「烏森神社・日比谷神社」
土曜日, 7月 2nd, 2011鬼城竜生
新橋といえば専ら会社の帰りに寄る飲み屋のある街という程度の付き合いであった。更に新橋駅の降り口は専ら烏森口で、烏森口の駅名の由来が新橋にある烏森神社によるものだとは承知していたが、神社そのものは参道に並ぶ飲み屋に行ったときに、遠くから見ただけで、社殿まで上がったことはなかった。
つい最近できたホルモン焼きの店で、烏の漫画を書いた絵馬が飾ってあったので、何処の絵馬か尋ねたところ、お客さんが貰ってきてくれた烏森神社の絵馬ですよとのことであった。内心面白い絵馬だなと思いながら、近いうちに行ってみるか。少なくとも絵馬が売っているということであれば、神主はいるということで、神主がいれば御朱印は書いて戴けるということだろうと考えた次第。
6月24日(木曜日)新橋駅で降りて烏森口にでて、烏森通りをしばらく行くと、右側に茅の輪が見え、その奥に神社の鳥居と社殿が見えた。茅の輪は、夏越しの大祓に使われるもので、正月から6月までの半年間の罪穢を祓う(6月30日午後6時執行)ためのもので、それを潜ることによって、疫病や罪穢が祓われるいわれている。
烏森神社の御祭神は、栞の紹介によると倉稲魂命(うがのみたまのみこと)・天鈿女命(あめのうづめのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)の三神であるとされる。烏森神社は平安時代の天慶三年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、百足退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐が現れ白羽の矢を与えた。その矢を持って速やかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが烏森稲荷の起こりである。
烏森の地名は、古くこのあたりが武蔵野国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は森林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」といわれていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりであるとされている。
ところで烏森神社の鳥居の形は面白い形をしている。鳥居だといわれれば、間違いなく鳥居であるが、もし別の場所にあって、神社の社殿がなければ、相当首をひねる建造物になるのではないかと思われる。近代的な鳥居として、それなりに建造した側の理屈はあるのだろうが、特段の説明は見当たらなかった。
烏森神社の例祭日は、江戸時代までは稲荷信仰に従って、二月初午の日が例祭日とされていたが、明治以降は例祭日を端午の節句五月四・五・六に改め、夏祭りの走り烏森祭りとして全国的に有名であるとされている。但し、烏森神社の大御輿は二年に一度、五月五日の例大祭で、新橋駅前を宮出しされるという。
新橋駅烏森口から出て直ぐの所にある信号の位置から左手側を見ると、新環状二号線の向こう側にある日比谷神社の社殿の屋根が見える。この神社の大祭は、烏森神社と交互に隔年で行われるという。
日比谷神社(鯖稲荷)の栞によると、御祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)で、その他、祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)として、瀬織津比賣大神(せおりつひめのおおかみ)・速開都比賣大神(はやあきつひめのおおかみ)・気吹戸主大神(いぶきどぬしのおおかみ)・速佐須良比賣大神( はやさすらひめのおおかみ)の神々が祀られている。
豊受大神は伊勢神宮の御饌の神として伊勢神宮外宮に祀られる神さまで、五穀の主宰神として、稲荷神と並ぶ農業神であるといわれる。日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅泊(さば)稲荷明神と呼ばれていた。慶長 十一年(1606年)、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となったが、町名は従来のまま、日比谷となっていたとされる。
寛永七年(1630年)、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになったが、神社の社号は変えることなく現在に到っているという。芝口の地に御鎮座して四百有余年となる古社であるが、明治五年(1872年)に村社に列せられ、その後、関東大震災(大正十二年)の後、昭和三年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋四丁目に日比谷神社の御社殿が造営された。
以降、新橋の鎮守として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建されたという。平成二十一年、都市道路計画(環状2号線)により、御社殿は東新橋二丁目に建造されたという。日比谷神社の大祭は烏森神社と交互に隔年で行われる。
日比谷神社が「鯖稲荷」と呼ばれた理由については、次の説明がされている。
当社が日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験が殊更に著しくあらわれ、旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えました。新橋に遷った後に魚の鯖に変わるようになり、鯖稲荷と称してまいりました。特に昔、虫歯虫封じに苦しむ人が御祈祷をうけると霊験があるとされ、鯖を食べることを断ち祈誓をかけると治ったそうです。それ以降、治った人々は鯖を奉納するといわれてきました。
当日の総歩行数は、9,463歩で目標の一万歩には若干足りなかった。
(2010.8.29.)