鬼城竜生
5月15日(土曜日)・16日(日曜日)の両日、かみさんの両親の御参りに行くため京都に出かけた。品川から電車に乗って昼ちょいと過ぎたあたりに京都に着いた。早速、タクシーに乗って大谷祖廟に向かった。運転手の話では、今日は道が混んでいるからというので、何時もとは違う道を走っていたが、最終的には何時もと同じところに、同じ方向から車が入って停まったところを見ると、途中は見慣れない道を走っていたようだが、最終的には同じ道を走っていたものと思われた。
残念ながら大谷御廟は改修中で、何時もの偉容を眼にすることができなかったが、両親の御骨を預けてあることに変わりはないので、線香をともすと共に手を合わせた。
大谷祖廟の裏門から出て、何時もは八坂神社に抜けていたが、今回は、円山公園を突っ切って知恩院に向かった。知恩院については、お寺で配布している三つ折りによると、浄土宗の総本山で、鎌倉時代に法然上人が住まわれ、念仏の教えが説かれたところです。徳川家康、秀忠、家光公によって現在の寺域が形づくられました。全国に七千の寺院と六百万人の檀信徒を擁する浄土真宗の総本山とされている。
浄土宗は1175年に法然上人によって開かれたとされる。法然上人は1133年現在の岡山県久米郡に生まれたという。『恨み、報復のない、全ての人が救われる仏の道を求めよ』という父の遺言に従い、15歳の時に比叡山に登り、仏道修行に励み、阿弥陀仏の御本願を見出したという。それは『南無阿弥陀仏』と唱えることによって、全ての人が救われる専修念仏の道でしたと紹介されている。法然上人は1212年80歳で亡くなられたということである。
知恩院といえば先ず知られているのは“三門”(国宝)ではなかろうか。高さ24m幅50m、木造の門としては世界最大級の門だとされる。徳川秀忠公の寄進によって建造されたという。楼上にはお釈迦様や羅漢様がお祀りされているという。『華頂山』という山号額が掲げられている。法然上人の御影を祀る知恩院の本堂は、御影堂と呼ばれているようであるが、寛永十六年(1639)に徳川家光公の寄進によって建造された物で、堂内は四千人が入れる程広く、大扉の釘隠しの意匠なども趣向が凝らされているとされる。御影堂も国宝である。その他色々な建物があるが“権現堂”なるものがある。正式には権現様御影堂と称するとする説明板が出ていた。知恩院と浄土門のために外護者となって、現在の輪奐(りんかん)の美の基礎を築いた徳川家康、秀忠、家光三代の霊を祀る廟宇である。度重なる火災によって焼失、現在の建物は昭和四十九年浄土開宗八百年を記念して再建されたものであり、お茶室は葵庵と名付けられ庭園と独自の美しさを現している。
その他、知恩院には七不思議なるものがある。鶯張りの廊下(非公開)、白木の棺(非公開)、忘れ傘、抜け雀(非公開)、三方正面向きの猫(非公開)、瓜生石、大杓子(非公開)であるが、殆どが非公開である。中で公開されている“左甚五郎が魔除けに置いた傘”は、昨年来た時に見ることができなかったので、諦めていたが、かみさんが気が付いて初めて、ありどころに気が付いた。
方丈庭園と山亭庭園とは見学することができるが、特に山亭庭園は高い位置にあり、京都市内を俯瞰することができた。その他、友禅苑が見学可能であるが、これは宮崎友禅翁(友禅染の始祖)ゆかりの庭園で、湧水を配した庭と、枯山水の庭で構成されている。
嬰児の掌のごと青葉萌ゆ
嬰児の手の平のごと青黄葉
次ぎに知恩院の左隣に位置する青蓮院門跡を訪ねた。入場券の裏に書かれている説明によると『青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)は、天台宗の門跡寺で、代々入道親王か摂関家の子弟が継承し、天台座主となった。法然を庇護した親鸞の師であった慈圓(慈鎮和尚)(藤原忠通の子1155-1225)や、御家流の書道を大成された尊圓親王(伏見天皇の皇子1298-1356)、維新史上著明な青蓮院宮尊融親王即ち後の久邇宮朝彦親王(伏見宮国家親王王子1824-1891)は当院の門主である。後櫻町上皇は天明の皇居炎上後仮仙洞として当院を御使用になり、庭中の好文亭は御学問所となった。明治元年10月明治天皇の初めての江戸行幸の時には京都御所御出発後最初の御小休所が当院で、宸殿に玉座が設けられた。その後の変革期に宸殿大玄関附近は京都府立療病院・医学校に当てられ明治13年まで続いた。尊融親王が各方面の志士と応接され、御住居であった叢華殿、上記好文亭、住吉派の障壁画、室町江戸の庭園、内裏より移された江戸初期の四脚門、幾度かの災害を経ながら旧態を伝えようとしている建築群等を門跡寺として特殊な寺院の在り方を念頭に置いて御覧戴きたい』
その他、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡の一つに数えられている。青蓮院門跡は、古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院とされている。日本における天台宗の祖最澄(伝教大師)が、比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作ったが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われている。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。
