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「浜離宮恩賜庭園」

土曜日, 9月 24th, 2011

           鬼城竜生

好きな花は何ですかと聞かれれば、口には出さないまでも、『彼岸花』が頭に浮かぶ。どういう訳か、赤ん坊の天然パーマみたいな花が好きなのである。但し、おどろおどろしく群れて咲いている

 

浜離宮-01

 

 

 

 

 

 

 

 

のが良いというのではなく、そこそこの数が咲いているというのが良いということである。

 

浜離宮-02

 

ということで2010年9月25日(土曜日)彼岸花の写真を撮る為に浜離宮に出かけた。新橋駅で降りて、地下通路をゆりかもめの汐留駅を目指し、電通本社の横の階段を上ると、浜離

 

浜離宮-03浜離宮-04

 

宮が見える。前回は横手の中の御門から入ったが、今回は大手門から入ることにした。

 

浜離宮-05

 

浜離宮の彼岸花は、大手門を入って右側、公衆便所の隣、延遼館跡でまず見られる。但し、足の踏み場もないほどに咲いているわけではなく、幾つかの塊になって数える程度に咲いていると

いうことだが、今年はどういう訳か極端に数が少なく、しかも立ち入り禁止の芝生の奥の方に咲いていたので、小型のデジカメでは、引き寄せることができず、ろくな写真は撮れなかった。但し、

浜離宮-06

 

中の御門よりの何時も群れで咲いている当たりにそれでも何本かの花が咲いていた。しかし、どうやら蕾の方が多い状況で、九月に入っても暑さが続いていたのが影響したのかもしれない。

その他、芳梅亭の前当たりに数本の彼岸花があり、汐入の池の道沿いにも花が見られるはずであったが、これも本数が少なかった。

今回、旧稲生神社に向かう道の築地川添いを歩いていとき、幾つかの花群れを見つけた。彼岸花が咲いている時期に、ここまで入ったことはなかったので知らなかったが、ここにも花群はあった

浜離宮-07

 

ようである。ただ、浜離宮は彼岸花の数を増やす気はないようなので、何時も同じような数が咲いているということのようである。

お花畑に入るとやや時期は過ぎたと思われるキバナコスモスとコスモスが咲いていた。ここで何枚かの写真を撮ったが、花に止まっている蝶々を撮るという目論見は失敗した。重いのが嫌で小型の写真機を使っている。花の直ぐ傍に写真機を突き出す為、感付かれて逃げられてしまう。咲き残っている花の前で、写真機を構えて待機していても、気配を察すると見えて次々に逃げてしまう。まあ、蝶々はあきらめて、キバナコスモスを何枚か写して帰ることにした。

本日の総歩行数は11,410歩。思ったより歩いていた。

                          去年よりも花影少なき彼岸花
                          酒汲めば病の噂彼岸花
                          作為過誤世も末という狐花 

     

(2010.10.13.)

『調剤過誤』

土曜日, 9月 24th, 2011

         医薬品情報21
              古泉秀夫  

 

埼玉県警は19日(2011.8.)小嶋富雄氏(小嶋薬局社長(76歳・越谷市)と「小嶋薬局本店サンセーヌ薬局」の女性管理薬剤師(65歳)1人を、調剤過誤により女性(75歳)を死亡させたとして、それぞれ業務上過失傷害容疑、業務上過失致死容疑でさいたま地検に書類送検した。県警と県薬務課によると、送検容疑内容は、平成10年3月25日、春日部市在住の無職女性(当時75歳)に対し、小嶋社長が胃酸中和剤を調剤しなければならないところをコリンエステラーゼ阻害薬を自動錠剤分包機で調剤し、鑑査もせずに交付した。

本来なら制酸便秘剤「マグミット錠250mg」(一般名:酸化マグネシウム)を出すはずが、重症筋無力症の治療に使うコリンエステラーゼ阻害薬「ウブレチド錠5mg」(ジスチグミン臭化物)を誤って渡した。同剤は毒薬指定され、重大な副作用の懸念があるため、高齢者には「慎重投与」となっている。女性患者は、臭化ジスチグミン中毒に陥り、4月7日に入院先の病院で死亡した。社長は薬局開設者として誤調剤を防止する業務上の注意義務があるのにこれを怠り、誤調剤で女性患者に全治不詳の臭化ジスチグミン中毒という『傷害』を負わせた疑い。女性管理薬剤師は、4月1日に分包機の「補充ランプ」点灯で異変に気付いた部下の薬剤師から誤調剤の事実報告を受けたにも拘わらず、服薬中止の指示や薬剤の回収をせず放置したため、結果としてその女性を4月7日に死亡させたとの管理責任を問われた。女性管理薬剤師は、部下の薬剤師から誤投薬の指摘を受けたにも係わらず、経営者に叱責されるのを嫌い、報告も回収もしなかったという。

県警からの情報提供で、春日部保健所は4月13日に立入り検査を実施、社長から事情を聴取。業務改善を求めた。2月20日-4月1日までの35営業日で死亡した患者を含む23人に計2970錠を誤調剤していたことが発覚した。22人からは残った薬を回収し、健康被害の訴えも出ていない。同薬局は、分包機の薬品マスターに登録する際、マグミット錠とウブレチド錠を「同じ番号」に設定してしまったためミスが発生したと報告した。

