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『池上七福神巡り』

水曜日, 8月 4th, 2010

鬼城竜生

ここ3年ばかり東海七福神ということで、品川神社を初めとして旧東海道筋を巡ってきた。一度は羽田の穴守稲荷を中心とする七稲荷+弁天神社巡りと東海七福神巡りを連続して御参りして歩いたが、偶には別なところをということで、色々検討した結果、今年は池上七福神を御参りすることに決めた。

1月3日(日曜日)取り敢えず出かけたが、何をぼけていたのか池上駅を降りる段になってカメラを鞄に入れてないことに気付いた。カメラがなければ、文書を書いても絵にならないということで、引き返すことも考えたが、携帯電話のカメラがあるのを思い出してそれを使ってみることにした。

池上駅を出てさてどっちに行くのかということになったが、暫く迷ってウロウロした結果、池上駅の先で電車の線路を渡り徳持小学校のバス停の前を過ぎ暫く行った右手に布袋尊(福徳、円満、忍耐を授ける弥勒菩薩の化身神)を祀る曹禅寺が見えた。

曹禅寺は曹洞宗大乗山の寺で、境内には昭和九年(1934年)の室戸台風によって流出した、『京都三条大橋の欄干』が巡り巡って境内に鎮座ましましているとなっているが、何でそんな物があるのか。古来よりこの地区に曹洞宗の寺院が無かったため村上大憲氏が曹洞宗の新寺建立を発願し、昭和七年(1932)矢口町に教会を開設。昭和十四年(1939)東京都が新寺建立を承認しなかったので、牛込白銀町にあった盛高院の寺号を移し、この地に堂宇を建立。後に寺号を改め、曹禅寺と称し現在に至る。また昭和五十六年(1981)に池上七福神に定められた布袋尊を奉っている。

本堂の中で御守りなどを頒布している方がいたので、御朱印は御願い出来ないんですかと伺ったところ書いていただけるとのことだったので、直接書いて戴いた。携帯電話のカメラで、何枚か写真を撮ったが、どうも上手く行かないので、明日もう一度カメラ持参で一巡りしようということで、帰ることにしたが、本日の総歩行数は、道に迷ってウロウロしたお陰で10,189歩の総歩行数を稼ぐことができた。

翌1月4日(月曜日)、本日は通常なら出勤日に当たるが、前から出勤しないことは伝えてあったので、再度、曹禅寺に廻った。昨日は布袋尊が本堂に鎮座していたが、今日は何時もの場所に戻されていた。何枚かの写真を撮って毘沙門天(威光と財宝授与の北方守護の武神)が奉られている“微妙庵”に廻った。曹禅寺を出て、真っ直ぐ池上駅方向に向かい、線路を渡って大通りを右、徳持神社の前を過ぎて直ぐの所に“微妙庵”が見えた。

微妙庵は、元禄二年(1689)に安詳寺二世教善院日悟法師が教善坊として建立したとされる。本尊の毘沙門天については、安永二年(1773)小原甚助(15才)が品川の海を舟で通った時、海中に見つけた光り輝く仏像があった。その仏像を持ち帰ったところ、主人の木原市之助(左官)が高熱を出した時に、法華経を唱えると、たちどころに熱が下がったのがこの海から出た仏像であったという。この仏像が毘沙門天。以来、海中出現毘沙門天と号し、霊験あらたかなる尊像として、徳持の北に当たる微妙庵の境内に毘沙門堂を建立した。その後若者の勧化、世情安泰のため、正月初寅等の法楽をもってこれを神恩とし、また多くの諸病が平癒したと伝えられるという口伝が紹介されている。その毘沙門天が、現在池上七福神の一つとして奉られている。ここの御朱印は、書く者がいませんのでということで、前もって書き入れた御朱印の半切が置いてあり、それを戴いて帰る様になっていた。

次が大黒天(米俵を踏まえる有福の台所守護神)をお奉りする“馬頭観音堂”である。微妙庵から第二京浜に出て、池上警察署の裏側の路地にある。狭い路地の階段を登ると、民家の庭みたいなところに御堂が建てられており、石碑もあったが、文字は読み切れなかった。また、縁起などについては一切見当たらなかったので、どういうことで七福神の一つ、大黒天が置かれているのかよく分からない。馬頭観音は、梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆)は、「馬の首」の意味だとされている。これはヒンドゥー教では、最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」などさまざまな呼称があるとされている。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩であるとされているが、それなりの由緒ある御堂だと考えられるが、詳細は不明である。

