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『四柱神社』

火曜日, 8月 2nd, 2011

            鬼城竜生 

2010年10月26日(火曜日)仕事で再度信州大学を尋ねた。その帰り、前回時間がなくて覗けなかった松本城の中を見てみようということで、松本城に行った。前回来たときは、城の前松本城-01から写真を写しただけで戻ってしまったので、中に入るのは今回が初めてである。

松本城は、長野県松本市にある城である。天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は『深志城』。市民からは別名『烏城』とも呼ばれていると紹介されている。国内に12基現存している安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つである。天守群は国宝に指定されている。

城伝によれば『戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中といわれた井川に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原の役の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総古河松本城-02へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の役以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。』としている。

明治時代になって、旧物破壊思想の元に、松本城天守も、売却・破壊の運命に曝された。天守が競売されたのを憂えた市川量造らの努力により、幾多の困難を克服して天守を買い戻し、保存に貢献した。しかし、その後、荒廃が進むばかりであったが、この凋落の風景を憂えたのが松本中学校校長小林有也らは明治三十四年(1901)天守保存会を設立して、十一年間掛けて明治の大修理を終え、天守を倒壊の危機から救ったとされている。

武士階級によって長きに亘って抑圧されてきた大衆にすれば、抑圧の象徴である城などという物はぶっ壊すことになんの思いもなかったと思われるが、それでも残松本城-03aせという声を上げることが出来た人達がいたということは、松本城は運がいいということである。更にその保存が悪く、壊れかけていた物を修理しようという音頭取りが出たということは、松本松本城-02a城に付きがあったということである。更に現在、松本城は国宝であり、松本の観光資源として重要な役割を果たしている。松本城と堀の示す佇まいは美しいの一言に尽きる。

松本城から駅を目指して歩いていると左側に曰くありげな横町があり、何気なく足を運ぶと神社らしい雰囲気のある場所に出た。中に入ると四柱神社(よはしらじんじゃ)の境内に足を踏み入れた。
社伝によると四柱神社の御祭神は天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]は、天の中央に坐す主の神として産霊神の御働きを統一する神)、高皇産霊神[たかみむすびのかみ]・神皇産霊神[かみむすびのかみ]の両神は、宇宙創造の根元の神様で御神名の「むすびの神」は実をむすぶ、苔がむす等と同様に生産し、果実し、調和させる力を示す。つまり造化の三神ともいえるこの神々の力によって、天地万物が生成されたと言われている。天照大神は、この造化の三神の御神意を地上に顕現される神で伊勢の神宮、宮中賢所にも奉斎される最高至貴の大祖神である。高い御神徳の神様を主祭神としてお祀りする神社は、全国でも珍しく、四柱神社は、全ての松本城-04a願いが相叶うという意味で「願いごとむすびの神」として全国各地より御崇敬を頂いていると紹介されている。

明治天皇御親政に当り、惟神の大道を中外に宣布し給う思召しを以て、明治7年2月筑摩県庁の所在地である松本に神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に四柱の大神が奉斎されてきましたが、新たに一社を興し、 四柱神社として明治12年10月1日、現在地に鎮斎され、 隣接して神道事務分局も新築された。翌13年6月、当地方に初めて行幸があり新築新装になったばかりの神道事務分局を行在所に定められ、同月24日松本に陛下をお迎えした。

松本城-03この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治21年1月4日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されて来たが、大正13年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建されました。ちなみに、前述の縁由によって、当社は「しんとう」(神道)の呼び名で広く親しまれている。加えて当神社例祭も“神道祭”と呼ばれ、松本平を代表する盛大な秋祭として斎行されているとの紹介がされている[四柱神社御由緒書きより]。  

社務所に寄り御朱印を頂戴したが、残念ながら仕事の帰りということで御朱印帳を持参していなかった。そこで御朱印帳があれば、戴きたいと申し上げたが、生憎今はないということで、一瞬どうしようかと迷っていたところ、書いた物でよろしければありますがということで、それを頂戴することにした。もう少し近いところであれば、再度来るときにという考えもあるが、残念ながら遠すぎる。次ぎに来る可能性も直ぐには予測できないので、やむを得ず書いた物を戴いて帰ることにした。

本日の総歩行数は、8,747歩と1万歩は超えなかったが、仕事できた訳で、連れもあり無闇に歩く訳にはいかなかったので、まあ持って瞑すべしということである。

     (2011.5.13.)