Archive for 11月, 2010

トップページ»

『人助けが本業ではないのか』

日曜日, 11月 28th, 2010

  魍魎亭主人      

 

日本助産師会が同会に加盟する433の助産所に対して、乳児の死因の一つであるビタミンK欠乏症予防に有効なビタミンK2シロップを、効果が疑問視されている民間療法「ホメオパシー」の錠剤で代用したことがある助産所は、過去2年間に414施設中36施設(約8.7%)にのぼることが、日本助産師会の調査で、7日明らかになった[読売新聞,第48331号,2010.9.8.]。

これに対し厚生労働省は、「医政局看護課長」名で以下の文書を発出した。

医政看発00907第2号   
   平成22年9月7日    

社団法人日本助産師会長殿

厚生労働省医政局看護課長      

 

助産所における乳児に対するビタミンK2シロップの投与について

今般、貴会が実施した「ビタミンK2シロップ投与とホメオパシーの使用に関する実態調査」により、一部の助産所において、新生児に対していわゆる「ホメオパシー」の「レメディー」を投与し、ビタミンK2シロップ(ビタミンKを含有するシロップ製剤)を投与しなかったケースがあることが判明したところである。

乳児期においてはビタミンKが欠乏し、頭蓋内出血を起こすリスク等が高まるため、これを予防する観点から、一般的に、乳児に対するビタミンK2シロップの投与が有効とされている。したがって、これを適切に実施するとともに、ビタミンK2シロップの投与を望まない妊産に対しては、そのリスク等を十分に説明することが重要と考えられる。

貴会におかれては、上記の内容について御了知の上、会員に周知を徹底するとともに必要に応じて研修等を実施するようお願いする。

この問題に関しては、1980年に厚生省心身障害研究班で予防に関する研究が行われ、以下の勧告案が出されている。その内容は以下の通りである。

出生24時間以内、6日目、1ヵ月後にビタミンK2シロップ 2mg/1mLを10倍に希釈*して 2mg/10mL として内服させる。この予防投与法に関しては、当初その有用性に関して関連学会からまちまちの見解が出されていました。しかし、1986 ? 1988年と1988 ? 1990年の2回にわたる厚生省班研究の調査により、K2シロップ3回投与法の有用性は現時点ではほぼ確立されています。

*本シロップは高浸透圧であり、壊死性腸炎(necrotizing enterocolitis: NEC)が発症する危険性があるため。

新生児メレナ(新生児1次性出血症):多くは生後2-4日に発病する胃腸管出血で、ビタミンK依存性凝固因子活性の低下による新生児一次性出血症である。
出血が少量の時は便はタール状、吐物はコーヒー残渣様であるが、大量では暗赤色血便となり、血液臭がある。吐物は鮮血で凝血を認めることもある。

予防としては、生後早期にビタミンK2を1-2mgを経口投与する。あるいは産院入院中に2回ビタミンK2シロップを投与等の報告がされている。

何れにしろビタミンK欠乏による出血であれば、欠乏しているビタミンKを投与するのが常識であって、ビタミンKに変えて何の「レメディー」を飲ませたのか。素人ではないのである。例えば親が厭がったとしても、キチッと状況を説明して、薬を服ませる責任があるのではないか。

(2010.9.8.)    

「八王子片倉城址公園」

土曜日, 11月 27th, 2010

   鬼城竜生     

 

カタクリの花を撮りたい、特に群落のカタクリの花を撮りたいというのが長年の願望であった。但し、根が不精にできているので、基本的には乗り換えの多い電車や汽車には乗り片倉城址-02たくない、あまり遠っぱしりはしたくないということで、カタクリの群落が見られるという話は耳にするが、中々ケツが持ち上がらなかった。

そのうちに何処で見たのか忘れてしまったが、八王子の片倉城址公園でカタクリの群生が見られるという話が書いてあったので、念のため八王子の住人に確認したところ、行ったことはないけれカタクリが咲くというので有名な公園だということであった。まあ、地元の人が知っているなら間違いはないだろうということで、出かけてみることにした。