四番目の弁財天(芸術、弁舌、才知、財宝を司る女人神)は、第二京浜沿いの道を呑川を越えた当たりにある“厳定院”(ごんじょういん)に奉られている。日蓮宗慧光山厳定院の御本尊は大曼荼羅一塔両尊四士。正応二年(1289)の創立。開基厳定院日尊。開基檀越高梨正徳。開基檀越の一子で、六老僧大国阿闍梨日朗の弟子隆王麿、後の成就坊日尊が創建したことから、はじめ成就坊と呼ばれた。天文五年に厳完院と合併したと伝えられるが(古書には厳成院とある)、詳細は明らかでない。厳定院の初代は厳定院日尊上人(天文五年三月遷化)、中興二十一世禅定院日逞上人(享保三年遷化)。四十世久成院日芳上人は昭和六年(1937)に別院として常仙院隣に鬼子母神堂を開堂。本堂は昭和八年に再建。池上七福神の弁財天をまつるとされている。境内に入ると本堂の手前右側の小さな堂に、弁財天が奉られている。

福禄寿(福とと寿命を授ける老人神)は、池上本問寺の門前通りにある“本成院”に奉られている。喜昇山本成院は、弘安五年(1282)日蓮大聖人の直弟子・日向上人より庵室として開創された日蓮宗寺院である。当初は池上の北谷の地「とどめき」にあり、喜多院(北之坊)と称していた。その後、東谷にあった本成坊と合併した。慶長年間(1596-1615)には本門寺第十三世・日尊上人の隠棲地として整備されたが、宝永年間(1704-1711)の火災より焼失する。享保年間(1716-1736)に現在地へ移転・再建され、本成院と改称した。昭和五十六年(1981)には池上七福神の一翼を担い福禄寿を奉安していると紹介されている。

*禄:当座の褒美又は禄米等の報奨

樹老人(寿命と学を授ける南極老人神)の奉られているのは“妙見堂”である。妙見堂は本問寺の境内から行く道と、本問寺門前通りと呑川の交差する所を呑川の川岸に沿って左に曲がり、階段を登る道とがある様である。上の道は探すことができず、下に降りてしまったので、階段を登ることになったが、この階段を登る道は、膝を痛めている年寄りには酷な道であった。

妙見堂は木造銅板葺入母屋造で、文久三年(1863)建造されたと言われる。妙見尊像を祀っている。寛文四年七月(1664)、紀州徳川頼宣の夫人瑤林院が、夫頼宣の無事を祈願して寄進した像である。本門寺第十九代日豊によって開眼されたものであるとされる。

妙見堂の登り口近くにある照栄院は、妙見堂に縁のあるお寺で、奉安する開運除厄妙見大菩薩は、寛文四年(1664)に、肥後之守加藤清正公の息女、瑶林院殿が夫君の紀伊国太守亜相源頼宣卿の現世安穏後生善処のために、本門寺へお納めした室町時代の御尊像である。

元禄二年(1689)、本門寺第二十二世妙悟院日玄聖人の時代に、それまで鎌倉にあった「宝筺(ほうきょう)学室」をこの地に移し、「南谷檀林」という名の僧侶の学校を作った。その時一宇を創立してこの御尊像を安置、檀林の鎮守としたという。以来、全国各地から集まって南谷檀林で学ぶ僧侶が朝夕ご宝前に祈請を凝らし、帰依の近在近郷の善男善女も増加して、その霊応妙験は四隣に響き渡ったという。

明治初年に南谷檀林は廃檀となったが、妙見堂は今に残り、例年、冬至星祭りには、終日読経の妙音が長栄山にこだまし、連なる参詣者に大変賑わいます。 毎月15日がご縁日で、参詣者は、読経唱題に行を積み法話に耳を傾けますとの紹介されている。