再発防止策として?ウブレチド錠の取扱を止める、?薬品マスター変更・登録時は2人以上で確認し、結果を記録する。?従来の調剤鑑査に加え、新たに鑑査台を設けてチェックすることを提示した。

県薬務課では、調剤過誤が発覚した後、昨年4月23日付で、県下薬局に対して再発防止に向けた注意喚起を図ると共に、保健所による立入り検査を行う際には、?自動錠剤分包機、?毒薬等の適正管理?を県独自の重点項目として盛り込んだ。

業界関係各誌の論調は、薬剤師会会長の事件と云うことに興味を示した記事の書き方をしているが、今回の調剤過誤問題と会長職の問題は何の関係もない。純粋に調剤過誤の問題として検討を加え、過誤を起こした原因を探らなければ今後の参考にならない。

まず第一に「毒薬」である「ウブレチド錠」を錠剤分包機に充填することの是非を問題にすべきである。
平成13年4月23日付厚生労働省医薬局長通知 医薬発第418号『毒薬等の適正な保管管理等の徹底について』[各都道府県知事・保健所設置市長・特別区長宛]では、「2.保管管理について、(1)毒薬について:毒薬については、薬事法第48条の規定に基づき、適正に貯蔵、陳列、施錠の保管管理を行うとともに毒薬の数量の管理方法について検討し、これを実施すること。また、毒薬の受払い簿等を作成し、帳簿と在庫現品の間で齟齬がないよう定期的に点検する等、適正に保管管理すること。」としている。毒薬の場合、普通薬との混在保管は認められておらず、錠剤分包機に充填した場合、最低限調剤終了後、少なくとも「薬品カセット」毎施錠することが必要である。

更に「ウブレチド錠」の適応症は「手術後及び神経因性膀胱などの低緊張性膀胱による排尿困難、重症筋無力症」であり、錠剤分包機に入れるほどの使用量はないはずである。何故この薬を分包機に充填することを判断したのか、そこにも問題があるといわなければならない。

第二は「鑑査抜き」で、患者に薬剤を交付をしたことである。薬剤師が調剤することの基本は、正確な調剤をすることである。患者の安全確保のために情報管理も含めて最大限の努力をすることである。薬剤師の表芸は調剤であり、その表芸で間違いを犯したのでは意味がない。しかし、一方で人は過ちを犯す動物である。更に始末が悪いのは、仕事をすればするほど間違いも増えるという、相関関係にあるということである。つまり何か事を起こさなければ間違いは起こさない。

この仕事上の過誤を避けるためには一人より二人と云うことで、複数の眼によって鑑査することが必要である。もし、今回の事例で社長が調剤したから部下は鑑査をしなかったとすれば、この会社の問題点はそこにあるといわなければならない。社長は間違えないと誰が決めたのか、もし、当人だとすれば、篦棒な話である。更に経営者に叱責されるのが嫌だと云うことで、管理薬剤師が誤充填の報告に何ら対応しなかったと云うが、薬局内にそのような雰囲気が醸されていたとすれば、これもとんでもない話である。患者の安全確保に万全を期すためには、自由に物がいえる雰囲気は絶対に必要であり、そのような環境が醸成されていないとすれば、経営者として失敗だと云わなければならない。

逆に言えば、今回の過誤は、管理薬剤師が勇気ある対応をしていれば、あるいは防止できたかもしれないという事が考えられる。しかし、だからといって経営者の責任が逃れられる訳ではない。兎に角風通しの良い職場環境を作らなかったということは、経営者の責任だといえる。

充填段階における過誤、誤充填は、絶対に避けなければならない。何故なら誤充填による過誤の範囲は限りなく拡大するからである。充填時には必ず2名で確認しながら充填をすると言うことが原則である。もし1人勤務だというなら、電車の運転手がやるように“指呼確認”それも声を出して確認するということが基本原則である。

所でこの薬局は、調剤業務を行う上で、指針を作成していたのであろうか。業務の手順を細かに決めて、それを文書化しておくことで、過誤のない調剤が可能であり、過誤発生時の患者対応について細かな取り決めがされていれば、直ちに対応が可能だったはずである。

新しく手に入れた情報によれば、自動分包機に錠剤を入れる場合、タブレットケースに番号を割り当てる必要があるが、当初はマグミット錠、ウブレチド錠とも正しく番号が振られ、正確に分包機から出ていた。しかし、ある時パソコンでマグミット錠の設定画面を開いた際に、気がつかないうちに1文字消すキーを1回押したと見られるという。「253番」とされていたマグミット錠の番号は末尾の「3」消え、「25番」に変わってしまう。この「25番」がたまたまウブレチド錠が入っている25番のタブレットケースから薬が出てくる設定になってしまったという。

キーボードを押すのに慣れてくると、無防備にキー操作をする人がいる。そのような場合にキーの誤作動を避けるために、間違えたキー操作をすれば何等かの警告音が出すか、削除キーが誤作動しないようにキーロックする等の安全策が講じられていなければおかしいのではないか。そのような安全装置のない機械だとすれば、安全装置を独自に講じて置く必要があったと考えられる。

いずれにしろ誤調剤の結果、患者が死亡したという事実は、医療に携わる医療人としてはあってはならないことであり、その防止のために最善の努力をすべきである。

1)小嶋埼玉県薬会長が書類送検-容疑は調剤化合による死亡;薬事日報,第11021号,2011.8.22.
2)埼玉県薬・小嶋会長が書類送検-調剤ミス「放置」で患者死亡、薬剤師会トップの不祥事;RIS Fax.第5903号,23.8.22.
3)埼玉県警 調剤過誤で県薬会長らを書類送検;日刊薬業,2011.8.22.
4)ウブレチド錠添付文書,2010年10月改訂
5)一つの設定ミスが起こした事故 埼玉県で調剤過誤;日刊薬業,2011.9.5.

