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「イレッサ訴訟-国の責任」

水曜日, 5月 4th, 2011

魍魎亭主人

 

2011年2月25日に出た大阪地裁判決では国の責任を認めいなかったが、3月23日に出された東京地裁判決では、企業についてはPL法(製造物責任法)上の責任を認めて損害賠償の支払いを命じた。また、国についても大阪地裁とは異なり、監督責任を認めて損害賠償の支払いを命じた。

但し、賠償を認めたのは厚生労働省の指示でドクターレターが発出され、添付文書の警告欄に間質性肺炎が記載された2002年10月15日以前に記載された処方例に対して責任を認めた。

イレッサの初版添付文書で、「薬剤性間質性肺炎が致死的であることは添付文書に記載がない限り、一般の医師等には容易に認識できなかった」「下痢、皮膚、肝機能の副作用の後に間質性肺炎が記載されており、重篤度が誤解される可能性もあった」というのが東京地裁の判断であり、「間質性肺炎を添付文書の警告欄に記載するか、他の副作用よりも前の方に記載し、かつ致死的となる可能性があることを記載するよう行政指導すべきだ」というのが意見である。

国の監督責任について「添付文書に安全性確保のために必要な記載がされているか否かを審査し、これが欠けているときには記載するよう指導する責務がある」と指摘。更に「必要な記載が欠けているにも拘わらず、権限を行使しなかったときには、他に安全性確保のための十分な措置が講じられたなどの特段の事情がない限り、権限の不行使はその許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く」として、国家賠償法上違法との判断を下した[日刊薬業,2011.3.24.]。

所で薬剤性間質性肺炎の原因薬剤の代表的薬剤は、抗癌剤(経口剤・点滴用剤)、抗リウマチ薬、interferon製剤、漢方薬(小柴胡湯等)、解熱消炎鎮痛剤、抗生物質、抗不整脈薬等で総合感冒薬のような市販薬でも見られることがある。

薬剤性間質肺炎の発生機序については、ある種の抗癌剤等のように、細胞を直接傷害する医薬品によって、肺の細胞自体が傷害を受けて生じるもので、医薬品を使用してから緩徐に(数週間?数年)発症する。もう一種は、薬に対する一種のアレルギーのような免疫反応が原因となるもので、多くは医薬品の使用後早期(1-2週間程度)に発症する。多くの種類の医薬品がこの形態と評価されるが、gefitinibのように発症機序が不明としているものもある。

副作用の好発時期

1-2週間で発症 一般的には免疫反応の関与が考えられる抗菌薬、解熱消炎鎮痛剤、抗不整脈薬(アミオダロン)、抗リウマチ薬(金製剤、methotrexate)、interferon、漢方薬等
数週間から数年で発症

細胞傷害性薬剤である抗悪性腫瘍薬では数週間から数年で発症することが多い。但し、これに当てはまらない場合もあり、抗悪性腫瘍薬でも早期に発症する場合がある。

4週間(特に2週間以内) 癌分子標的治療薬であるgefitinibでは見られることが多いことが知られている。

副作用モニターにおける肺障害発生頻度が日本では高い傾向にあることが以前より指摘されていたが、gefitinibにおいて、日本人では肺障害発生頻度が2-4%で死亡率1-2%であるのに対して、欧米白人ではそれらの頻度が10分の1から6分の1程度であると報告され薬剤性肺障害の人種差が初めて明らかにされた。

大阪地裁も、東京地裁も「薬剤性間質肺炎が致死的であること」が添付文書に書かれていなかったので、一般の医師等が容易には認識できなかった」としているが、「間質性肺炎」という副作用が、患者を時に致死的な状況下に置くことがある「重大な副作用」であることは、承知しているはずであり、更に「下痢、皮膚、肝機能の副作用の後に間質性肺炎が記載されており、重篤度が誤解される可能性」といっているが、副作用の記載順位で重篤度を誤解することがあるのかという点では疑問である。更に「一般の医師等」とされているが、この「等」には医師以外の誰が想定されているのか気にかかるところである。

