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『世田谷ボロ市』

水曜日, 8月 4th, 2010

鬼城竜生

大学の同窓会の用件で、世田谷線の上町駅近くの銀行に行くことになった。偶然選んだ日が2009年12月16日(水曜日)ということで、何のことはない“東京都指定無形民俗文化財『世田谷ボロ市』”の当日ということであった。

銀行の用件が済んだ後、時間に余裕があったので、ボロ市を覗いてみることにした。このボロ市の原点は430年前の昔に開かれた楽市に遡るといわれている。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政(うじまさ)は、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に、天正六年(1578)に楽市を開いた。楽市というのは、市場税を一切免除し、自由な行商販売を認めるというもので、毎月一の日と六の日に月六回開いていたので六斎市ともいわれていた。当時世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていたという。この市により地方からの物資の交流は一層活発になり、江戸と南関東を結ぶ中間市場としてかなり反映したものと思われるとしている。

しかし、楽市の賑わいも徳川家康が江戸幕府を開くに及んで、急速に衰えていった。世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い、楽市はなくなりましたが、その伝統は根強く続けられ、近郷の農村の需要を満たす農具市・古着市・正月用品市として毎年12月15日に開かれる年の市として長く続けられてきた。明治になって新暦が使われる様になって正月15日にも開かれ、やがて十二月十五・十六日の両日、正月にも十五・十六日の両日開かれるようになり現在に至っているとされる。

ボロ市の名前の由来は、農家の作業着の繕いや、草鞋に編み込むボロ布が安く売られるようになり、何時とはなしにボロ市の名前が生まれたといわれている。ことに草鞋はボロと一緒に編み込むと何倍も丈夫になるというので、農民は争って買いました。農家にとって農閑期の夜鍋の草鞋造りは、大切な現金収入の副業だったのである。明治中頃までの市の最盛期には、ボロ専門の店が十数件も出て、午前中には殆ど売り切れになったといわれている。

昭和の初めには見世物小屋や芝居小屋まで掛かり、商品の売買と共に娯楽の場でもあったとされるが、大正・昭和の初期には900店から2,000店にもなったという出店も、最近では交通量の増大等により6-700店に減り、場所が狭められると共に、商品も農耕具、古着などボロ市的特徴のあるものは減り、玩具や装身具、植木類の出店が増えたとされている。

いわれてみれば、昭和35-6年頃に友人に誘われて一度来た記憶があるが、もっと歩いている人達も多く、鋸や鉋、鑿などの大工道具や、陶器類、中には買って帰っても何に使うのか分からない様な物まで並べられていた記憶があるが、活気の点ではその当時の方があった様な気がする。

前に来たときには全く気が付かなかったが、ボロ市本部の筋向かいに“代官屋敷”があることには気付かなかった。国指定重要文化財代官屋敷については、徳川三代将軍家光は、寛永十年(1633)、彦根藩主井伊直孝に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄い料として与えた。直孝は旧領主吉良氏の家臣で吉良氏が滅びた後、帰農していた大場市之丞を代官に用いた。以後大場家は、明治維新に至る迄、235年間代官を受け継ぎ、この屋敷を住居兼役所として使用していた。屋敷は茅葺きで、寄棟造、建築面積は約230m2 、玄関、役所、役所次の間、代官の居間、切腹の間、名主の詰所等があり、元文二年(1737)に建て直された古い建物であるといわれる。庭には罪人を取り調べたという白州跡がある。但しこの白州跡、全く手を入れていないとすると偉く狭く感じられるが、あれが本当の実寸の白州なのであろうか。

代官屋敷跡と隣接して区立郷土資料館があり、色々な資料を頒布していたが、世田谷区教育委員会発行の『世田谷区歴史・文化財マップ』を購入した。

ボロ市本部横の道の突き当たりに“天祖神社”があり、境内には植木屋が並び、色々の植木を売っていた。百両が欲しいと思ってみたが、どういうわけか背丈の伸びた鉢だけしか見えず、持って帰る自信がないので買うのは止めてしまった。更に境内の端では、ボロ市名物なる代官餅を売っていたが、行列が長すぎて買うことはしなかった。大体、食い物を買うのに並んでまで買おうという習慣はないし、行列のできる食い物屋の前は素通りすることにしている。

取り敢えず見るべき物は見て、まだ時間に余裕があったので、豪徳寺に寄ることにした。以前、紅葉の写真を撮りに来たとき、新しく出来た三重の塔の棟に猫が居るということであったが、その時には気が付かなかった。今回はまだ周りが明るいので、探し易いのではないかということで廻ることにした。

今回、欄間の猫は見つけられた。しかも猫だけではなく、鼠も一緒においでになった。ただ、小型カメラで望遠があまり利かず、しかも縄張りがされていて、三重の塔の敷地内に近付くのは拒否するという明確な意思が表明されていたので、遠くから写したのでこの写真が限界だということである。重いカメラが嫌で、兎に角小型カメラに買い換えたが、こういう時にはやゞ不便ということである。

吉良政忠創建という弘徳院が前身。世田谷か彦根藩領となると藩主井伊家の菩提寺となり、二代直孝の院号に因み改称した。仏殿と仏殿像は黄檗宗の様式を現しているとされる。豪徳寺内にある井伊家の墓所は、江戸藩邸で亡くなった藩主や家族の墓などが残る。同時の中興開基である二代藩主直孝や幕末の大老で、十三代藩主直弼の墓が含まれているとされるが、兎に角井伊家の墓所の広さには驚かされる。

帰りは世田谷城跡の横を通り、再度上町駅に戻り、京王線の下高井戸経由で家に帰った。総歩行数14,676歩。

(2010.2.28.)