      (2011.9.11.)

『平将門』

土曜日, 9月 24th, 2011

     鬼城竜生

 

平将門がどのような人物か知らない。武将というよりは、どちらかといえば妖しい奴という認識の方が強い。どちらかといえば安倍晴明の世界の住人として、世に徒なす輩という認識である。取り

敢えず平将門を祀ったという『筑土神社』に御参りすることにした。

 

筑土神社-01

 

築土神社は天慶三年六月(940年)、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれて京都でさらし首にされていた平将門公の首を首桶に納め、密かに持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津

 

筑土神社-02

 

久戸の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりだとされる。江戸城築城後の文明拾年六月(1478年)、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を造営。太田家の守護神、そ

 

筑土神社-03

 

して江戸城の鎮守神として厚く崇敬したという。筑土神社の主神は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)。相殿神(あいどのの神)は平将門公、菅原道真公とされている。

 

筑土神社-04

 

しかし、築土神社が将門を祀る神社であることを明らかにしたのは鎮座1050年を記念、御由緒を発行した平成二年のことであるとしている。やはり平将門が天皇に対する逆賊という話に遠

 

筑土神社-06

 

慮したためのことのようであるが、神様の世界も生臭いようである。

 

筑土神社-07

 

神社で御絵馬を頂戴した。絵馬の袋に『平将門公龍馬紋の由来』が書かれていた。

 

筑土神社-11

 

承治二年将門公が志を立て、兵馬を起こしたとき、突然空の一角が稻光ったと見ると、九曜星が、矢のような早さで落ちてきて忽然として黒馬に変わり地を蹴って駆け出そうとした。将門公

はそれを見るより早く、部下に命じて黒馬を繋ぎ止めさせた。この神事により兵は大いに奮い立ち起ったと伝えられています。

筑土神社-08

筑土神社-09

 

古来中国では、最上級の馬を「龍」と呼んでおります。将門公の漆黒の駿馬はまさしく「龍」そのものであり、公は龍馬を縦横無尽に駆使し、多くの勝利を手中にしました。

 

筑土神社-10

 

本日の予定としては、筑土神社の次は、平将門の首塚に行くことにしていたので、大手町に出て、三井物産の隣を目指した。高いビル郡の狭間に異空間のごとく静かに首塚はあった。神田明神が管理しているということで、 植木の剪定などもキチッとしていたが、驚いたのは胡蝶蘭の鉢植えが二鉢、供えられていたことである。

平 将門は、平安時代中期の関東の豪族とされている。平氏の姓を授けられた高望王の三男・鎮守府将軍平良将の子。桓武天皇五世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位して「新皇」を自称した。その結果、朝敵となる。しかし即位後わずか二ヵ月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。死没 天慶三年二月十四日(940年3月25日)。別名: 相馬小次郎、滝口小次郎、新皇。

2010年9月10日(金曜日)の総歩行数は9,647歩。

             (2010.10.6.)     

『池上本門寺名園松濤園』

火曜日, 9月 13th, 2011

                        

       鬼城竜生

 

池上本門寺に自ら名園と称する『松濤園』がある。東京都旧跡に指定されている緑豊かな庭園で、慶応四年三月、新政府軍の参謀・西郷隆盛と徳川軍の勝海舟が、江戸開城の交渉を行った場所であるといわれている。

妙見堂-01

桂離宮の建築・造園で名高い小堀遠州の作庭と伝わる庭園が、期間限定で公開されるというので9月2日(木曜日)出かけてきた。

妙見堂-02

西郷・海舟の会見場には石碑が建てられると共に茶室『浄庵』が建てられている。更に期間中は茶室「鈍庵」、「根庵」の内部を外から見学することができるとしているが、茶室を外から眺めて

妙見堂-03

もあまり感興は起こらないが、御茶の経験がなければ、中に這入れたとしても同じような反応ということだろう。敷地は13000?とされており、豊富な湧き水をたたえる池泉

妙見堂-05

 

には“亀島”があり、松濤之滝も見られる。

園内を一渡り拝見した後、前回七福神で回ったときに見損なった亀の背に乗る灯籠を見る為“妙見堂”に回ることにした。前回は偉く長い階段を昇らされたが、どうやら本門寺の境内と繋がっているような感じがしたので、兎に角行ってみることにした。本門寺に這入るときに上がる加藤清正が寄進整備したものと伝えられる此経難持坂(しきょうなんじざか)の手前を左に曲がり、日蓮さんの銅像の前を過ぎてなを奥に行くと“妙見堂”を指し示す案内が出ていた。妙見堂は、南谷壇林の守護鎮守として、加藤清正息女瑤林院が奉納した「妙見菩薩立像」を祀る御堂

妙見堂-04

であるとする紹介がされている。

なるほど台座が亀になっている石灯籠があったが、相当古い物だと見えて、頭と尻尾の部分が欠けていた。

前回来たときには気がつかなかったが、御参りに来ていた女性の方が、階段を下りないで、境内の左奥に行くのが見えたのでその道を行ってみたが、なんと大田区池上会館の上に出た。しかも驚いたことに本門寺の五重塔がいい位置に見えて、前から探していた絶好のアングルを提供する場所だった。次の桜の時期には是非ともここから五重塔を撮ってみたいと思っている。

     (2010.9.25.)