片倉城の築城は、鎌倉幕府の初期の頃の重臣である大江広元を祖とする長井氏によって、室町時代に行われたという話があるが、定かではないされている。更に城主も不明、城が放棄された時期もはっきりしないとする紹介がされている。しかし、後世の改変が加えられているものの、空堀・土塁等の名残があり、15世紀後半の中世城郭の形態を示す典型的なものとされている。

城といわれれば、直ぐに大きな城を思い浮かべるが、場所的に見て出城として建てられたのではないかと思われる。最も片倉城址-04出城であれ山城であれ、城であることに変わりは無いかもしれない。片倉城跡公園はその名の通り、片倉城跡をそのまま公園としたもので、昭和47年に開園されたとされる。公園内の案内板によれば、太平洋戦争中は高射砲陣地としても使われたとされている。現在は、公園として整備されており、水車小屋や長崎の「平和祈念像」の作者として有名な彫刻家北村西望の作品など17基の彫刻が設置されていますと紹介されているが、水車小屋は気が付かなかった。彫刻は幾つか眼に付いたが、どれが西望さんのものかこれも気が付かなかった。兎に角カタクリの花だけにしか眼が行っていなかったということである。

国道16号に面した正面入口を入ると、「彫刻広場」と命名されている広場に行き合う。その名称の通り数々の彫刻作品が展示されていた。これは八王子を愛した北村西望氏ゆかりの「西望賞」の受賞作品を市が購入して展示しているの片倉城址-05だとされる。彫刻広場の横は、「はす沼」と名付けられた池がある。その名の通り5月下旬から睡蓮の花が見られるようである。その他、毎日のようにカワセミも飛来するとする話も紹介されている。蓮沼からなだらかな道を上がると、左側にカタクリの群生地があることになっているが、あまり花は開いていなかった。

更に蓮沼から左手に進んで、急な階段を登ると住吉神社が祀られている。住吉神社は、室町時代の城主長井氏が1372年(応安五年)に城の鎮守として、摂津国(大阪市)住吉大社を歓請したものだとされる。1851年(嘉永四年)に川幡元右衛門泰言とその門人により「数学の実力がつきますように」と祈願された算額が奉納されているとする紹介が見られる。御祭神は上(表)筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、底筒男命片倉城址-06(そこつつおのみこと)であるとされている。この三神は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子であるとされている。

肝心のカタクリについては、群生しているカタクリを見たことがないので、どの程度のものなのか、断定的なことは言えないが、近所の人らしい方の話では、「あと3日位じゃないかな、まだ速過ぎるな」ということだったので、もう少し多くの花が見られたのかもしれないが、群生に対する期待が大きかっただけに、こんなもんかいという思いが先に立ったが、カタクリの生態も知らずに文句を言っているのかもしれない。

カタクリ(カタコ)、ユリ科カタクリ属。Erythronium japonicum Decne.。カタクリの名称は、古名のカタカゴから転化片倉城址-07したという説がある。日本だけではなく、サハリン、朝鮮半島、中国に分布するとされる。

生態:北海道、本州、稀に四国などの山中の陰湿斜地に自生する多年草。春、林下に群生することがある。根茎は褐色を帯びた白色。地下6-10cm位のところに横たわり、その直ぐ上に筒状の癒合した鱗茎がある。4-5月頃高さ15cmほどの花茎を伸ばし、濃いピンクの花を下向きに開く。花茎の下部に一対の葉がある。葉には長柄があり、平開する。葉の質は柔らかく、葉面は淡緑色で紫色の斑紋がある。花被片6個で反り返り、内面の基部近くに濃紫色の紋がある。雄しべは6本、葯は濃い紫色で、長さは不揃いで、花柱は三裂する。

鱗茎を見る限り、甚だ心許ない大きさをしているが、これから「片栗粉澱粉」と称する生薬を採るとすると、相当の規模のカタクリの群生が必要となるのではないかと思われるが、昔は群生地が多かったのかどうか。

2010年3月19日(金曜日)の総歩行数は、11,419歩である。

1)伊沢凡人・他:カラー版 薬草図鑑;家の光協会,1999
2)牧野富太郎:原色牧野日本植物図鑑 コンパクト版I;北隆館,2003

 

(2010.5.2.)   

