鬼城竜生
ここ3年ばかり東海七福神ということで、品川神社を初めとして旧東海道筋を巡ってきた。一度は羽田の穴守稲荷を中心とする七稲荷+弁天神社巡りと東海七福神巡りを連続して御参りして歩いたが、偶には別なところをということで、色々検討した結果、今年は池上七福神を御参りすることに決めた。
1月3日(日曜日)取り敢えず出かけたが、何をぼけていたのか池上駅を降りる段になってカメラを鞄に入れてないことに気付いた。カメラがなければ、文書を書いても絵にならないということで、引き返すことも考えたが、携帯電話のカメラがあるのを思い出してそれを使ってみることにした。
池上駅を出てさてどっちに行くのかということになったが、暫く迷ってウロウロした結果、池上駅の先で電車の線路を渡り徳持小学校のバス停の前を過ぎ暫く行った右手に布袋尊(福徳、円満、忍耐を授ける弥勒菩薩の化身神)を祀る曹禅寺が見えた。
曹禅寺は曹洞宗大乗山の寺で、境内には昭和九年(1934年)の室戸台風によって流出した、『京都三条大橋の欄干』が巡り巡って境内に鎮座ましましているとなっているが、何でそんな物があるのか。古来よりこの地区に曹洞宗の寺院が無かったため村上大憲氏が曹洞宗の新寺建立を発願し、昭和七年(1932)矢口町に教会を開設。昭和十四年(1939)東京都が新寺建立を承認しなかったので、牛込白銀町にあった盛高院の寺号を移し、この地に堂宇を建立。後に寺号を改め、曹禅寺と称し現在に至る。また昭和五十六年(1981)に池上七福神に定められた布袋尊を奉っている。
本堂の中で御守りなどを頒布している方がいたので、御朱印は御願い出来ないんですかと伺ったところ書いていただけるとのことだったので、直接書いて戴いた。携帯電話のカメラで、何枚か写真を撮ったが、どうも上手く行かないので、明日もう一度カメラ持参で一巡りしようということで、帰ることにしたが、本日の総歩行数は、道に迷ってウロウロしたお陰で10,189歩の総歩行数を稼ぐことができた。
翌1月4日(月曜日)、本日は通常なら出勤日に当たるが、前から出勤しないことは伝えてあったので、再度、曹禅寺に廻った。昨日は布袋尊が本堂に鎮座していたが、今日は何時もの場所に戻されていた。何枚かの写真を撮って毘沙門天(威光と財宝授与の北方守護の武神)が奉られている“微妙庵”に廻った。曹禅寺を出て、真っ直ぐ池上駅方向に向かい、線路を渡って大通りを右、徳持神社の前を過ぎて直ぐの所に“微妙庵”が見えた。
微妙庵は、元禄二年(1689)に安詳寺二世教善院日悟法師が教善坊として建立したとされる。本尊の毘沙門天については、安永二年(1773)小原甚助(15才)が品川の海を舟で通った時、海中に見つけた光り輝く仏像があった。その仏像を持ち帰ったところ、主人の木原市之助(左官)が高熱を出した時に、法華経を唱えると、たちどころに熱が下がったのがこの海から出た仏像であったという。この仏像が毘沙門天。以来、海中出現毘沙門天と号し、霊験あらたかなる尊像として、徳持の北に当たる微妙庵の境内に毘沙門堂を建立した。その後若者の勧化、世情安泰のため、正月初寅等の法楽をもってこれを神恩とし、また多くの諸病が平癒したと伝えられるという口伝が紹介されている。その毘沙門天が、現在池上七福神の一つとして奉られている。ここの御朱印は、書く者がいませんのでということで、前もって書き入れた御朱印の半切が置いてあり、それを戴いて帰る様になっていた。
次が大黒天(米俵を踏まえる有福の台所守護神)をお奉りする“馬頭観音堂”である。微妙庵から第二京浜に出て、池上警察署の裏側の路地にある。狭い路地の階段を登ると、民家の庭みたいなところに御堂が建てられており、石碑もあったが、文字は読み切れなかった。また、縁起などについては一切見当たらなかったので、どういうことで七福神の一つ、大黒天が置かれているのかよく分からない。馬頭観音は、梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆)は、「馬の首」の意味だとされている。これはヒンドゥー教では、最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」などさまざまな呼称があるとされている。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩であるとされているが、それなりの由緒ある御堂だと考えられるが、詳細は不明である。
四番目の弁財天(芸術、弁舌、才知、財宝を司る女人神)は、第二京浜沿いの道を呑川を越えた当たりにある“厳定院”(ごんじょういん)に奉られている。日蓮宗慧光山厳定院の御本尊は大曼荼羅一塔両尊四士。正応二年(1289)の創立。開基厳定院日尊。開基檀越高梨正徳。開基檀越の一子で、六老僧大国阿闍梨日朗の弟子隆王麿、後の成就坊日尊が創建したことから、はじめ成就坊と呼ばれた。天文五年に厳完院と合併したと伝えられるが(古書には厳成院とある)、詳細は明らかでない。厳定院の初代は厳定院日尊上人(天文五年三月遷化)、中興二十一世禅定院日逞上人(享保三年遷化)。四十世久成院日芳上人は昭和六年(1937)に別院として常仙院隣に鬼子母神堂を開堂。本堂は昭和八年に再建。池上七福神の弁財天をまつるとされている。境内に入ると本堂の手前右側の小さな堂に、弁財天が奉られている。