「高幡不動」

月曜日, 9月 12th, 2011

     鬼城竜生

2010年12月11日(土曜日)京王線の笹塚駅の近辺に行かなければならない用事があり、笹塚での用件が済み次第、同じ電車で「高幡不動」迄行ってみようということになった。午前中は孫の保育園の発表会があると云うことで、付き合うことになっていたが、午後からは時間が空くと云うので、出来れば紅葉の写真を撮りたいと、高幡不動尊に出かけることにした。高幡不動高幡不動b-01尊には何年か前に紅葉の写真を撮りに来て、それなりの写真が撮れたが、今回も柳の下の泥鰌狙いで行くことにした。但し、前回は一人で出かけたので何の気兼ねもなかったが、今回はかみさんも一緒なので、写真だけ撮れれば良いやということにはならないので、少しは見学にも時間をかけなければならないかもしれない。

京王線高幡不動駅の改札を出ると駅前広場の右斜め方向に赤い参道門が見える。高幡不動尊の扁額の掲げられた門を潜ると、正面に高幡不動の仁王門が見える。門前の右側に、前回来た時には見られなかった新しい蕎麦の店が出来ており、かみさんと二人、遅い昼飯として蕎麦を食ったが、それなりの味を出していた。

同寺が配布している小冊子に拠れば、『高幡不動尊は真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺が正名で、古来関東三不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。古文書によればその草創は大宝年間(701年)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる高幡不動b-02。のち建武2年(1335年)八月四日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342年)麓に移し建てたのが現在の不動堂で、続いて建てられた仁王門ともども関東稀に見る古文化財である。

足利時代は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林・火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従えた大寺院であったが安永八年の業火により大日堂・大師堂を始め、奥院伽藍を一挙に焼失した。その後、歴代住持の尽力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和五十年以降、五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ、往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。現在、大師堂・聖天堂の再建工事中である。

総重量1100キロを超える巨像で、日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は、千年ぶりの修復作業が完了し、現在奥殿にご安置されている。』

丈六不動明王像并両童子像(重文)平安時代

尊容極めて雄偉、火防不動・汗かき不動と呼ばれ、数々の霊験を伝えている。古来日本一の不動三尊と称えられ、関東不動信仰濫觴の霊像と考えられている。成田山新勝寺などとともに、関東三大不動の一とされる。関東三大不動の他の二つは不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)あるいは高山不動(高幡不動b-03常楽院)とされている。

高幡不動b-6新丈六不動明王像(身代わり本尊)北 宗俊 作

重文・丈六不動明王像修理のため、身代わりの本尊として造立した巨像で平安後期の様式を忠実に継承していますの説明がされている。

土方歳三像

最初なんで土方歳三なんだと思ったが、『新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や殉節両雄の碑がある。 歳三の墓のある愛宕山石田寺は末寺の一つである』。の説明を聞いて納得。
 
なお、高幡不動尊は、都内有数の紫陽花の名所として知られ、6月上旬には境内奥の山には山紫陽花が咲く。その他の紫陽花は6月終わり頃までが見ごろであるの紹介がされている。

どういう訳か、総歩行数8,257歩で、目標の一万歩には到達しなかった。更に残念なことに、時期が遅かったのか、それとも今年は紅葉が駄目だったのか、紅葉の写真は撮れなかった。

                  (2011.8.10.)

『鎌倉巡り』

日曜日, 9月 11th, 2011

   鬼城竜生

鎌倉のホテルの宿泊券の有効期限が切れるので、出かけませんかというので、お供することにした。紫陽花の時期は満杯だというので、少し時期をづらし、七月三日(土曜日)、七月四日(日曜日)に出かけることにした。

円覚寺-01京急線の久里浜駅で降りて、JRの久里浜駅まで歩いて乗り換え、北鎌倉駅で降りて、そこから鎌倉市内を巡る行程を計画した。前回鎌倉に来たときは金沢八景でバスに乗り換えて、鎌倉宮を目指し、その後徒歩で荏原天神社→頼朝の墓→鶴岡八幡宮→建長寺→円應寺→明月院→北鎌倉駅の行程を一日巡ったが、北鎌倉駅前にある円覚寺は、時間の関係で拝観出来ずにいた。

そこで今回は北鎌倉駅を降りて直ぐ目の前にある鎌倉五山の一つ円覚寺(えんがくじ)から拝観させて頂くことにした。拝観志納金の裏に書かれている説明によると、円覚寺は、瑞鹿山(ずいろくさん)円覚興聖禅寺と号し、臨済宗円覚寺派の大本山である。弘安五年(1282年)鎌倉幕府八代執権北条時宗公が開基となり、中国の名僧無学祖元(仏光禅師円満常照国師)を開山第一世に迎えて開堂した。創建の趣旨は、国家を鎮護し、仏法を紹降すると共に、文永・弘安の度重なる蒙古の襲来で戦没した敵味方の霊を慰めるためであった。