「横浜三渓園」

土曜日, 11月 27th, 2010

  鬼城竜生

例年、梅の時期に写真を撮りに行くのは“湯島天神”か“池上梅園”あるいは“芝公園”ということに決まっていたが、今年は天候不順で、何処の梅がいいのか見当がつかないということと、偶には別なところにというので、横浜三渓園に行くことにした。

三渓園-10東京湾を望む横浜の東南部、本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治三十五年)から造成が始められ、1908年(明治四十一年)に外苑、 1923年(大正十二年)に内苑が完成したとされている。三溪園と名付けられたこの庭園は、生糸貿易で財を成した実業家 原 三溪が、1906年(明治三十九年)自邸を公開したことにより始まる日本庭園である。広さは約175,000平方メートル(53,000坪)に及ぶ園内には、三溪により京都や鎌倉などから移築された17棟の歴史的建造物(内10棟は国指定重要文化財・3棟は横浜市指定有形文化財)が巧みに配置され、四季折々の自然と調和を見せている。

三渓園は三溪が存命中には、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれたとされる。その後、戦災により大き三渓園-09な被害をうけ、1953年(昭和二十八年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるたのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っているとされる。

しかし、生糸貿易で財を成したというが、一体幾ら稼げばこれだけの庭を持ち、あちらこちらから建物を移設することができるのか。例えば正門から大池越しに見える三重の塔は、旧燈明寺三重塔とされており、聖武天皇の勅願寺・京都燈明寺にあったもの。関東地方では最古の塔。康正三年(1457年)建築とされている。この塔一つ取っても綺麗に解体し、運搬し、再建する費用だけでも生やさしい金額ではないのではないか。更に旧燈明寺本堂(三重塔と同じ京都燈明寺から移築。室町時代初期の建築)も移築されており、何で移築されたのか念のために調べてみたら次の記載がされていた。

三渓園-08燈明寺は、現在の京都府木津川市兎並(うなみ)(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。現在は廃寺である。寺伝によると天平七年聖武天皇の勅願により行基が開創したとされ、一説には、貞観五年(873年)清和天皇の勅願で空海(弘法大師)の弟子真暁が開基したともいう。建武年間の兵乱で廃絶した後、康正年間(1455 年-1456 年)、天台宗の僧忍禅が復興。本堂と三重塔(いずれも横浜市に移築されて現存)はこの頃の建立である。寺は後に再び荒廃。寛文三年(1663年)頃、日蓮宗本圀寺の日弁(日便)が再興し、本堂、三重塔を修理した。寛保三 年(1743 年)には、日賢が三重塔を修理している。近代に入って明治三十四年、川合芳太郎が廃寺となった燈明寺を買収。大正三年(1914 年)には、実業家で美術品収集家でもあった原富太郎(号:三渓)が保存のために三重塔を横浜の三渓園に移築した。本堂は移築されずに残っていたが、昭和二十二年(1947 年)の台風で大破し、部材は解体のうえ保存されていた。昭和五十七年(1982年)、三渓園に本堂の三渓園-07部材を移動し、移築工事に着手。昭和六十二年(1987年)に移築工事が竣工したとされている。

その他、旧東慶寺仏殿[縁切寺の名で知られる鎌倉東慶寺にあった禅宗様の建物。寛永十一年(1634年)建築]、臨春閣[1649年(慶安2年)建築。桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構という伝承がされていたが、現在では和歌山市にあった紀州徳川家の別荘“巌出御殿(いわでごてん)”ではないかと考えられている。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数奇屋風書院造りの意匠を随所に見ることができる]、旧天瑞寺寿塔覆堂[1591年(天正19年)建築。豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます]等々、色々な建物が移築されているが、放っておけば雲散霧消するはずのものを残した努力は多とすべきなんだろうが、この情熱というか三渓園-06、この活動源は一体何なんだろうね。

ところでこれらの建物群は、そのまま元の場所で保存することはできなかったのだろうか。建物はその建てられた場所の風景として存在し、その風景の中で年老いていく。それがある日突然その風景と切り離され、全く馴染みのないところに建て直されたとしても、あるいは老醜を曝すだけで、見る人に違和感を与えるのではないかと思われるのだが、果たしてどうか。

三渓園に入って直ぐの所に天満宮の社がある。この社も三渓園にほど近い間門の旧家・高梨家が同地の丘の中腹に祀った間門天神がその前身で、1月25日に初天神が行われるという説明が案内用の三つ折りに記載されている。この天満宮が何時頃のものか分からないが、片方の狛犬の顔が崩れているところを見ると、相当古いものではないかと思われる。神社に置かれている狛犬の顔を潰そうとする奴はいないだろう。

2010年3月3日(水曜日)の総歩行数は8,228歩。あまり天気が良くなかったということと、一部梅は既に終わっている状態で、苑内を余りあるか無かったということである。

  (2010.4.30.)