国の監督責任について、「添付文書に安全性確保のために必要な記載がされているか否かを審査し、これが欠けているときには記載するよう指導する責務がある」とする指摘は当然のことであるが、それ以前に添付文書の記載内容の拘束力をどう考えるのかということを先に決めるべきではないのか。添付文書は厚生労働省の指示に基づいて記載されているが、厚生労働省自身が記載している訳ではないので「公文書」ではない。従って我々は「公的文書」といってきたが、記載内容について、行政的な拘束力は何処まであるのか。プラモデルの使用説明書とは違う。薬の使用を間違えれば人の命に係わる。少なくとも記載内容を遵守する義務は医師・薬剤師にあるはずであるが、添付文書に関する認識は、医師と薬剤師では相当に異なる。

薬剤師は添付文書の記載事項を守るべきものと認識しているが、どうやら医師は違う様である。むしろ添付文書の記載内容を遵守することは、治療の手枷になると考えている方々が多い。つまり単なる参考資料であって、添付文書の記載事項には縛られたくないと考えている。確かに適応症一つ取ってみても、薬理作用上は有効であることが解っていても「承認された適応症」以外は使用できないという、健康保険上の拘束がある。適応症の取得は、臨床治験の結果を受けて審査された結果であり、承認適応症以外の使用は認められない。それならば最初から予測される適応症を網羅的に治験をすればと考えるかもしれないが、経費が掛かりすぎることと、承認申請までに時間が掛かりすぎるということで、製薬企業は避けたがる。結果的に「適応外使用」が発生し、承認適応は守られないということになる。

医師にとって、添付文書の記載を守るということは、自らの手足を縛る行為になる。つまり適応症や用法・用量については、自らの裁量を認めるべきである。患者の苦痛を救うために、それは当然のことだと考えている。更に催奇形性や母乳移行性については動物実験の結果のみの記載が多く、殆ど参考にならない。副作用についても、多くの場合、自分の患者ではそのような経験はしたことが無い等々、添付文書の内容を軽量化する条件が揃うと、添付文書はさほど重要な情報を記載していないな等の判断に立ち至る。

添付文書の内容については、臨床情報と動物実験による情報を分離し、動物実験に基づく情報は飽く迄『参照情報』として区分して記載することが必要ではないか。臨床情報は臨床的事実を反映させると同時に、適応拡大については、学会等の審査で、一定の資料が揃えば、企業に申請させる等の新しい方策を導入する等の手立てが必要ではないか。いずれにしろ添付文書の記載内容を医師が遵守するような内容にしない限り副作用による死亡例の発生はなくならない。

1)重篤副作用疾患別マニュアル第1集;JAPIC,
                                                                    

[2011.4.30.]   

「常盤台天祖神社」

水曜日, 5月 4th, 2011

   鬼城竜生   

永年、東京医労連の執行委員をしていた有村君が、具合が悪くて入院していたが、一巡目の治療が終わって一時退院の許可をもらって退院してきているので、何人かで見舞いに行きたいけどという電天祖神社-01話が事務局担当からあった。

6月4日(金曜日)はどうかというので、特に予定は入っていないから良いよと返事をておいた。その後、再度連絡があって東武東上線ときわ台駅北口に15時15分頃という中途半端な時間の指定をしてきたが、以前、庭にある八重桜の花が見事だということで、調べておいた“ときわ台天祖神社”が駅の直ぐ近くにあるということで、御朱印が戴けるのではないかと考え、少々早めに出かけることにした。勿論、桜は咲いていない。天祖神社は駅の南口を出て直ぐのところにあり、待ち合わせの場所とは反対側であるが、取り敢えず神社に寄ることを優先させた。

天祖神社の御祭神は『天照皇大神・豊受姫命(とようけひめのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)』の三?である。天祖神社は、旧上板橋村の産土神として古くからお祀りされていた神社であるとされている。御深草天皇(鎌倉時代)の頃に、伊勢神宮でお祀りされている天照大御神を勧請したという伝承も見られるが、ど天祖神社-02れほど古いのかということは、はっきりとは解っていないとされる。

