Archive for 7月 2nd, 2011

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「何をお考えだったのか」

土曜日, 7月 2nd, 2011

   魍魎亭主人  

 

肺癌治療薬「イレッサ」を巡る訴訟で、東京、大阪両地裁の和解勧告に懸念を示す声明を出すよう、厚生労働省幹部らが関係学会に要請したとされる問題で、厚労省は24日「不当な働きかけだった」として、医薬食品局の間杉純局長、平山佳伸審議官らを訓告、担当課長ら職員数人を厳重注意処分とすることを決めた。両地裁は今年1月、国に和解金の支払いを求める内容の和解を勧告。同省は当時、勧告拒否の方針を固めていたが、その方針の後押しを求める意味で7学会に協力要請し、日本医学会など3学会には声明文の下書きも提供。同24日に複数の学会が勧告内容に懸念を示す声明を発表し、国は両地裁への回答期限だった同28日、勧告を正式に拒否した。その後、大阪地裁では国が勝訴、東京地裁では国が敗訴する判決が言い渡された[読売新聞,第48588号,2011.5.24.]。

普段、各種医学会には、相当の資金的な援助?をしているから、頼めば内緒で何でも対応してくれるとでも思っていたのであろうか。それとも各種医学会のお偉方は、厚生労働省の各種委員会等の委員を委嘱しており、厚生労働省の依頼に逆らえないとでも思ったのだろうか。

それにしても子供染みたことをしたものである。少なくとも今から20年位前の役人ならこんな御粗末な対応は取らなかったのではないか。裁判所の判断に異論があるなら自分たちの判断を示せばいいわけで、他人の褌で相撲を取ろうなどという、せこい考えは止めた方がいい。

今回の判決で最も問題なのは『重大な副作用』欄に記載された副作用の順位に判断の基準を置いたことではないか。『重大な副作用』欄に引き上げられた副作用は、それだけで患者の治療にとって重要な情報で、順位はあまり関係ないはずである。死亡例の出るような副作用であれば、勿論、上位に掲載されるであろうが、死亡例の多寡で副作用の順位の変更が見られるなどという性質のものではないはずである。

『重大な副作用』欄に記載されているということは、それだけ治療時に十分注意して薬の投与を行えということで、医療関係者であれば、十分承知しているはずである。ただ、必ずしも発生頻度が明確なものばかりではない。時には極めて稀な副作用も含まれており、その意味では、時にないがしろにされることもあるが、概ねその重要性は認識されているはずである。ただ、添付文書に対する基本的な視点ということから言えば、医師と薬剤師では相当の相違があり、薬剤師は添付文書の記載内容を順守するという気風があるが、医師はさほどではない。

添付文書の記載内容に対するcompliance(順守)という点からいえば、その記載内容に問題があるというのが医師の考え方である。添付文書に記載されている情報の精度に対する不満を医師が持っている限り、裁判所が考えるほど添付文書に情報源としての価値はない。従って厚生労働省がやるべきことは、添付文書の情報源としての価値を高めるための努力である。

裁判所の和解勧告に懸念を示す声明を出すよう、関係学会に文案を提供し、要請することではないはずである。厚生労働省も「文案提供は行き過ぎだった」として、医薬品食品局の間杉純局長や実際に文案を提供した平山佳伸審議官ら計4人を訓告処分にした。次官や担当課長ら4人については、監督責任を理由に厳重注意処分とした。

大体役所が他人の褌で相撲を取ろうという魂胆がせこい。厚生労働省は「声明の要請自体は、多様な意見があることを示すためで問題はなかった」[読売新聞,第48589号,2011.5.25.]としているそうであるが、多様な意見があるならほっといても声は出るはずで、役所が要請することではない。自ら正しいと信じるなら自らの声で語るべきで、他人の声など当てにする必要はないはずである。

        (2011.5.15.)   

