「常盤台天祖神社」
水曜日, 5月 4th, 2011鬼城竜生
永年、東京医労連の執行委員をしていた有村君が、具合が悪くて入院していたが、一巡目の治療が終わって一時退院の許可をもらって退院してきているので、何人かで見舞いに行きたいけどという電話が事務局担当からあった。
6月4日(金曜日)はどうかというので、特に予定は入っていないから良いよと返事をておいた。その後、再度連絡があって東武東上線ときわ台駅北口に15時15分頃という中途半端な時間の指定をしてきたが、以前、庭にある八重桜の花が見事だということで、調べておいた“ときわ台天祖神社”が駅の直ぐ近くにあるということで、御朱印が戴けるのではないかと考え、少々早めに出かけることにした。勿論、桜は咲いていない。天祖神社は駅の南口を出て直ぐのところにあり、待ち合わせの場所とは反対側であるが、取り敢えず神社に寄ることを優先させた。
天祖神社の御祭神は『天照皇大神・豊受姫命(とようけひめのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)』の三?である。天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからお祀りされていた神社であるとされている。御深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祀りされている天照大御神を勧請したという伝承も見られるが、どれほど古いのかということは、はっきりとは解っていないとされる。
江戸時代の文人蜀山人(太田南畝)が、寛政九年(1779年)に天祖神社を訪れた時の紀行文に、次のような記載が見られると紹介されている。
「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」。この「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」を指している。古くからこの地に居住している人は、今でも「神明さま」と呼んでいるが、これは当神社が明治五年まで「神明宮」、「神明社」と呼ばれていたためだとされる。
昔、上板橋村字原(神社周辺の地)に、天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したという言い伝えも見られる (『北豊島郡誌』)。 この「伊勢神社」は、現在境内に「末社」として祀られているが、この伝承は天祖神社の創建に深い係わりがあると考えられるが、この影向跡がどこにあったのかは詳らかになっていない。
江戸時代の天祖神社の境内の描写については、蜀山人の紀行文に次のように書かれている。「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さびたり」。昭和十一年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松-境内の「老松」にちなんだといわれている。柊は当社の神木と紹介されている。時代の移り変わりとともに、境内地も昔日の約半分に減らされているという。
天祖神社の境内で、面白い張り紙を拝見した。写真に撮ったので御覧いただきたい。更に狛犬山も特徴的で、頭にボンボンを戴せていた。その代わり足で玉を弄るということもなければ、子供が纏わり付くという形でもなかった。天祖神社の狛犬は、これだけではなく、裏口の鳥居脇に『奉祝 天皇陛下御即位拾年』の台石に乗った狛犬の番が配置されていた。更にあまりに暗く、一部しか写真に撮れなかったが、古い狛犬が何体か置かれていた。
それとこれまで他の神社では見たことがなかったが、6月だというのに注連飾りが飾ってあった。それも比較的新しく、目立つほどの汚れが着いていないところを見ると、正月から付けっぱなしということではないような気がするが、いかがであろうか。取り敢えず御朱印は快く書いて戴いた。序でといっては悪いが、面白い絵馬があったので、頂戴した。
約束の時間が近づいたので、北口に行こうとしたが、どうやら踏切を通っていかないと反対側に行けないようなので、踏切を通ったが、踏切を通って北口に行く直ぐのところに交番があり、殉職警部を讃える記念碑「誠の碑」なるものが造られていた。
それを見た瞬間、新聞で読んだ記事を思い出した。それはホームのすぐ脇にある踏切に女性が侵入しているとの知らせで、交番のお巡りさんが、女性を交番に保護した。しかし女性は隙を見て交番を逃げ出し、再び踏切に侵入。お巡りさんがこれを救助しようとして女性をホーム下の退避スペースに押し込んだものの自分は間に合わず、当駅を通過する電車にはねられて殉職したというものだったと記憶している。
ここがそおだったんだと思いながら待ち合わせ場所に行き、御当人夫婦を含めて何人かと喫茶店で一時を過ごしたが、肺癌ということであったが、現在は小康状態を保っていると見えて、それなりに元気であった。
6月4日(金曜日)の総歩行数は、8,402歩。歩くことが目的で出てきたわけではないのでやむを得ない。
(2010.8.18.)