『プラビックス錠について』

土曜日, 11月 20th, 2010

 

KW:薬名検索・クロピドグレル・clopidogrel・クロピドグレル硫酸塩・clopidogrel Sulfate・抗血小板薬・ローディングドーズ・Loading Dose

Q:クロピドグレルの作用機序について

A:クロピドグレル(clopidogrel)は、抗血小板薬である。
一般名: クロピドグレル硫酸塩(clopidogrel Sulfate)
分子式: C16H16ClNO2S・H2SO4 =419.90

image

商品名:プラビックス錠25mg(サノフィ・アベンティス株式会社)

作用機序:clopidogrel Sulfateの活性代謝物が、不可逆的に血小板のADP受容体サブタイプP2Y12に作用し、ADPの結合を阻害することにより、血小板の活性化に基づく血小板凝集を抑制する。また、ラットにおいて認められたコラーゲン及び低濃度トロンビンによる血小板凝集に対する本薬の抑制作用は、これらの刺激によって血小板から放出されたADPによる血小板凝集を抑制することに基づくと考えられる。

血小板凝集抑制作用:clopidogrel Sulfateはin vitroでは血小板凝集抑制作用を発現せず、経口投与後、肝で代謝を受けて活性代謝物となりADP刺激による血小板の活性化に基づく血小板凝集を抑制する。ラットではコラーゲン及び低濃度トロンビンによる血小板凝集の抑制も認められている。

健康成人男子24例にclopidogrel 10-75mg/日を10日間反復経口投与した時、血小板凝集抑制率の増加および出血時間の延長が認められている。健康成人10例を対象に、clopidogrelのローディングドーズ*(初回投与300mg、翌日以降は75mgを1日1回5日間反復経口投与)と非ローディングドーズ(75mgを1日1回6日間反復経口投与)の用法・用量でのクロスオーバー法による投与を行い、血小板凝集抑制作用について検討した。その結果、ローディングドーズ群は、非ローディングドーズ群に比べ、初回投与後2時間から血小板凝集抑制作用(血小板活性化の抑制)を示した。300mgのローディングドーズにより、投与初日の血小板凝集抑制率は約30-40%を示し、薬力学/薬理作用的に定常状態と考えられる血小板凝集抑制率のレベルに投与初日より達していたが、ローディングドーズをしない場合では投与初日の血小板凝集抑制率は約15%であった。

Loading Dose:初期投与量を負荷量とし、以後通常投与量を投与することにより、早期に高い血中濃度を得る投与法。

抗血栓効果:clopidogrel Sulfateは、経口投与により、血小板の活性化に基づく血栓形成を抑制する。本薬は中大脳動脈血栓モデル(ラット)、動静脈シャントモデル(ラット)、冠状動脈周期的血流減少モデル(イヌ)、頸動脈バルーン内皮傷害モデル(ウサギ)、ステント留置動静脈シャントモデル(ウサギ)において血栓形成を抑制し、中大脳動脈脳血栓モデルでは血栓形成抑制に基づいて梗塞サイズを縮小した。頸動脈バルーン内皮傷害モデル、ステント留置動静脈シャントモデルにおける血栓形成抑制効果はアスピリンと併用したとき増強した。

吸収・代謝:clopidogrel Sulfateは吸収された後、肝臓で主に二つの経路で代謝される。すなわち、

1)エステラーゼにより非活性代謝物であるSR26334(主代謝物)を生成する経路と、
2)薬物代謝酵素チトクロームP450(CYP)による酸化型代謝物を生成する経路である。