「炉心溶融」

土曜日, 7月 2nd, 2011

        魍魎亭主人 

 

東京電力福島第一原子力発電所の復旧作業の見通しが大きく崩れそうである。今迄、炉心溶融(メルトダウン)はないと発表していたが、どうやらそれは大嘘のこんこんちきということになってしまったようである。

東京電力福島第一原子力発電所の着工日は1967年9月と報告されている。

一方、 原子炉の炉心溶融事故が実際に発生した最初の事例とされるエンリコ・フェルミ高速増殖炉(Enrico Fermi Fast Breeder Reactor)は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト郊外にあるとされるが、そのエンリコ・フェルミ原子力発電所(Enrico Fermi Nuclear Generating Station)内にあった高速増殖炉試験炉で、1966年10月5日に炉心溶融が起きたとされている。事故の原因は炉内の流路に張り付けた耐熱板が剥がれて冷却材の流路を閉塞したためであるという。また蒸気発生器では、伝熱管破損及び溶接不良によるトラブルが発生したとされる。原子力発電所ではないが、メルトダウンを起こした最初の事例だという。この場所では今も除染が継続されており、多くの住民の被害と膨大な経費とが垂れ流しになっている。これを何の参考にもしなかったのか。

またスリーマイル島原子力発電所事故は、1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で発生した原子力事故である。スリーマイル島 (Three Mile Island) の頭文字をとってTMI事故とも略称される。原子炉冷却材喪失事故 (Loss Of Coolant Accident, LOCA) に分類され、想定された事故の規模を上回る過酷事故 (Severe Accident) である。国際原子力事象評価尺度 (INES) においてレベル5の事例であると報告されている。これを参考にして、強度を補強する工事はしなかったのか。

1986年4月26日には、ソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で事故が発生しており、チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力に関する事故の話は有名である。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において、最悪のレベル7(深刻な事故)の参考事例として知られている。

事故の発生事例は件数としては多くはないが、事故が発生すると始末に負えなくなることは、全ての事例で十分証明されている。その事故を前例として、何故国内の原発は、より強固な対応をしてこなかったのだろうか。

津波についていえば、869年に発生した貞観地震(じょうがんじしん)のときには、内陸部まで津波が押し寄せたといわれている。更に約2000年前の弥生時代にも仙台平野を津波が襲っており、今回の東日本大震災の巨大津波と同程度まで内陸に浸水していた可能性が高いことが解ったとされる。貞観津波とほぼ同じ浸水範囲を示したと思われ、仙台平野ではほぼ1000年周期で東日本大震災と同規模の巨大津波が襲来していた可能性がある[読売新聞,第48580号,2011.5.16.]とする報告も見られる。

我々は原始時代に『火』を手に入れた。『火』を手に入れたことによって近代的な歴史の道筋を歩んできたともいえる。しかし未だにその『火』を完全に制御出来ずにいる。それが証拠に例年数多くの火事を出し、焼死者を出している。その体たらくを見れば、原始の火を制御するなどということは、人にとってある意味、幻想に近いといえるのではないか。温和しく制御されているように見えるが、それは表面上のことで僅かな齟齬で重大事件に発展する。

原子力発電所の建設に際して万全の体制を取ってきたといえるのか。あらゆる過去の災害の歴史に学び、それに対応する施設、設備を整備したといえるのか。少なくとも過去にマグニチュード8.3以上の地震が来ているとすれば、それに上乗せした地震に対応するだけの施設になっていたのか。しかも最も重要な設備である電源は、何故、複数用意されていなかったのか。

最悪を予測してなおそれでも安全だという施設・設備を整備するとすれば、膨大な設備投資をすることが求められる。適当なところで判断する。それをしなければどれほどの設備投資をすればいいのか解らないなどということを述べた斯界の権威が居たそうだが、東電の役員報酬50%カットでも3,600万円とする報道がされていた[読売新聞,第48578号,2011.5.14.]が、これほどの手当が払えるほど稼ぎがいいなら、設備投資の金なぞ幾らでも掛けられるはずである。また、原発事故によって、これから東電が放出する金額を考えれば、設備投資に使用する金額なぞは極僅かな金額だったはずである。いずれにしろ予測性の欠如、お粗末な想像力の結果だといえる。

所で西村武夫参議院議長の寄稿文[読売新聞,第48583号,2011.5.19.]で、菅総理の退任要求に対して『急流で馬を乗り換えるな』という心理が働くという惹句を引用していたが、急流を乗り越えることの出来ない馬に乗っているなら馬を代えて渡り直さなければならないし、そのような馬を選んだ乗り手も代えなければならない。如何に激変のさなかとはいえ、乱世に対応できない首長は、何時まで待っても対応できるように成長することはあり得ない。

    (2011.5.20.)   