最後に恵比寿(商業、漁業繁栄、家庭円満の福の神)ということであるが、照栄院の隣にある養源寺に奉られている。養源寺の縁起によると、養源寺は山号を長荘山と称し、慶安元年(1648)に創立、開山は本問寺十八世円是院日燿上人で松平右京太夫隆政の母堂養源院殿妙荘日長大姉殿が開基大檀越となっておられます。元荏原郡浜竹村にありました長勝山本成寺を松平家所有の現在地に移して養源寺と改称、本問寺歴代の退蔵所となりました。

享保四年-六年(1719)徳川吉宗公が鷹狩りの時、その御膳所に定められました。文化元年(1804)祝融に合い、次後、智海院日勝尼を初代として尼僧寺となりましたが、昭和二十年(1945年)にその制を廃し、現在に至っております。一塔両尊を安置し奉り厄除の現証灼かなる釈迦牟尼仏をお祀りしてあります。

恵比寿神は伊弉諾尊の第三子蛭子尊又は事代主神(ことしらぬしのかみ)ともいい、出雲国作りの神である大国主命の御子とも伝えられている。古くから航海の神、漁業商売の守り神として中世から広く信仰されている。神像は烏帽子を被り狩衣をつけ、右手に釣竿を持ち左手に鯛を持ち、岩の上に座った姿をしている。恵比寿顔といわれるほど愛敬のある尊顔で親しましている。

今回初めて御参りしたが、正直な所、もう少し七福神巡りを盛り上げる工夫をして戴いたら賑やかになるのではないかと思われる。最も本問寺のという大きな御寺か有り、七福神関連の御寺も、何れにしろ本問寺に何らかの関係がある御寺であるから、年末年始の行事で忙しく、正月7日迄は付き合っていられないということかもしれないが、せめて各堂宇はその堂宇の“縁起”位は御用意戴きたいものである。ただ廻って御朱印を集めるだけではなく、それぞれの御本尊や成り立ちを知りたいと思う人達もいる筈である。

今回この原稿を書くためにInternetを十全に活用したが、馬頭観音堂は全く分からなかった。同じようにHPを見ていて、妙見堂の建物の飾りや灯籠の写真を見たが、それほどこったものと思わなかった不明を恥じる様な写真だった。ここだけは再度行ってゆっくり建物や灯籠などの写真を撮ってみたいものだと思っている。

本日の総歩行数は14,789歩であった。

(2010.3.2.)

「感染症の反撃」

水曜日, 8月 4th, 2010

医薬品情報21

古泉秀夫

乳幼児期に受ける百日せきワクチンの効果が、小学校高学年になると、約半数で失われることが、厚生労働省研究班の調査で明らかになった。社会全体の感染者が減ったため、菌にさらされて免疫を維持する機会が乏しくなったのが原因と見られる。3年前から国内で患者が急増しており、研究班は「11?12歳で接種する2種混合ワクチン(破傷風・ジフテリア)に百日せきを加えるなど、追加接種の必要がある」と指摘。国の定期接種計画の見直しを、近く厚労省に提言する[読売新聞,第48203号,2010.5.3.]。

定期接種計画では、百日咳、破傷風、ジフテリアの3種混合ワクチンを、生後3ヵ月から7歳6ヵ月に計4回接種することになっている。これによって百日咳の免疫は一生維持すると考えられていた。しかし、2007年大学生を中心とした流行が発生した。これを受けて11歳から12歳の266人を対象に百日咳の抗体を調べたところ、46%は発症を妨げる水準を下回っていたとされる。抗体量減少者に、通常の2種混合ワクチンに百日咳を加えたワクチンを接種したところ、89%の者で発症を妨げるまでの抗体の上昇が認められたという。

従来の常識は、一度予防接種を受ければ、終生免疫が維持されるというものであった。しかし、実際には、予防接種を受けた後、世間に一定の感染者がおり、その感染者に接触する機会を得ることにより抗体の維持が図られていたということになるようである。予防接種の接種者が増加し、感染者数が減少したとき、感染者と接触する機会が極端に減り、免疫力が低下するとすれば、追加接種が必要になる細菌やvirusはどの程度存在するのか。もしそのような細菌やvirusが多ければ、予防接種の制度的な面を全面的に見直し、予防接種の時期や回数について、再検討することが必要になるのではないか。