後者の経路を経由して、活性代謝物H4が生成される。血漿中においては、未変化体の濃度は極めて低くSR26334が主に存在した。clopidogrel の肝酸化型代謝に関与するチトクロームP450分子種は、主にCYP3A4、CYP1A2、CYP2C19、CYP2B6である(in vitro)。また、SR26334はCYP2C9を阻害する(in vitro)。

本品の効能・効果について『虚血性脳血管障害(心原性脳塞栓症を除く)後の再発抑制』、『*経皮的冠動脈形成術(PCI)が適用される急性冠症候群(不安定狭心症、非ST上昇心筋梗塞)』と報告されている。

本剤の作用機序は『血小板の活性化に基づく血小板凝集を抑制』作用であり、『アスピリンとの併用によって出血のリスクが高まる可能性がある』の記載はあるが、『vitamin K及び関連食品』に関連する相互作用の記載はされていない。

1)プラビックス錠添付文書, 2008

  [011.1.CLO:古泉秀夫,2010.2.12.]    

『メタロチオネインについて』

土曜日, 11月 20th, 2010

 

KW:語彙解釈・メタロチオネイン・metallothionein・金属結合性蛋白質・重金属・ホルモン・低分子蛋白質・システイン

Q:メタロチオネインとは何か

A:メタロチオネイン(metallothionein;金属結合性蛋白質)は、金属結合性の蛋白質である。重金属に結合する能力があるシステインの多い低分子量の蛋白質で、動物から植物まで広い範囲に存在する。哺乳動物では10個以上の類似遺伝子が存在し、遺伝子ファミリーを形成している。メタロチオネインの名前の由来は、金属 (metal) と硫黄 (thio) を豊富に含む蛋白質 (nein) から名付けられた。

メタロチオネインは金属と硫黄に富み、金属を除いた部分(チオネイン)の分子量が約6,000の低分子蛋白質で、細胞質に局在する。構成アミノ酸の1/3がシステインで、SH基3個に1個の重金属(Zn2+、Cu+、Cd2+、Hg2+)が最大7分子結合出来る。またその遺伝子には、重金属やglucocorticoid、interferon等の相互に作用する配列が存在し、エンハンサー(enhancer)として働く。この蛋白質の本来の生理的意議は解明されていないが、重金属の毒性を軽減する作用を示す。

重金属(Zn2+、Cu+、Cd2+、Hg2+)、ホルモン(glucocorticoid)等が、その合成を誘導し、細胞質に存在する。61個の構成アミノ酸のうち20個を占めるシステインは特定の一次配列をとり、9個と11個に分かれ、3個と4個のZn又はCdに配位した二つの集団を形成する。生体に必須なZnとCuの恒常性維持に関与すると共に、過剰なこれら重金属や有害重金属を捕捉して毒性から生体を防御する。またラジカルや活性酸素のスカベンジャーとしても作用。通常の細胞にはシステイン以外の構成アミノ酸が異なる2種類のイソ蛋白質が存在する。脳にはさらに7個のアミノ酸が挿入された配列を取る蛋白質(成長阻害因子)が存在し、メタロチオネインIIIと呼ばれているが、金属では誘導されず、分類は確定していない。重金属による制御のしやすさからDNA上の制御配列を遺伝子工学で利用。植物や微生物にはグルタチオンのポリマー構造をとるフィトケラチン、カディスチン、γ-EC(GluCys)ペプチドとも呼ばれる一群のメタロチオネイン類似蛋白質が存在。

1)今堀和友・他編:生化学辞典 第3版;東京化学同人,1998
2)最新医学大辞典 第3版;医歯薬出版株式会社,2005

        [615.8.MET:古泉秀夫,2010.2.17.]     