福禄寿(福と禄と寿命を授ける老人神)は、池上本問寺の門前通りにある“本成院”に奉られている。喜昇山本成院は、弘安五年(1282)日蓮大聖人の直弟子・日向上人より庵室として開創された日蓮宗寺院である。当初は池上の北谷の地「とどめき」にあり、喜多院(北之坊)と称していた。その後、東谷にあった本成坊と合併した。慶長年間(1596-1615)には本門寺第十三世・日尊上人の隠棲地として整備されたが、宝永年間(1704-1711)の火災より焼失する。享保年間(1716-1736)に現在地へ移転・再建され、本成院と改称した。昭和五十六年(1981)には池上七福神の一翼を担い福禄寿を奉安していると紹介されている。
*禄:当座の褒美又は禄米等の報奨。
樹老人(寿命と学を授ける南極老人神)の奉られているのは“妙見堂”である。妙見堂は本問寺の境内から行く道と、本問寺門前通りと呑川の交差する所を呑川の川岸に沿って左に曲がり、階段を登る道とがある様である。上の道は探すことができず、下に降りてしまったので、階段を登ることになったが、この階段を登る道は、膝を痛めている年寄りには酷な道であった。
妙見堂は木造銅板葺入母屋造で、文久三年(1863)建造されたと言われる。妙見尊像を祀っている。寛文四年七月(1664)、紀州徳川頼宣の夫人瑤林院が、夫頼宣の無事を祈願して寄進した像である。本門寺第十九代日豊によって開眼されたものであるとされる。
妙見堂の登り口近くにある照栄院は、妙見堂に縁のあるお寺で、奉安する開運除厄妙見大菩薩は、寛文四年(1664)に、肥後之守加藤清正公の息女、瑶林院殿が夫君の紀伊国太守亜相源頼宣卿の現世安穏後生善処のために、本門寺へお納めした室町時代の御尊像である。
元禄二年(1689)、本門寺第二十二世妙悟院日玄聖人の時代に、それまで鎌倉にあった「宝筺(ほうきょう)学室」をこの地に移し、「南谷檀林」という名の僧侶の学校を作った。その時一宇を創立してこの御尊像を安置、檀林の鎮守としたという。以来、全国各地から集まって南谷檀林で学ぶ僧侶が朝夕ご宝前に祈請を凝らし、帰依の近在近郷の善男善女も増加して、その霊応妙験は四隣に響き渡ったという。
明治初年に南谷檀林は廃檀となったが、妙見堂は今に残り、例年、冬至星祭りには、終日読経の妙音が長栄山にこだまし、連なる参詣者に大変賑わいます。 毎月15日がご縁日で、参詣者は、読経唱題に行を積み法話に耳を傾けますとの紹介されている。
最後に恵比寿(商業、漁業繁栄、家庭円満の福の神)ということであるが、照栄院の隣にある養源寺に奉られている。養源寺の縁起によると、養源寺は山号を長荘山と称し、慶安元年(1648)に創立、開山は本問寺十八世円是院日燿上人で松平右京太夫隆政の母堂養源院殿妙荘日長大姉殿が開基大檀越となっておられます。元荏原郡浜竹村にありました長勝山本成寺を松平家所有の現在地に移して養源寺と改称、本問寺歴代の退蔵所となりました。
享保四年-六年(1719)徳川吉宗公が鷹狩りの時、その御膳所に定められました。文化元年(1804)祝融に合い、次後、智海院日勝尼を初代として尼僧寺となりましたが、昭和二十年(1945年)にその制を廃し、現在に至っております。一塔両尊を安置し奉り厄除の現証灼かなる釈迦牟尼仏をお祀りしてあります。
恵比寿神は伊弉諾尊の第三子蛭子尊又は事代主神(ことしらぬしのかみ)ともいい、出雲国作りの神である大国主命の御子とも伝えられている。古くから航海の神、漁業商売の守り神として中世から広く信仰されている。神像は烏帽子を被り狩衣をつけ、右手に釣竿を持ち左手に鯛を持ち、岩の上に座った姿をしている。恵比寿顔といわれるほど愛敬のある尊顔で親しましている。
今回初めて御参りしたが、正直な所、もう少し七福神巡りを盛り上げる工夫をして戴いたら賑やかになるのではないかと思われる。最も本問寺のという大きな御寺か有り、七福神関連の御寺も、何れにしろ本問寺に何らかの関係がある御寺であるから、年末年始の行事で忙しく、正月7日迄は付き合っていられないということかもしれないが、せめて各堂宇はその堂宇の“縁起”位は御用意戴きたいものである。ただ廻って御朱印を集めるだけではなく、それぞれの御本尊や成り立ちを知りたいと思う人達もいる筈である。
今回この原稿を書くためにInternetを十全に活用したが、馬頭観音堂は全く分からなかった。同じようにHPを見ていて、妙見堂の建物の飾りや灯籠の写真を見たが、それほどこったものと思わなかった不明を恥じる様な写真だった。ここだけは再度行ってゆっくり建物や灯籠などの写真を撮ってみたいものだと思っている。
本日の総歩行数は14,789歩であった。
(2010.3.2.)