平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に、鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第一世の門主です。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていましたとされている。
青紅葉木洩れ日揺るる古都の道
目に染みる木洩れ日瞬く古都青葉
その後、青蓮院門跡の近くにある湯豆腐屋で、予約無しで大丈夫だということだったので、遅い昼飯を湯豆腐料理で済ませた。ホテルに入るまでにはまだ時間があったので、どうしても撮りたい写真があるということで、『八坂の塔』を目指すことにした。産寧坂を二年坂に曲がらず、直進すると東山のシンボルとなっている『八坂の塔』(法観寺)があるとの案内に従って探したが、暫くウロウロさせられた。最もそのウロウロのお陰で、“ねねの道”沿いにある春光院の茉莉支天の写真を撮ることができたので儲けたような気になっている。それというのも御徒町の駅から見えるところにある茉莉支天に御参りに行き、そこでは茉莉支天像を見ることはできなかったが、他で見た茉莉支天像が気に入って、それからは茉莉支天像を写真に撮りたいと気に掛けるようになっていた。
ところで本題の『八坂の塔』であるが、京都の代表的な絵柄として有名な写真がなんぼでもあるが、自分では撮したことか無かった。それで物真似と言われようと何といわれようと同じ角度での写真が撮りたかったのである。何時も京都駅から大谷祖廟にタクシーで行く時に前を通るから大谷祖廟からも近いのだろうと思っていたが、場所的な見当は付けられなかった。しかし、塔を見ながら歩いているうちに法観寺(ほうかんじ)の前に出た。時間が4時30分を過ぎていたので、門は閉じられていたが、拝観と御朱印は次の楽しみと言うことで、塔の写真だけ撮らせて戴いた。
法観寺は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院である。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺の陸標となっている。塀の隙間から見た限り境内は狭そうで、塔以外に目だった建築物がある訳ではないようである。
伝承によれば、法観寺の五重塔は、592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。
治承3年(1179年)に火災で焼失したが、源頼朝により再建された。その後も幾度か焼失したがその都度再建されている。現在の塔は室町時代に足利義教により再建されたものである。 その間、仁治元年(1240 年)に、臨済宗建仁寺派に属する禅寺となる。更に暦応元年(1338 年)より夢窓疎石の勧めにより足利尊氏が全国に安国寺、利生塔を建てたが、都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した。
戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。
塔を撮しているうちに『八坂庚申堂』なるものが眼に付き、入ってみることにした。大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存しない)と並ぶ日本三庚申の一つで、八坂庚申堂と言うとされる。腰痛や神経痛にご利益のある神様で、「庚申さん」の名で親しまれているようである。正しくは金剛寺といい、本尊は青面金剛童子。飛鳥時代に秦河勝が秦氏の守り本尊として招来したものとされる。平安時代の中頃、加持祈祷により病を治す僧の浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、 庶民の人にもお参りできるように、この八坂の地に庚申堂を建立したのが始まりで、現在のお堂は延宝6年(1679)に再建された建物であると説明されている。
帰りは本通りまで出ては見たが、道が解らなくなってタクシーに乗って本日の宿泊地“京都ホテルオークラ”に向かった。ホテルオークラのシャワーは別室になっており、安心して使用出来たが、この様な形式のホテルには初めて泊まった。客が気を使わないでシャワーを使えるというのは最大のサービスの一つである。ホテル内の食堂で、日本酒を飲みながら飯を食ったが、散々歩き回った後なので、京都の酒も旨かった。総歩行数11,736歩。思ったほどには歩いていなかった。
ホテル大蔵から見下ろすと、頂妙寺の前を通って真っ直ぐ行くと、平安神宮に辿り着き、平安神宮前を右に行くと南禅寺に辿り着く。そこから哲学の道を通って銀閣寺に行く行程が地図に載っていたので、その行程を考え、5月16日(日曜日)は早めにホテルを出ることにした。