「ミリスチシンについて」

土曜日, 11月 20th, 2010

KW:薬名検索・ミリスチシン・myristicin・ナツメグ・nutmeg・ニクズク・肉荳

『ホメオパシーについて』

火曜日, 11月 2nd, 2010

魍魎亭主人     

日本学術会議(会長・金沢一郎東大名誉教授)は2010年8月24日独自の砂糖玉を飲ませるなどのホメオパシー療法について「科学的な根拠が無く、治療に使うことは認められない。」とする会長談話を発表した。同会議が特定の手法を批判するのは異例。談話では、ホメオパシーに使われる手法について、英国の検証結果などを根拠に「荒唐無稽」と全面的に否定。内容を理解した個人が自身のために使う場合を除いて、治療などに使わないよう医療関係者に求めた。ホメオパシーをめぐっては、山口県で助産師がこの方法を実践し女児が死亡、親と助産師の間で訴訟に発展している[読売新聞,第48317号,2010.8.25.]。

患者に独自の砂糖玉を飲ませる民間療法「ホメオパシー」について、日本医師会・原中勝征と日本医学会・高久文麿会長は25日、医療関係者がこの療法を用いないように求める見解を共同で発表した。日本学術会議が出した会長談話に賛同した[読売新聞,第48318号,2010.8.26.]。

日本薬剤師会・児玉孝会長は26日「効能・効果が確認されていない『医薬品類似物質』が医療現場で使用されることは、安全な医薬品使用を確保する観点から極めて重大な問題」とし、医療従事者は実施を現に慎むべきだとのコメントを発表した。

2009年10月山口市で生後2ヵ月の女児がvitamin K欠乏症で死亡したとする報道がされた。出産を担当した助産師(43)は、厚生労働省が指針で与えるように促しているvitamin Kを与えず、代わりに「自然治癒力を促す」という錠剤を与え、この女児は生後2ヵ月で死亡していたことが分かった。助産師は自然療法の普及に取り組む団体に所属しており、錠剤はこの団体が推奨するものだった。母親(33)は助産師を相手取り、約5,640万円の損害賠償訴訟を山口地裁に起こした。
母親らによると、女児は昨年8月3日に自宅で生まれ、母乳のみで育てたが、生後約1ヵ月頃に嘔吐し、山口県宇部市の病院でビタミンK欠乏性出血症*と診断され、10月16日に呼吸不全で死亡した。

新生児や乳児は血液凝固を補助するビタミンKを十分生成出来ないことがあるため、厚労省は出生直後と生後1週間、同1ヵ月の計3回、ビタミンKを経口投与するよう指針で促し、特に母乳で育てる場合は発症の危険が高いため投与は必須としている。しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった。3回目の時に「ビタミンKの代わりに(錠剤を)飲ませる」と説明していたという。

助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している[読売新聞,第48270号,2010.7.9.]。

*ビタミンK欠乏性出血:血液凝固因子を造るビタミンKが不足して頭蓋内や消化管に出血を起こす病気。母乳はビタミンKの含有量が少ない場合がある。

ホメオパシー(homeopathy)は独逸人医師Hahnemann(Samuel Christian Friedrich Hahnemann,1755年 - 1843年)が考案した、人が本来持っている自然治癒力を引き出すことを目指す療法。「症状を起こす物質には、症状を改善する効果がある」とする考え方から植物・鉱物(remedy)を混ぜた水を極めて薄く希釈し、砂糖玉に含めて経口投与する。
現在でも英国を中心とした複数の国にホメオパシーは浸透しているが、少なくとも科学的な効果は全くないといえる。学術誌を含む幾つかの文献によって、科学的根拠及び有効性を示す試験結果が欠落していることが指摘されている。特に、2005年ランセット誌に掲載された論文は、ホメオパシーの有効性研究に対する集大成であり、最終結論と評価されている。また、「根拠に基づいた医療(EBM)」の手法を用いた調査において、ホメオパシーはプラセボ以上の効果を持たないとして、その代替医療性は完全に否定されている等の報告が見られる。

ビタミンK欠乏状態の乳児に、remedyを服ませることで、ビタミンK欠乏状態が回避出来ると考えたとすれば、非科学的であるとする誹りは免れない。個人的に信じる信じないは別にして、医療に携わり、患者の治療をする場合、独善的な我執は避けなければならない。対象となる病気の治療法として、現時点で最も適切な治療法を選別するのが医療人としての役割であり使命である。その選択の誤りによって、人の命を失わせることがあってはならないはずである。

 

(2010.8.29.)    