円覚寺の名前の由来は建立の際、大乗経典の「円覚経」が出土したことから、また、瑞鹿山の山号の由来は開山国師(無学祖元禅師)が、仏殿開堂落慶の折、法話を聞こうとして白鹿があつまったという奇瑞から瑞鹿山(めでたい鹿のおやま)とつけられたといわれている。開山国師(無学祖元禅師)の法灯は、高峰顕日、夢窓疎石と受け継がれその流れは室町時代に日本の禅の中心的存在となり、五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。

円覚寺は、室町から江戸時代にかけて幾たびかの火災に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興し、修行者に対円覚寺-02し峻厳をもって接し、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築いた。明治以降今北洪川老師・釈宗演老師の師弟のもとに雲衲や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。静寂な今日の伽藍は創建以来の七堂伽藍の形式が伝わっており、山門、仏殿、方丈と一直線に並び、その両脇に右側、浴室、東司跡、左側、禅堂(選佛場)がある。

中に入って驚いたのは、焔魔堂があったことである。焔魔堂の奥は暗くてあまり良い焔魔の写真は撮れなかったが、入口に焔魔の写真パネルが出してあり、それを撮ってみたところ迫力のある焔魔が撮れた。その他、みがわり地蔵や呑龍地蔵大菩薩等が祀られていた。

次に臨済宗建長寺派福源山明月院に向かった。明月院で頂いた栞によると、明月庵の創建は今から八百三十年前、永暦元年(1160年)に始まる。この地の住人で、首藤刑部太夫山ノ内経俊が、平治の乱で戦死した父・首藤刑部大輔俊道の菩提供養として、明月院の前身の明月庵を創建。その後、康元元年(1256年)、北条相模守時頼公によって、この地に「最明寺」を建立(現在、明月院西北の場所)。言うなれば北条時頼の別業の仏堂。時頼は三十歳で出家、僧名を覚了房道崇と号し、弘長三年(1263年)十一月三十七歳で卒去。後に時頼の子、八代執権北条時宗が最明寺を前身として、「福源山禅興抑聖禅寺」を再興。
開山は建長寺開山大覚禅師の五世法孫の地位にあった密室守巌禅師。

円覚寺-03康暦二年(1380年)時の関東公方足利氏満が、管領上杉安房守憲方に禅興寺の中興の命じ、伽藍を完備、寺域を拡大にし、支院を配置させた。足利三代将軍足利義満天下の時、大寺院を選ぶにおいて禅興寺を関東十刹の一位とする。この時、『明月庵』は『明月院』と改められ支院の首位におかれた。本尊、聖観世音菩薩。その当時の『明月院絵図』に在りし日の堂塔伽藍を偲ぶ。明治初年に禅興寺は廃寺となり、『明月院』だけを残して今日に至る。

その他、現在では境内に多くの紫陽花が植えられ、?紫陽花寺″とも呼ばれる。宗猷堂(開山堂・そうゆうどう)には、密室守厳の木像を安置。 そのそばには鎌倉十井の一つ?瓶ノ井(つるべのい)″がある。 また山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のもの。上杉憲方の墓とされる宝筺印塔が内部にあるとされている。

引き続いて臨済宗建長寺派の仏教寺院である円應寺(えんのうじ)にお参りした。お寺の栞によると、円應寺は閻魔大王を本尊として智覚禅師により建長二年(1250年)に創建されたお寺である。山号は新居山。『焔魔堂』、『十王堂』とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う「十王」を祀っている。

円應寺は初め見越獄(みこつのごく、大仏様の近く)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜に移築し、その後、元禄十六年(1703年)に起きた大地震後に現在の地に移転したといわれてい円覚寺-04る。本尊の焔魔大王座像(国重要文化財)は、仏師「運慶」作であると伝わっている。運慶は頓死し、焔魔大王の前に引き出されましたが、焔魔様の「汝は生前の慳貪心(物惜しみ、欲深いこと)の罪により、地獄に落ちるべきところであるが、もし汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々が悪行を成さず、善縁に趣くのであれば、汝を娑婆に戻してやろう。』といわれ、現世に生き返された運慶が彫刻したといわれている。

なお、運慶は再び生き返った喜びで、笑いながら彫刻した為、焔魔様のお顔もどことなく笑っているように見えることから、古来「笑い焔魔」とも呼ばれている。本来、仏教において、死後の世界については説かなかったが、しかし「死」という事実は仏教の出発点でもあり、死への恐怖がある限り平安な人生は送れない。仏教において死への恐怖を解決し、充実した人生を送る為に「十王」は存在します。「十王」は、亡者が冥界において出会う十人の王様のことです。

 

初七日      秦広王
十四日      初江王
二十一日    宋帝王
二十八日    五官王

と生前の罪を取り調べられる。その結果により三十五日の焔魔大王が、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の何処に生まれ変わるかを決定する。つまり我々が今人間として存円覚寺-06在しているのは、焔魔が生前の行いを判断した結果である。生まれ変わる場所が決定した後、六十七日の変成王(へんじょうおう)が場所を、四十九日の泰山王から男女の別と寿命を決定する。