その他、我国の感染症対策の中で、対応が急がれているのが「麻疹(はしか)」である。WHOは2005年までに全世界で麻疹による死亡率を低下させるために、ユニセフ(国連児童基金)、CDC(米国疾病管理センター)とともに、対策戦略計画を策定し、予防接種推進の活動を進めている。先進国のほとんどが根絶に近い状況にあるが、残念ながら我国は流行地域として区分されている。近年アメリカなどで、「麻疹」の原因が日本人の子供もだったという例があり、「麻疹輸出国」とする批判を受けている。

2006年(平成18年)4月1日から、麻疹・風疹の予防接種は、麻疹・風疹混合ワクチン(MRワクチン)による2回接種が実施される。第1期は、生後12月から生後24月に至るまでの間にある者(すなわち1歳児)。第2期は、5歳以上7歳未満の者であって、小学校就学の始期に達する日の1年前の日から当該始期に達する日の前日までの間にある者(すなわち小学校入学前年度の1年間)ということである。また、2008年(平成20年)4月1日からは、中学1年生・高校3年生に相当する年齢の者を対象として麻疹の予防接種が始められ、5年間実施され。

これは麻疹・風疹の流行が減少したことにより、ワクチン既接種者が麻疹・風疹患者に接触する機会が減少し、ワクチン接種後、長年月経過することによって、抗体価の低下が起こっている。ワクチン既接種者では、その後に対象ウイルスに接触することにより更に抗体価が上昇する(ブースター効果)とされている。しかし麻疹・風疹の流行が減少したため、booster効果が得られず、成人する頃には、感染防御に必要な十分な抗体価を有さない者が増加していると考えられるとする報告がみられる。

何れにしろ我国のワクチン行政は停滞している。制度の変革に速度感がない。ワクチンに関する行政の対応が遅いのは、一つには国内の報道関係者の責任もあると思っている。医薬品による重篤な副作用が報告される度に、無批判に大騒ぎをしている。特にワクチンの副反応については、その対象が幼小児ということから、無批判な非難合戦を繰り広げる。彼等は何かといえば、国民を代表して取材をする。国民が知りたがっているから取材をする。だから「責任者出てこい」的な対応を示すが、誰があんたを国民の代表に選んだのか、少なくとも筆者は選んだ覚えはない。

不幸にして重大な副反応に遭遇する子供がいるかもしれない。しかし一方で、大多数の子供の命が助けられるのなら、単に非難中傷をするのではなく、その副反応の原因を冷静に追求し、回避する手法を見つけ出すことが先決だろう。何か知らんが煽るだけ煽って、その後は全く知らん顔という報道関係者の手前勝手な対応は、医療に関する限り止めてもらいたいものである。結局は国民を不幸にする。

(2010.5.18.)

『世田谷ボロ市』

水曜日, 8月 4th, 2010

鬼城竜生

大学の同窓会の用件で、世田谷線の上町駅近くの銀行に行くことになった。偶然選んだ日が2009年12月16日(水曜日)ということで、何のことはない“東京都指定無形民俗文化財『世田谷ボロ市』”の当日ということであった。

銀行の用件が済んだ後、時間に余裕があったので、ボロ市を覗いてみることにした。このボロ市の原点は430年前の昔に開かれた楽市に遡るといわれている。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政(うじまさ)は、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に、天正六年(1578)に楽市を開いた。楽市というのは、市場税を一切免除し、自由な行商販売を認めるというもので、毎月一の日と六の日に月六回開いていたので六斎市ともいわれていた。当時世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていたという。この市により地方からの物資の交流は一層活発になり、江戸と南関東を結ぶ中間市場としてかなり反映したものと思われるとしている。

しかし、楽市の賑わいも徳川家康が江戸幕府を開くに及んで、急速に衰えていった。世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い、楽市はなくなりましたが、その伝統は根強く続けられ、近郷の農村の需要を満たす農具市・古着市・正月用品市として毎年12月15日に開かれる年の市として長く続けられてきた。明治になって新暦が使われる様になって正月15日にも開かれ、やがて十二月十五・十六日の両日、正月にも十五・十六日の両日開かれるようになり現在に至っているとされる。