「鳩森八幡神社-千駄ヶ谷富士塚」

火曜日, 11月 2nd, 2010

   鬼城竜生   

 

後輩から手紙を貰った。先輩が小説を書いたということであった。良く見ると卒業年次が同じであるから同級生である筈が、クラスが違ったことと、卒業した後鳩森神社-01の空間が広す鳩森神社-02ぎて、名前から顔を思い出すことができなかった。

藤本美智子「シルダリヤ川に流した赤い糸」(幻冬舎ルネッサンス)ということだったので、何時も顔を出す本屋で訊ねたが、生憎置いていないと云うことであった。そこで直接出版社に行けば手に入るのかということで、幻冬舎の場所を探したところ、JR代々木駅を出て明治通りを原宿方向に戻った途中にあることが分かった。副都心線(東京メトロ)北参道駅1番出口が最も近いが、この線に辿り着くまでに時間が掛かり、最も近いのはJR代々木駅ではないかと判断した。

 

一方、地図を見ている内に、幻冬舎の前の道を千駄ヶ谷駅方面に行き、最初の角を右に曲がって暫く行った地点に“鳩森神社”という記載がされていたので、序でによって見る計画を立てた。

2月23日(火曜日)に出かけたが、当初の目的、幻冬舎で本を手に入れるというのは失敗に終わった。自社の出版物を販売する書店の併設はされてい鳩森神社-03なかった。そこで第二の目的地である鳩森神社に向かったが、当初予測していた小さな神社という予測は外れ、立派な物であった。正式には“鳩森八幡神社”という名称であった。

紹介されている縁起によると、「『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中に瑞雲がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入ると、突然数多くの白鳩が西に向かって飛び去った。この霊瑞に依り、神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み、鳩森と名付けた。貞観二年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。」とする紹介がされている。従って御祭神は応神天皇・神功皇后である。

鳩森神社-04鳩森神社-05御社殿は弘化二年(1845年)に上棟した欅造りの荘厳な社殿であったが、不幸にして昭和20年に戦災により消失した。戦後昭和23年より数度の復興事業を重ね、昭和56年末に完成したが、平成2年の御大典を記念して、昔日の姿に復元すべく建設工事を行い、平成5年6月竣工。51.8坪の総欅造り。また戦前の幣殿、拝殿の天井に絵が描かれていたことにならい、108点の草花、暮らしの中の道具を主題にした天井画が描かれたとされている。

境内に祀られている末社については、先ず“甲賀稲荷社”(御祭神:宇迦之御魂神)で、嘗ては青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していた神社で、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していたとされる。明治十八年に、青山練兵場設置のため、鳩森神社の境内に遷座、合祀された。昭和20年5月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神鳩森神社-06宮、諏訪大神とともに祀られていたが、復興を望む声が高まり、昭和45年欅造りの社殿が完成し遷座された。

次が“冨士浅間神社”(御祭神:木花咲邪姫命)で、東京都の有形民族文化財に指定されてる富士塚の山頂に、浅間神社の奥宮、山麓には里宮が奉祀されている。昭和60年6月、浅間神社の社殿が御影石にて建て替えられたとされる。

その他、“神明社”(御祭神:天照大神)で、太神宮として権田原にあったが、明治四十一年十一月に八幡神社の末社になって境内に遷座された。

境内には都市指定有形民俗文化財-千駄ヶ谷の富士塚(指定:昭和56年3月12日)が築かれている。寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されている。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となってお鳩森神社-07り、山腹にはクマザサも植えられている。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂に黒朴で覆われている奥宮等富士山を再現している。また塚の前面に、富士塚を構築したときに土を採掘した凹地を利用して造られた池があるが、例年開山式(6月3日)の頃には菖蒲の花が見られる。円墳状の盛り土と前方の池という形は、江戸築造の富士塚の基本様式であるとされている。

その他、将棋堂が見られる。これは昭和61年1月、日本将棋連盟により建立された六角堂で、中には御影石の将棋版の上に、山形県の駒士香田氏より奉納された巨大な王将が祀られているとされる。神社の隣には日本将棋連盟の将棋会館道場ががあり、その関係で将棋に関するものが奉納されたものだと説明されている。年初には「将棋祈願祭」が行われているとする紹介もされ鳩森神社-08ている。

結局、目的の図書は手に入らなかったが、後日川崎の本屋で書名を伝えたところあるということだったので、手に入れることはできた。

本日の総歩行数11,505歩。

 

(2010.4.17.)    