御池大橋で鴨川を渡り、対岸の駐車場の前を通って頂妙寺の境内に入りお参りをした後、仁王門を出て仁王門通りを直進した。碁盤模様のような町筋、しかも無闇にお寺の多い通りを歩いているうちに左手に西寺町通なる道が見える位置で、四、五軒寺院が並ぶ中、一軒のお寺が気になり、二条通に抜けがてら門前で中を覗いた。偶然、覗いたお寺の名前は大蓮寺で、入り口に面白いポスターが貼ってあった。大蓮寺は洛陽三十三所観音巡礼の第八番札所“走り坊さん”の寺、足腰健常のお守を出すお寺と案内されていた。
大蓮寺の正式な名称は引接山(いんじょうざん)、極楽院大蓮寺といい、慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦の年とされている。大蓮寺の開山は深誉上人。宗派は浄土宗で宗祖は法然上人とされている。
大蓮寺は歴史のある古刹で、安置されている薬師如来は、廃仏毀釈前は祇園社感?院(八坂神社)の中にあった観慶寺(祇園寺)という御堂があり、そこに安置されていたものだという。本尊の阿弥陀如来は、慈覚大師の作といわれるもので、比叡山から京都へ下り、女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたいとのお告げを慈覚大師に夢の中で告げたとされている。それ故「安産の寺」とされており、歩いてお寺に来ることのできない妊婦に御守りを届けに走ったのが「走り坊さん」の謂われであるとされる。しかし、流石に京都の神社仏閣は面白い、妙なところに目立たないが、面白い謂われのあるお寺が隠れている。
引用した「走り坊さん」の説明と絵は、絵馬を入れて呉れた袋に印刷したものを引用させていただいた。
平安神宮は、ただでかいのに驚かされた。平安神宮の由緒によれば、御祭神は第五十代 桓武天皇(千載の都平安京をお造りになりました)、第百二十一代 孝明天皇(かがやく明治維新の基を開かれました)で、明治二十八年は平安京が定められて千百年に当たり、京都市民はこの記念すべき年に桓武天皇の御偉徳を称え、京都の祖神としてお祀りしようと平安京の正庁・朝堂院の様式を模して、同年三月十五日平安神宮を創建いたしました。また、皇紀二千六百年に当たる昭和十五年十月十九日、近代日本の基礎を造られた、孝明天皇が合祀されました。ここにおいて平安京創始の桓武天皇と最後の孝明天皇をお祀りし、“日本文化の祖?様”として、市民はもとより広く国民に崇敬されるようになったのです(折り込み用紙)。
創建当時の平安神宮は、東西約119m、南北約155mの内郭を土塁が囲み、その南正面に朱丹(しゅぬり)の応天門、郭内後半の龍尾壇上に蒼龍・白虎の両楼を従えた大極殿だけでした。その後、大極殿の後方に本殿が置かれ、東西に神饌所、南北には校倉造りの神庫が配置。柱は朱で塗られ、屋根は碧瓦(へきがわら)で葺かれているという平安京当時の華麗な姿を今に伝えています。京都には平安時代の建造物が残っていなかったため、その当時の建築様式を踏襲・再現した平安神宮は貴重な存在となりました。
応天門をくぐって本殿にお参りしたが、不思議なことに神社につきものの狛犬がどこにも見当たらず、蒼龍、白虎が置かれていた。
御庭が拝観できるということで、入ることにした。南神苑(平安の苑)→西神苑(花菖蒲)→中神苑(カキツバタ・睡蓮)→東神苑(泰平閣 橋殿)の順番で見ることができる。中でも平安の苑は、色々な植物が植えられており、時期がよければ多様な花が見えたのではないかと思われた。
京都動物園の塀際の道を進み、琵琶湖疎水記念館の前を進むと、やがて南禅寺の入る道に行き当たる。
南禅寺は、南禅寺参拝の栞によると、瑞龍山太平興国南禅禅寺というのが正式な名称であると紹介されている。南禅寺は禅宗の臨済宗南禅寺派の大本山である。凡そ七百四十年前の文永元年(1264年)亀山天皇は山水明媚の当地を愛されて離宮禅林寺殿を営まれた。天皇はその後南禅寺の開山仏心大明黒師に深く帰依されて法皇となられ、正応四年(1291年)離宮を施拾して禅寺とされた。開山は大明国師、開基を亀山法皇、また諸堂伽藍を完成した二世南院国師を創建開山と仰いでいる。
歴史上の特色は京都「五山之上」に列せられたこと、当時最も傑出した禅僧が歴代住持として住山したこと、その結果、五山文学の中心地として栄えたことなどである。創建当時の伽藍は、室町時代明徳四年、文安四年、応仁元年の三回火災に遭い、今は一宇も現存しない。現在のものは桃山時代以降の再興であるとされている。
南禅寺の三門は上ることができる。歌舞伎の「楼門五三桐」の中で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名調子を吐くのが、この「南禅寺山門」であるとされているが、実際の三門は五右衛門の死後三十年以上経った寛永五年(1628年)の建築であるという。膝の調子が悪く、階段を上がるのは無理かとも思ったが、滅多にない機会である、無理をしても上がろうということになった。五間三戸(正面柱間が五間で、うち中央三間が出入口)の二重門(二階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであるとされる。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などが安置されているというが、確認できたわけではない。天井画の天人と鳳凰の図は、狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられているという。