初七日から四十九日迄の間は『中有』又は『中陰』といい、この間、亡者はこの世からあの世へと旅を続けるとされます。遺族は百ヵ日の平等王には貪(貪り)の心、一周忌の都市王には嗔(シン:怒り)の心、三回忌の五道転輪王には痴(愚痴)の心を慎むことを誓って法要を行うことにより、亡者の追善供養となるばかりでなく、自身の現世における功徳となる善行を積むことができ、来世の安楽へと繋がっているとされる。

今、命あるものは功徳を積むことにより、来世の安楽を信じることができ、「死」への恐怖に打ち勝ち、充実した現世を送ることができるとされている。

円應寺で絵馬を頂戴したが、残念ながら祀られている焔魔像ではなく、通常の墨書きの焔魔だった。堂内での写真撮影は禁止とされているので、本堂から離れた位置でローアングルで写真を撮ったが、フラッシュが光った為、撮影は御遠慮下さいと念を押されてしまった。頂戴した栞には焔魔像が掲載されているが、絵葉書か何かにしておいて頂ければ、無理に写真は撮らないが、何とかならないのだろうか。

円應寺の直ぐ近くに建長寺はあり、次は建長寺を拝観することにした。入場券に『天下禅林』なる言葉が印刷されている。「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味だという。西の外円覚寺-09門(北鎌倉側門)に掲げ、我が国最初の禅宗寺院で、鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語だとされる。建長寺は臨済宗建長寺派の大本山で、山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。鎌倉時代の建長五年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基は鎌倉幕府第五代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。

建長寺から道なりに下ると鶴岡八幡宮に行く着く。裏口から境内に入って驚いた。TVで大騒ぎしていた画面は見ていたが、実際に見てみると、『あな無残やな』というのが正直なところ。前回来たときには、そびえ立っていた銀杏の木が根本から折れていた。しかし、手厚い養生がされていて、折れた木から緑の枝が伸びていたし、真ん中の部分からも緑色の枝が伸びており、もしかしたら同じ木の遺伝子を持った銀杏が再びそびえ立つかもしれない。

そろそろ時間となったので、ここからホテルに行くことにして鎌倉駅から江ノ電に乗り七里ヶ浜で降り、鎌倉プリンスホテルに向かった。ホテル到着までの本日の総歩行数は、13,974歩ということであった。

4日(日曜日)は、江ノ電の極楽寺駅で下車し、駅の近くにある極楽寺に足を運んだ。極楽寺は、鎌倉では珍しい真言律宗の寺院であるとされる。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。寺円覚寺-10院の正式名称は「霊鷲山感応院極楽律寺」と称する。本尊は釈迦如来。開基は北条重時。開山は忍性(にんしょう)である。鎌倉市の西部、鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの近くにある、中世には子院49箇院を有する大寺院であったとされているが、元弘三年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火でことごとく焼失してしまったとされている。

極楽寺の境内はどういう訳か『撮影禁』になっていた。あまり広くないに境内で、その辺を踏み荒らされては困るということなのかもしれないが、『写生禁』の注意書きも見られ、よほど他に知られるのが嫌なんだとお見受けしたが、それにしても徹底している。

次に道なりで成就院(じょうじゅいん)を拝観した。成就院は真言宗京都大覚寺派の寺院で、本尊は縁結び不動明王とされている。成就院は普明山法立寺成就院と称し、平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師(空海)がこの地を訪れ、護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法を修したといわれる。承久元年(1219年)この霊跡に、鎌倉幕府第三代の執権北条泰時が京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立したという。
た。元弘三年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めの戦火で寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年-1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在に至るとされる。

円覚寺-13このお寺、どうやら紫陽花で有名らしく、紫陽花の終期にもかかわらず、拝観者は多かった。御朱印をお願いしたところ、この時期は前もって用意してある物をお渡しすることになると言われたが、それで結構ですと言うことで頂いた。一つには次に来る予定が立たないことと、紫陽花の時期をずらして来る自信が持てなかったということである。

成就院を出て、直ぐのところに「星月夜の井(ほしづきよのい)」という井戸があった。この井戸は鎌倉十井のひとつということである。そのすぐ横が星井寺(ほしいでら)。正式には、明鏡山円満院星井寺(虚空蔵菩薩)という。星井寺は天平年間、聖武天皇の時代に、行基によって創建されたと伝えられている。

星井寺に置かれていた栞によると、虚空蔵菩薩は、「日本三虚空蔵」のうちの一体で、大変貴重な仏像であります。この菩薩は虚空が全ての物を含蔵するように無量の福徳と知恵を備え、常に人々にこれを与え、全ての願い事を満足せしめて下さる仏様といわれ、そのお姿は金色で容顔麗しく、喜悦の相を成し、宝冠の上に五仏があり、左手には白蓮華を持ち、蓮華の上に如意宝珠があり、右手は五指を下げ、掌を外に向けております。我が国では古くから福徳・知恵を授けられ、求聞持の祈りに霊験があるとして、この菩薩の信仰が盛んに行われて参りました。また丑年生まれ、寅年生まれの人々の守り本尊でもあります。とされている。その他、星井寺の虚空蔵堂境内に舟守地蔵が祀られている。