「三浦海岸と河津桜」

火曜日, 11月 2nd, 2010

?? 鬼城竜生

三浦海岸で河津桜が咲いているというので、出かけてみることにした。ただ、どちらかというと河津桜の色は、桜にしては赤過ぎて、吉野桜を見慣れた眼には、些かくどいという気がして、三浦海岸にあることは知っていたが、今までは出かけていなかった。それに河津桜の本家本元は伊豆の河津川の土手に咲くも河津桜-01のであり、それを見るのが先だろうなんぞという、妙な肩肘を張っていた。

三浦海岸駅で下りて、改札を出ると直ぐ眼の前に、“どうだ”と言わんばかりに河津桜が咲いていた。見た瞬間は光線の加減か、商店街の造花の飾りみたいに見えたが、造花ではなく間違いなく生の花である。皆さん、嬉しそうに携帯で写真を撮っている人を見かけたが、真似をして一枚頂戴した。

三浦海岸駅を後にして、線路の下を右に行き道路を渡ると三浦海岸駅に向かう道に出る。線路沿いに暫く行くと、直ぐ線路の下を潜って左に行く道に入り、その道を道なりに行くと、河津桜の咲く道筋が見えてくる。

川津桜はカンヒサクラ(寒緋桜)と早咲き大島桜の自然交配種であるとされる。本来、河津桜が有名なのは静岡県賀茂郡河津町で毎年2月に咲き始め3月上旬に満開になるピンクの桜であると紹介されている。また、河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽

河津桜-02河津桜-04河津桜-06

吹いている桜の苗を見つけて、現在地に植えたものだとされている。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヵ月にわたって咲き続け近隣の注目を集めた。伊東市に住む勝又光也氏は、1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しているとする紹介もされている。

河津桜-07ところで三浦海岸の河津桜については、本数が1,000本あり、本場の河津川(静岡県)の川沿いにある800本よりは多いとする紹介も見られる。今回は河津桜の下に菜の花が植えられ、満開の菜の花のキイロと河津桜の取り合わせは絶妙と言えた。京浜急行の線路に沿って暫く行くと右側に池が見えてくる。この池が小松ヶ池公園(面積約 3.69ha)といわれている三浦半島有数の渡り鳥の飛来地であると紹介されている。

溜池(面積約 1.5ha)を中心とした、緑豊かな自然環境にあり、野鳥・昆虫類・植物等の自然生態を観察することができる。
季節を彩る植物として、キケマン・シミツゲ・ヨシ・ラクウショウ・オオシマザクラ・ウキヤガラ。
池にやってくる野鳥としてゴイサギ・コサギ・オナガカモ・ヒドリガモ・カルガモ・カイツブリ。

池畔に池の説明を書いた案内板が見られる。

「この大沼は「小松ヶ池」あるいは「お松ヶ池」といい、古くから里人の間に、この沼にまつわる物語が語り継がれています。むかし、この池のあたりがまだ、いくつ河津桜-10かの小さな田に分かれていた頃、お松という働き者の嫁が一人、田植えに励んでいました。
お松は、意地悪な姑に、一人ではとても無理なほどの、田植えを言いつけられたのです。すでに太陽は西山にかくれようとしているのに、田植えが終わらず、困り果てたお松は、天を仰いで「あと半刻あれば田植えを終わるものを」と嘆き悲しみました。 すると不思議なことに、西山に沈もうとした太陽が、にわかに数尺も高く東ヘ戻り、おかげで、お松は無事に田植えを終えることができました。しかし、その時、あたり一面は深い沼田と変わり、お松は水に呑まれてしまいました。それからというもの、雨の多い年が続いてやがて、この一帯はごらんのような大沼になったといわれています。」

池の傍らに環境ボランティアの方がいたようである。「今日は何………」という知り合いの質問に「芥………」と答えていたが、河津桜の時期には芥を置いていないよう見張っているのかもしれない。池の傍らに店開きをしていた屋台でイナゴの佃煮を買って帰ったが、誰も手を出さないので一人で喰った。
2010年2月19日(金曜日)総歩行数10,233歩。

(2010.4.16.)