三門や皐月緑を見下ろして
大方丈と小方丈がある。大方丈は前庭に面したこけら葺きの建物で、天正年間豊臣秀吉が建造寄進した御所の清涼殿を、慶長十六年(1611年)後陽成天皇より拝領移建したものものであるといわれる。日本建築(寝殿造)の最も美しさを持った構築が見られ、国宝に指定されているとする紹介がされている。方丈前の枯山水庭園は小堀遠州作といわれ、「虎の子渡しの庭」の通称があるとされる。
南禅寺枯山水の五月晴れ
南禅寺の境内内に水路閣(すいろかく)というものがあり、明治時代から琵琶湖の水を京都に送り続けてきた水路であるといわれている。テレビのサスペンス劇場等で映し出されることがあるようであるが、これはかみさんから聞くのまでは知らなかった。相当に有名な施設のようであるが、赤煉瓦造りでそれなりに雰囲気のあるものではあった。
南禅寺を裏側に抜けると最勝院という古刹に出くわした。南禅寺の境内の一角に位置し、疎水沿いの山手にあるお寺である。最勝院の境内には、百日紅と松が合体した「縁結びの松」といわれるものが生えている。境内を抜け、山道を登ると駒ケ滝があるとされるが、登る自信がないので止めておいた。最勝院の住職は般若の面を打つことで知られているようである。
地図上では南禅寺から哲学の道南起点迄は差ほどの距離ではなく、また起点から銀閣寺まで30分ということで、歩くことは可能だと判断した。起点に辿り着く前に、小さな蕎麦屋があったので、遅い昼飯を食った。
哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区にある小道である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸に植えられた桜は見事で、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわうといわれている。哲学の道の謂われは、哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと紹介されている。1972年に正式な名称として認められ、日本の道100選にも選ばれているとされる。しかし、花の時期はずれていたが、行き交う人は多く、思索の道というには最早不向きといえる。
哲学の道を出て、銀閣寺に入る道に出たところ、突然の混雑に見舞われ驚いたが、銀閣寺といえば、やはり京都を代表する寺院ということになるのだろう。
銀閣寺は、臨済宗相国寺派に属する禅寺で、建立は文明十四年(1482年)室町幕府八代将軍足利義政公による。義政公は、祖父に当たる三代将軍足利義満公の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。この東山殿が銀閣寺の発祥である。銀閣寺は俗称であり、正しくは“東山慈照寺(じしょうじ)”。義政公の法号慈照院にちなみ、後に東山慈照寺と命名された。つまり正式名は東山慈照寺。山号は東山(とうざん)。開基は、室町幕府八代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は、実際には当寺創建より一世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山というとする紹介がされている。
銀閣寺の総門から中門への参道は、両脇に背高の生け垣があり、真ん中に白砂の参道がある。その生け垣の最下段には石積みが見られるが、その上の竹垣が、銀閣寺垣といわれる垣で、全体的に調和のとれた垣根となっている。銀閣寺の庭園は、錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお、東方山麓の枯山水庭園は1931年(昭和六年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている。
鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来は観音殿と呼ばれた。二層からなり、一層の真空殿は、書院風。二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある青銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けているとされている。波紋を表現した銀沙灘と白砂の富士山型の向月台がこの花頭窓から見ることができるようであるが、通常は公開されていないようである。銀閣寺の栞の裏面に境内図が見られるが、一番奥に月待山があり、向月台というのはこの月待山に月が出るのを待つためのものなのかとも思われるが、銀閣寺創建当時にはこのようなものはなく、江戸時代中期以降に造られたのではないかとされている。
そうなると何の目的で造ったのかわからないが、多分造った人の発想は、月を向かえる台ぐらいの発想だったのかもしれない。それは別にして、展望所につながる道、そこから下る道の景色は心落ち着かせる景色だった。
銀閣寺を最後にして東京に戻ることにしたが、銀閣寺から京都駅までは流石に草臥れて車に乗った。本日の歩行数は、19,728歩。相当歩いたことになるが、前日も歩いていたので、比較的足は動いたようである。
(2010.8.15.)