円覚寺-14長谷寺に向かって歩いているうちに、古い神社に出くわした。社人の居ない無人の神社で栞等の資料は手に入らなかったが、地図上では御霊神社(ごりょうじんじゃ)となっていた。後で調べたところによると、この神社は通称(鎌倉)権五郎神社として知られているという。権五郎神社の創建年代は不明であるが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができるとされている。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。御霊神社は各地にあるが、祖先の霊を守る社と、怨霊鎮護の為に祀る神社とがあるとされる。

長谷寺はこちらという道案内に従って歩いているうちに長谷寺の駐車場の横に出た。入山時に配布された栞によると、鎌倉長谷寺。正式名称は海光山慈照院長谷寺と号します。往古より長谷観音の名で親しまれる当山は、奈良時代の天平八年(736年)開創と伝わる鎌倉でも有数の古刹である。浄土宗系統の単立寺院。本尊となる十一面観世音菩薩は、像高三丈三寸(9.18m)にも及ぶ本邦最大級の木彫仏で、東国を代表する観音霊場の象徴、鎌倉大観音と称される所以である。開山は徳道上人とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所であるとされている。

当山は、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の二つの池が配され、その周囲を円覚寺-17散策できる回遊式庭園となっている。また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈している。上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっている。また、眺望散策路の周辺には40種類以上約2500株のアジサイが群生しており、梅雨の季節には眺望はもとより「アジサイの径(こみち)」として散策も楽しんでいただけますと紹介されているが、紫陽花の花の見頃には、悲劇的な混雑を来すのではないかと思われた。

それと見晴台でかみさんとソフトクリームなどを食していたとき、眼の前でソフトクリームを食べていた女性の手から、物の見事に掻っ払って行った鳥が居たが、明らかに鳶の仕業だった。兎に角、若干時機を失していたが、紫陽花の小道を歩かせて頂いたが、膝に爆弾を抱えている当方としては、些か強行軍だった。

鎌倉の大仏の名で親しまれている「露坐の大仏」は、高徳院の本尊。国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121tとされるこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏(盧舎那仏)に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有していますと紹介されている。

高徳院の正式名称は大異山高徳院清浄泉寺で、法然上人(1133-1212年)を開祖とする浄土宗の仏教寺院である。法然上人は、善悪、男女、年齢、身分などの別なく、万人の救済を本願とされる西方極楽浄土の教主、阿弥陀如来に帰依されました。人は誰しも「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)」と称えれば、その御加護に与ることができ、臨終に際して鎌倉-02は極楽浄土に迎え入れていただける。

鎌倉大仏の造立が開始されたのは建長四年(1252年)と伝えられています。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、建武元年(1334年)及び応安二年(1369年)の大風と明応七年(1498年)の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができる。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得た祐天・養国の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています等の紹介がされている。

高徳院を出て鎌倉駅を目指して歩いているうちに光則寺の前に出た。四季の山野草という惹句に惹かれてちょいと覗いてみようかということになった。

光則寺は日蓮宗の寺院で、日蓮上人が佐渡へ流された時、高弟・日朗が捕らえられて鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の重臣・宿屋左衛門尉光則の邸内の土牢に監禁された。しかし光則は日蓮上人が自らの不運を嘆くことなく、弟子の身の上を案じる心に打たれ、次第に日蓮宗に心を寄せる様になり、日蓮上人放免後は、邸を寺として日朗を開山と仰ぎ文永十一年(1274年)に創建された。日蓮上人の著した「立正安国論」は光則の父・行時から、文永元年(1260年)に北条時頼に建白された。現在の本堂は慶安三年(1650年)に建てられた物という光則寺縁起が、山野草マップと共に山門に置かれていた。

勢いに任せて鎌倉駅まで歩く予定にしていたが、歩くのがきついんじゃないかとかみさんが心配するのでバス停を探して鎌倉駅行きのバスに乗った。というわけでもないが、4日の総歩行数は9,695歩で、一万歩には辿り着かなかったが、まあ長谷寺で山道を歩いたので、それなりに足は鍛えられたということである。それにしても嘗ては山登りもしていたのに脚力は明らかに衰えている。

  (2010.9.24.)

「レスベラトロールについて」

木曜日, 9月 1st, 2011

KW:薬名検索・レスベラトロール・resveratrol・リスベラトロール・抗酸化物質・ポリフェノール・植物エストロゲン・植物由来エストロゲン様作用物質・エストロゲン作用物質・ホルモン様物質・phytoestrogen・スチルベノイド・stilbene誘導体

Q:テレビ番組で紹介されていたレスベラトロールについて

A:TVで紹介されていたレスベラトロール(resveratrol)は、赤ワイン、レッド・グレープの皮、パープル・グレープ・ジュース、桑の実、またピーナッツに微量含まれる物質だと報告されている。その他、リスベラトロール(resveratrol)として、葡萄樹が真菌や紫外線から身を守るために産生する抗酸化物質の一つで、灰色カビ病が発生した時に感染の拡大を防ぐ物質として単離されたポリフェノール。ヒトの体内で悪玉コレステロール(LDL)を減らし、血管の炎症や血栓の形成を抑制する働きがあるとされている。また、癌細胞の成長に必要な新生血管の増殖に際して、腫瘍からの血管成長因子の放出を抑えるという報告もある。健康食品として黒葡萄葉が主に乾燥葉として市販されている。エキスを加工したものも製品化されている。