ボロ市の名前の由来は、農家の作業着の繕いや、草鞋に編み込むボロ布が安く売られるようになり、何時とはなしにボロ市の名前が生まれたといわれている。ことに草鞋はボロと一緒に編み込むと何倍も丈夫になるというので、農民は争って買いました。農家にとって農閑期の夜鍋の草鞋造りは、大切な現金収入の副業だったのである。明治中頃までの市の最盛期には、ボロ専門の店が十数件も出て、午前中には殆ど売り切れになったといわれている。

昭和の初めには見世物小屋や芝居小屋まで掛かり、商品の売買と共に娯楽の場でもあったとされるが、大正・昭和の初期には900店から2,000店にもなったという出店も、最近では交通量の増大等により6-700店に減り、場所が狭められると共に、商品も農耕具、古着などボロ市的特徴のあるものは減り、玩具や装身具、植木類の出店が増えたとされている。

いわれてみれば、昭和35-6年頃に友人に誘われて一度来た記憶があるが、もっと歩いている人達も多く、鋸や鉋、鑿などの大工道具や、陶器類、中には買って帰っても何に使うのか分からない様な物まで並べられていた記憶があるが、活気の点ではその当時の方があった様な気がする。

前に来たときには全く気が付かなかったが、ボロ市本部の筋向かいに“代官屋敷”があることには気付かなかった。国指定重要文化財代官屋敷については、徳川三代将軍家光は、寛永十年(1633)、彦根藩主井伊直孝に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄い料として与えた。直孝は旧領主吉良氏の家臣で吉良氏が滅びた後、帰農していた大場市之丞を代官に用いた。以後大場家は、明治維新に至る迄、235年間代官を受け継ぎ、この屋敷を住居兼役所として使用していた。屋敷は茅葺きで、寄棟造、建築面積は約230m2 、玄関、役所、役所次の間、代官の居間、切腹の間、名主の詰所等があり、元文二年(1737)に建て直された古い建物であるといわれる。庭には罪人を取り調べたという白州跡がある。但しこの白州跡、全く手を入れていないとすると偉く狭く感じられるが、あれが本当の実寸の白州なのであろうか。

代官屋敷跡と隣接して区立郷土資料館があり、色々な資料を頒布していたが、世田谷区教育委員会発行の『世田谷区歴史・文化財マップ』を購入した。

ボロ市本部横の道の突き当たりに“天祖神社”があり、境内には植木屋が並び、色々の植木を売っていた。百両が欲しいと思ってみたが、どういうわけか背丈の伸びた鉢だけしか見えず、持って帰る自信がないので買うのは止めてしまった。更に境内の端では、ボロ市名物なる代官餅を売っていたが、行列が長すぎて買うことはしなかった。大体、食い物を買うのに並んでまで買おうという習慣はないし、行列のできる食い物屋の前は素通りすることにしている。

取り敢えず見るべき物は見て、まだ時間に余裕があったので、豪徳寺に寄ることにした。以前、紅葉の写真を撮りに来たとき、新しく出来た三重の塔の棟に猫が居るということであったが、その時には気が付かなかった。今回はまだ周りが明るいので、探し易いのではないかということで廻ることにした。

今回、欄間の猫は見つけられた。しかも猫だけではなく、鼠も一緒においでになった。ただ、小型カメラで望遠があまり利かず、しかも縄張りがされていて、三重の塔の敷地内に近付くのは拒否するという明確な意思が表明されていたので、遠くから写したのでこの写真が限界だということである。重いカメラが嫌で、兎に角小型カメラに買い換えたが、こういう時にはやゞ不便ということである。

吉良政忠創建という弘徳院が前身。世田谷か彦根藩領となると藩主井伊家の菩提寺となり、二代直孝の院号に因み改称した。仏殿と仏殿像は黄檗宗の様式を現しているとされる。豪徳寺内にある井伊家の墓所は、江戸藩邸で亡くなった藩主や家族の墓などが残る。同時の中興開基である二代藩主直孝や幕末の大老で、十三代藩主直弼の墓が含まれているとされるが、兎に角井伊家の墓所の広さには驚かされる。

帰りは世田谷城跡の横を通り、再度上町駅に戻り、京王線の下高井戸経由で家に帰った。総歩行数14,676歩。

(2010.2.28.)