「烏森神社・日比谷神社」

土曜日, 7月 2nd, 2011

           鬼城竜生  

新橋といえば専ら会社の帰りに寄る飲み屋のある街という程度の付き合いであった。更に新橋駅の降り口は専ら烏森口で、烏森口の駅名の由来が新橋にある烏森神社によるものだとは承烏森神社-01知していたが、神社そのものは参道に並ぶ飲み屋に行ったときに、遠くから見ただけで、社殿まで上がったことはなかった。

つい最近できたホルモン焼きの店で、烏の漫画を書いた絵馬が飾ってあったので、何処の絵馬か尋ねたところ、お客さんが貰ってきてくれた烏森神社の絵馬ですよとのことであった。内心面白い絵馬だなと思いながら、近いうちに行ってみるか。少なくとも絵馬が売っているということであれば、神主はいるということで、神主がいれば御朱印は書いて戴けるということだろうと考えた次第。

6月24日(木曜日)新橋駅で降りて烏森口にでて、烏森通りをしばらく行くと、右側に茅の輪が見え、その奥に神社の鳥居と社殿が見えた。茅の輪は、夏越しの大祓に使われるもので、正月から6月までの半年間の罪穢を祓う(6月30日午後6時執行)ためのもので、それを潜ることによって、疫病や罪穢が祓われるいわれている。

烏森神烏森神社-02社の御祭神は、栞の紹介によると倉稲魂烏森神社-03命(うがのみたまのみこと)・天鈿女命(あめのうづめのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)の三神であるとされる。烏森神社は平安時代の天慶三年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、百足退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐が現れ白羽の矢を与えた。その矢を持って速やかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが烏森稲荷の起こりである。

烏森の地名は、古くこのあたりが武蔵野国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は森林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」といわれていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりであるとされている。

ところで烏森神社の鳥居の形は面白い形をしている。鳥居だといわれれば、間違いなく鳥居であるが、もし別の場所にあって、神社の社殿がなければ、相当首をひねる建造物になるのではないかと思われ烏森神社-04る。近代的な鳥居として、それなりに建烏森神社-06造した側の理屈はあるのだろうが、特段の説明は見当たらなかった。

烏森神社の例祭日は、江戸時代までは稲荷信仰に従って、二月初午の日が例祭日とされていたが、明治以降は例祭日を端午の節句五月四・五・六に改め、夏祭りの走り烏森祭りとして全国的に有名であるとされている。但し、烏森神社の大御輿は二年に一度、五月五日の例大祭で、新橋駅前を宮出しされるという。

新橋駅烏森口から出て直ぐの所にある信号の位置から左手側を見ると、新環状二号線の向こう側にある日比谷神社の社殿の屋根が見える。この神社の大祭は、烏森神社と交互に隔年で行われるという。

日比谷神社(鯖稲荷)の栞によると、御祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)で、その他、祓戸四柱大神(はらいどのよつばしらのおおかみ)として、瀬織津比賣大神(せおりつひめのおおかみ)・速開都比賣大神(はやあきつひめのおおかみ)・気吹戸主大神(いぶきどぬしのおおかみ)・速佐須良比賣大神( はやさすらひめのおおかみ)の神々が祀られている。

豊受大神は伊勢神宮の御饌の神として伊勢神宮外宮に祀られる神さまで、五穀の主宰神として、稲荷神と並ぶ農業神で烏森神社-07あるといわれる。日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅泊(さば)稲荷明神と呼ばれていた。慶長 十一年(1606年)、烏森神社-08江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となったが、町名は従来のまま、日比谷となっていたとされる。

寛永七年(1630年)、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになったが、神社の社号は変えることなく現在に到っているという。芝口の地に御鎮座して四百有余年となる古社であるが、明治五年(1872年)に村社に列せられ、その後、関東大震災(大正十二年)の後、昭和三年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地されて、現在の新橋四丁目に日比谷神社の御社殿が造営された。

以降、新橋の鎮守として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建されたという。平成二十一年、都市道路計画(環状2号線)により、御社殿は東新橋二丁目に建造されたという。日比谷神社の大祭は烏森神社と交互に隔年で行われる。

日比谷神社が「鯖稲荷」と呼ばれた理由については、次の説明がされている。

当社が日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験が殊更に著しくあらわれ、旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えました。新橋に遷った後に魚の鯖に変わるようになり、鯖稲荷と称してまいりました。特に昔、虫歯虫封じに苦しむ人が御祈祷をうけると霊験があるとされ、鯖を食べることを断ち祈誓をかけると治ったそうです。それ以降、治った人々は鯖を奉納するといわれてきました。

当日の総歩行数は、9,463歩で目標の一万歩には若干足りなかった。

     (2010.8.29.)