江戸時代の文人蜀山人(太田南畝)が、寛政九年(1779年)に天祖神社を訪れた時の紀行文に、次のような記載が見られると紹介されている。

「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」。この「石橋」とは石神井川にかかる現在の「下頭橋」を指している。古くからこの地に居住している人は、今でも「神明さま」と呼んでいるが、これは当神社が明治五年まで「神明宮」、「神明社」と呼ばれていたためだとされる。

昔、上板橋村字原(神社周辺の地)に、天照大御神のお姿が現われたという「影向跡(ようごうあと)」があって、そこに「伊勢神社」を勧請したという言い伝えも見られる (『北豊島郡誌』)。 この「伊勢神社」は、現在境内に「末社」として祀られているが、この伝承は天祖神社の創建に深い係わりがあると考えられるが、この影向跡がどこにあったのかは詳らかになっていない。

江戸時代の天祖神社の境内の描写については、蜀山人の紀行文に次のように書かれている。「古杉老松を交えて大なる柊(ひいらぎ)もあり、宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居神さ天祖神社-08びたり」。昭和十一年、東武鉄道によって分譲された「ときわ台」の地名は、常磐なる松-境内の「老松」にちなんだといわれている。柊は当社の神木と紹介されている。時代の移り変わりとともに、境内地も昔日の約半分に減らされているという。

天祖神社の境内で、面白い張り紙を拝見した。写真に撮ったので御覧いただきたい。更に狛犬山も特徴的で、頭にボンボンを戴せていた。その代わり足で玉を弄るということもなければ、子供が纏わり付くという形でもなかった。天祖神社の狛犬は、これだけではなく、裏口の鳥居脇に『奉祝 天皇陛下御即位拾年』の台石に乗った狛犬の番が配置されていた。更にあまりに暗く、一部しか写真に撮れなかったが、古い狛犬が何体か置かれていた。

それとこれまで他の神社では見たことがなかったが、6月だというのに注連飾りが飾ってあった。それも比較的新しく、目立つほどの汚れが着いていないところを見ると、正月から付けっぱなしということではないような気がするが、いかがであろうか。取り敢えず御朱印は快く書いて戴いた。序でといっては悪いが、面白い絵馬があったので、頂戴した。天祖神社-11

約束の時間が近づいたので、北口に行こうとしたが、どうやら踏切を通っていかないと反対側に行けないようなので、踏切を通ったが、踏切を通って北口に行く直ぐのところに交番があり、殉職警部を讃える記念碑「誠の碑」なるものが造られていた。

それを見た瞬間、新聞で読んだ記事を思い出した。それはホームのすぐ脇にある踏切に女性が侵入しているとの知らせで、交番のお巡りさんが、女性を交番に保護した。しかし女性は隙を見て交番を逃げ出し、再び踏切に侵入。お巡りさんがこれを救助しようとして女性をホーム下の退避スペースに押し込んだものの自分は間に合わず、当駅を通過する電車にはねられて殉職したというものだったと記憶している。

ここがそおだったんだと思いながら待ち合わせ場所に行き、御当人夫婦を含めて何人かと喫茶店で一時を過ごしたが、肺癌ということであったが、現在は小康状態を保っていると見えて、それなりに元気であった。

6月4日(金曜日)の総歩行数は、8,402歩。歩くことが目的で出てきたわけではないのでやむを得ない。

              (2010.8.18.) 

「貞観地震」

水曜日, 5月 4th, 2011

 

          魍魎亭主人 

お国の地震調査研究推進本部が、宮城沖から福島県沖まで連動する巨大地震を長期評価の対象に追加し、今月公表する方針だったという。約1150年前に大津波を伴った巨大地震の全体像が最近明らかになってきたためだという。

古文書の記録で知られていた869年の貞観地震(じょうがんじしん)は、宮城県-福島県沖の長さ200キロ、幅100キロの断層がずれたマグニチュード(M)8クラスト見られ、津波により宮城-福島県沿岸部の内陸3-4キロまで浸水していたことを、地震調査やコンピュータの想定実験で明らかにした。東日本大震災の浸水域は最大5キロ程度[読売新聞,2011.4.6.]。

