。その前を過ぎて真っ直ぐ行くとやがて大きな門が見えて来たが、近づいて見ると仁王門ということであった。仁王門の前を仲見世通りが三門まで繋がり、その奥に本堂が見えた。
                                   
善光寺-02所で信州善光寺について、一光三尊阿弥陀如来を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ておりますとする説明がされている。更に『善光寺縁起』によればとして、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりましたとする解説が見られる。山号は「定額山」(じょうがくさん)。

善光寺は宗派によらず、全ての善男善女をお迎えする信仰の名刹とされており、善光寺は無宗派のお寺であるとされている。しかし、天台宗と浄土宗の山内寺院によって護持されており、それぞれの法要が毎朝務められているとされる。

善光寺-03善光寺-04天台宗の方は『本坊大勧進』と称して三門の左側にあり、その説明によると「勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。弘仁八年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。大勧進は天台宗大本山で善光寺二十五ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております。」とされている。

一方、大本願は「善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。現在は浄土宗の大本山で、浄土宗の宗祖法然上人と二祖聖光上人とが善光寺如来の夢告により、法縁を結ばれたり、浄土宗西山派の祖証空上人、三祖良忠上人、その他数多くの浄土宗系の高僧たちにより信濃に念仏の教えが広められました。また、孫弟子、諏訪の蓮仏が北條時頼の帰依を受けて善光寺への信仰が広められ、善光寺信仰が大衆の心に大きく生かされました。江戸時代、慶長六年(1601年)善光寺-05徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化されました。」とする説明がされている。

兎に角、本堂の屋根の形も神社の屋根と寺院の屋根とが二つ重なったような形で、後で聞いたところによると、この屋根を「撞木造り」と呼ぶのだそうである。これは入母屋造りの屋根をTの字に組み合わせた構造であるとしているが、初めての経験で、仕掛けが良く理解出来ていない。大勧進と大本願で御朱印は頂いたが、よく考えたら大勧進は御不動さんで、結局、正確には御朱印は三カ所で頂戴しなければいけなかったのではないかと反省している。

帰り大門の交差点で左側を見たところ鳥居が見えたので、行ってみたところ“武井神社”なる額束が見られた。「武井神社は善光寺の参道の東側にある神社である。車の厄除け神社として知られており、社地の左半分を駐車場として使用している。湯福神社、妻科神社とともに善光寺の鎮守としても存在しており、地区の産土神として崇敬されている。江戸時代の以前には「武井明神」と呼ばれていたとされており、その後に本来の呼び方だった武井神社へ戻したといわれている等の紹介がされている。

善光寺-07電車が早い時間に指定されていたので、そのまま帰途についたが、本日の総歩行数は、12,034歩。

[2010.10.29.]