別名又は関連名:植物エストロゲン、植物由来エストロゲン様作用物質、エストロゲン作用物質、ホルモン様物質(phytoestrogen)、フィトエストロゲン、プロティキン(protykin)、レスベラトロル(resveratrols)、トランス-レスベラトロール(trans-resveratrol)、cis-resveratrol、kojo-kon。CAS登録番号: 501-36-0 。

学名:3,4′,5-stilbenetriol、3,5,4′-trihydroxystilbene、3,4′,5-trihydroxystilbene
分子式:C14H12O3、分子量228.24。

resveratrol  はスチルベノイド(stilbene誘導体)ポリフェノールの一種である。幾つかの植物でフィトアレキシンとして機能しており、また抗酸化物質として知られている。ヒトでは経口摂取した場合、代謝過程で抱合や修飾を受けるため、血漿中にresveratrolとして検出される量は非常に少ないことが報告されている。マウスなどのモデル生物・実験動物を用いた研究では、寿命延長、抗炎症、抗癌、認知症予防、放射線による障害の抑止、血糖降下などの効果が報告されている。但し、ヒトでの有効性ついては調べた文献に十分なデータが見当たらない。supplementsなどの濃縮物として摂取した場合の安全性についても調べた文献に十分な情報が見当たらない。エストロゲン様作用があるため、ホルモン感受性疾患がある場合は使用を避ける。

健常成人6名 (23-24歳、米) にresveratrol 25mgを経口摂取させたところ、血漿中濃度は摂取後1時間で最大となり、resveratrolとその代謝物の濃度は491±90 ng/mLであったが、resveratrolのみでは5 ng/mL以下であったという報告がある 。

image試験管内・動物他での評価:高カロリー食を摂取させている雄性C57BL/6NIAに0.04 %resveratrolを混餌投与したところ、インスリン感受性、運動機能を改善し、延命効果を示したという報告がある 。

危険情報:十分な情報は得られていない。通常食品の含有量以上の量が安全かどうか不明であるが、食品から摂取する量であれば、おそらく安全と思われる。supplementsなどの濃縮物から摂取した場合の安全性に関しては信頼できる十分な情報がない。・妊婦・授乳婦においても食品から摂取する場合はおそらく安全と思われる 。

禁忌対象者:エストロゲン様作用があるため、乳がん、子宮がん、卵巣がん、子宮内膜症、子宮筋腫などホルモン感受性疾患がある患者は禁忌。抗血小板作用があるため、外科手術患者は少なくとも手術日の2週間以内の摂取はしない 。

医薬品等との相互作用:・理論的には、抗血小板作用または抗凝血作用を示すハーブ類と併用すると、挫傷や出血のリスクが高まる。・理論的には、抗血小板薬または抗凝血薬と併用すると、挫傷や出血のリスクが高まる。・予備的な試験により薬物代謝酵素であるチトクローム (Cytochrome) P450 (CYP3A、CYP1A、CYP2E1) を阻害することが示されており、これらの酵素により代謝される医薬品の血中濃度を増加させる可能性がある。

安全性:エストロゲン様作用があるため、乳がん、子宮がん、卵巣がん、子宮内膜症、子宮筋腫などホルモン感受性疾患がある患者は摂取を避ける。・抗血小板作用があるため、外科手術患者は少なくとも手術日の2週間以内の摂取は避ける。

有効性:ヒトに対する有効性については、調べた文献の中に見当たらない。動脈硬化(アテローム性動脈硬化症)、高コレステロール、及び癌の予防がいわれているが、科学的なdataは不十分である。血管を拡張し、血液凝固作用に対する血小板の働きを抑制する。エストロゲン(女性ホルモンの一つ)の作用を減弱するとする研究もある。炎症を軽減するとの報告もある。

サーチュイン遺伝子(sirtuin gene)との関係:sirtuinは、抗老化遺伝子とも呼ばれており、通常、飢餓やカロリー制限によって活性化する。近年、resveratrolがsirtuin geneを活性化することもわかっている。sirtuin自体は、ヒストン脱アセチル化酵素であり、sirtuinが活性化するとヒストンが脱アセチル化されてヒストンとDNAの親和力が高まり遺伝子発現が抑制される。これと反対に、ヒストンがアセチル化されるとヒストンとDNAの親和力が低くなり、通常の遺伝子発現が活発化される。飢餓のような過酷な環境下ではDNAの活動が抑制され、DNAの安定化へと変化する。これが結果的に長寿につながる。

毒性試験

TDLo (最小中毒量)
・マウス経口投与200 mg/kg (炎症)
・マウス経口投与(間欠的)140mg/kg/28日間、70 mg/kg/5週間、112 mg/kg/4週間、364 mg/kg/26週間 (死亡)
・マウス経口投与 1,176 mg/kg /28週間 (尿組成)
・ラット経口投与 15 mg/kg/15日、12 mg/kg./20日、45 mg/kg/30日 (血清組成、脂質代謝)
・ラット経口投与 560 mg/kg/8週間 (肝臓)
・ラット経口投与 1,120 mg/kg/8週間 (血圧)

1)田中平三・他監訳:健康食品のすべて-ナチュラルメディシン・データベース-;同文書院,2006
2)林 輝明・他監修:2008改訂新版 健康・栄養食品事典-機能性食品・特定保健用食品-;東洋医学舎,2008

           

  [011.1.RES:2011.6.30.古泉秀夫]