貞観地震は、貞観11年5月26日に、陸奥国東方の海底を震源として発生した巨大地震。地震の規模は少なくともM8.3以上であったと推定されている。現在の地名では、東北地方の東の三陸沖と呼ばれる海域にある太平洋の海底が震源とされ、地震に伴う津波の被害も甚大であったことが知られている。約数十年?百年ごとに起こる三陸沖地震に含まれるという考えから貞観三陸地震、あるいは津波の被害の観点から貞観津波ともいわれる。

2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒に発生した東北地方太平洋地震(東日本大震災)との類似点が指摘されている。

「陸奥の国で大地震が起きた。稲妻が昼のように光り、人びとは立っていることができなかった。あるものは家の下敷きとなり、あるものは地割れに呑みこまれた。驚いた牛や馬があばれて走り出し、城郭、倉、門櫓や墻壁が無数に崩れた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて海嘯(カイショウ)が押し寄せ、たちまち海から遠くにあった城下にまで達した。見渡すかぎり水となり、野原も道も大海原となった。舟で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、あとにはなにも無くなった」と被害の惨状が『日本三代実録』に記述されている。陸奥国城下は多賀城と推測されており、多賀城市の市川橋遺跡からは濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているが、はっきり明記されているわけではないので異説もある。

記録通り仙台平野に津波が溯上した痕跡があるが、この痕跡はこの地震以外にも複数存在することが分かっている。その痕跡から判断した場合、超巨大地震による津波により東北地方の太平洋側が襲われ、その威力で仙台平野が水没するという現象が約1000年間隔で繰り返されているとされる。津波堆積物調査から岩手県沖(三陸沖)?福島県沖、又は茨城県沖まで震源域が及んだ連動型超巨大地震の可能性が指摘されている。なお、この地震の5年前の貞観6年(864年)に富士山の貞観大噴火が起きている等の報告が見られる。

今回の東日本大震災の被害の凄まじさが見えてくるのと同時に、明治三陸地震、昭和三陸地震なる名前が、チラチラし始めた。三陸の名前のつく地震は一体幾つあるのか。『明治三陸地震』は、1896年(明治29年)6月15日、午後7時32分30秒に発生した、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源とする地震。M8.2-8.5という巨大地震であったとされる。地震後の津波が本州観測史上最高の遡上高である海抜38.2mを記録するなど、津波被害が甚大だったこと及びこの津波を機に、明治初年にその名称が付けられた後も、行政地名として使われるのみで一般にはほとんど使われていなかった「三陸」という地名が知られるようになり、また「三陸海岸」という名称が生まれたという。『昭和三陸地震』は、1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分48秒に、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200 km(北緯39度7.7分、東経144度7分)を震源として発生した地震。M8.1とされている。更にそれに上乗せして『貞観地震』とくれば、将に津波の巣窟みたいな地域に思われる。当然、津波に洗われ、防波堤を作り、更に津波に洗われ、より高い防波堤を作りということで、防災体制を強化してきたと思われるが、今回は更に膨大な破壊力で攻め込まれた。

この強大な破壊力の前で、ここから下に家を建てるなという先人の教えを守り、被害を受けなかったという話も聞く。永年住み慣れた土地、先祖代々生活の基盤をおいた土地である。簡単に離れる訳にはいかないという気持ちもわからない訳ではないが、もっと高い位置、最低でも今回の津波の影響を受けた場所より上に住む場所を作ることを考えるべきではないかと思われる。

地球の主人公は飽く迄地球であり、自然を飼い慣らすことが出来るというのは、ヒトの思い上がりだろう。壮大な防潮堤や長大な堤防が、当初の目標通りの役割を果たさなかったということが事実として証明している。堤防で防げないなら高いところに登より手は無い。高いところに住み、仕事の時は海に出勤する。例え不便でも、命には代えられない。それにちょいとお借りして住まわせて戴いていると思えば、あまり腹も立たないのではないか。

いずれにしろ東日本大震災で亡くなられた方々に対しては、衷心より哀悼の意を申し上げる。

       (2010.4.9.)