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「高幡不動」

月曜日, 9月 12th, 2011

     鬼城竜生

2010年12月11日(土曜日)京王線の笹塚駅の近辺に行かなければならない用事があり、笹塚での用件が済み次第、同じ電車で「高幡不動」迄行ってみようということになった。午前中は孫の保育園の発表会があると云うことで、付き合うことになっていたが、午後からは時間が空くと云うので、出来れば紅葉の写真を撮りたいと、高幡不動尊に出かけることにした。高幡不動高幡不動b-01尊には何年か前に紅葉の写真を撮りに来て、それなりの写真が撮れたが、今回も柳の下の泥鰌狙いで行くことにした。但し、前回は一人で出かけたので何の気兼ねもなかったが、今回はかみさんも一緒なので、写真だけ撮れれば良いやということにはならないので、少しは見学にも時間をかけなければならないかもしれない。

京王線高幡不動駅の改札を出ると駅前広場の右斜め方向に赤い参道門が見える。高幡不動尊の扁額の掲げられた門を潜ると、正面に高幡不動の仁王門が見える。門前の右側に、前回来た時には見られなかった新しい蕎麦の店が出来ており、かみさんと二人、遅い昼飯として蕎麦を食ったが、それなりの味を出していた。

同寺が配布している小冊子に拠れば、『高幡不動尊は真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺が正名で、古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。古文書によればその草創は大宝年間(701年)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる高幡不動b-02。のち建武2年(1335年)八月四日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342年)麓に移し建てたのが現在の不動堂で、続いて建てられた仁王門ともども関東稀に見る古文化財である。

足利時代は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林・火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従えた大寺院であったが安永八年の業火により大日堂・大師堂を始め、奥院伽藍を一挙に焼失した。その後、歴代住持の尽力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和五十年以降、五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ、往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。現在、大師堂・聖天堂の再建工事中である。

総重量1100キロを超える巨像で、日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は、千年ぶりの修復作業が完了し、現在奥殿にご安置されている。』

丈六不動明王像并両童子像(重文)平安時代

尊容極めて雄偉、火防不動・汗かき不動と呼ばれ、数々の霊験を伝えている。古来日本一の不動三尊と称えられ、関東不動信仰濫觴の霊像と考えられている。成田山新勝寺などとともに、関東三大不動の一とされる。関東三大不動の他の二つは不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)あるいは高山不動(高幡不動b-03常楽院)とされている。

高幡不動b-6新丈六不動明王像(身代わり本尊)北 宗俊 作

重文・丈六不動明王像修理のため、身代わりの本尊として造立した巨像で平安後期の様式を忠実に継承していますの説明がされている。

土方歳三像

最初なんで土方歳三なんだと思ったが、『新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や殉節両雄の碑がある。 歳三の墓のある愛宕山石田寺は末寺の一つである』。の説明を聞いて納得。
 
なお、高幡不動尊は、都内有数の紫陽花の名所として知られ、6月上旬には境内奥の山には山紫陽花が咲く。その他の紫陽花は6月終わり頃までが見ごろであるの紹介がされている。

どういう訳か、総歩行数8,257歩で、目標の一万歩には到達しなかった。更に残念なことに、時期が遅かったのか、それとも今年は紅葉が駄目だったのか、紅葉の写真は撮れなかった。

                  (2011.8.10.)