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『知恩院から青不動明王』

金曜日, 7月 2nd, 2010

鬼城竜生

2009年10月11日(日曜日)午後から琵琶湖畔のホテルにいた。日本薬剤師会の学術大会が大津で開催されたのに併せ、大学の同窓会の近畿支部会を開催する都合があり出かけた。当初、日薬学術大会等というお祭騒ぎに参加しても仕方がないと言うことで、出席する予定は全くなかったが、同窓会の関係で8月以降立場が変わり、同窓会の支部会には出席せざるを得なくなった。

更に次の日、午後3時から全国薬科大学・薬学部同窓会連絡協議会が京都の私学会館で行われるということで、泊まりは京都にしたが、次の日、時間的に余裕があると言うことで、大谷祖廟に御参りに行くことにした。大谷祖廟には、かみさんの両親の御骨を預けてあるという縁で、例年だとかみさんと御参りに来ることになるはずであるが、今回は色々都合があって一人旅と言うことになった。

翌10月12日(月曜日)、京都駅の近くのホテルに宿泊していたので、京都駅内で珈琲を飲み、9時40分頃にはタクシーで大谷祖廟に向かった。祖廟の門は開いていたが、流石に早い時間と言うこともあってあまり人はいなかった。御花と線香を購入し、相変わらず左膝の調子の悪さは引きずっているので、エレベータで2階の礼拝場まで揚がった。やはりこの様な場所には、年寄りの参拝が多いということから言えば、エレベータの設置もやむを得まい。自分の悪い膝を考えれば、やはり階段を登るのはつらい。というよりは本当は下りの方が膝にはきつい様な気がするが、個人的な問題なのかどうか。

大谷祖廟の裏門を出て道路を横断すると円山公園に出る。円山公園を右側に抜けると直ぐそこに知恩院があることに驚いた。大谷祖廟には今まで何回か来ているが、こんな近くに知恩院があるとは知らなかった。

しかし、今回初めて知恩院を前にしてそのでかさに驚かされた。特に国宝とされる三門は、寺の案内用の冊子によれば、高さ24m、幅50m、木造の門としては世界最大級の門であると威張っているが、威張られても仕方がない。

知恩院は浄土宗の総本山である。浄土宗は1175年に法然上人によって開かれたとされる。法然上人は1133年に今の岡山県久米郡に生まれたとされる。『恨み、報復のない、全ての人が救われる仏の道を求めよ』という父の遺に従い、15歳の時に比叡山に登り、仏道修行に励んだという。そして阿弥陀仏の御本尊を見出したとされる。それは『南無阿弥陀仏』と唱えることによって全ての人が救われる“専修念仏”の道だったとされる。法然上人は1212年に80歳で亡くなられたという。

総本山知恩院の方丈庭園・友禅苑共通拝観券の裏面に平成23年(2011年)法然上人800年大遠忌(だいおんき)『ふりかえれば法然さま』なる惹句が印刷されていた。ただひたすら『南無阿弥陀仏』と唱えることで、全ての罰が払われるなら、庶民にとっても楽に入門することが出来た宗旨だったのではないかと思われる。知恩院は鎌倉時代に法然上人が住まわれ、念仏の教えを説かれたところとされている。徳川家康、秀忠、家光公によって現在の寺域が形づくられたという。全国に7,000の寺院と600万人の檀信徒を擁する浄土宗の総本山ですと解説されている。

御影堂(みえいどう)(国宝):法然上人の御影を祀る知恩院の本堂。寛永十六年(1639年)に徳川家光公によって建てられたという。堂内は4,000人が入れる程に広々としているとされる。大扉の釘隠の意匠なども趣向が凝らされているとされる。

午後の会議に参加するのに、左膝の痛みが酷くなると困ると思ったが、京都市指定名勝とされる“方丈庭園”と“友禅苑”を拝観することにした。方丈庭園は僧・玉淵坊によって作庭されたと伝えられているという。池泉回遊式の庭園で、背景に迫る東山とともに情緒溢れる庭園であると説明されている。その他、山亭庭園があり一番の高所にある庭園で、足の痛いのを我慢していっただけのことはあったが、古都の町並みを一望出来る庭園で、四季折々の望遠が楽しめるとしている。

友禅苑は宮崎友禅(友禅染の始祖)氏にゆかりの庭園で、東山の湧水を配した庭と、枯山水の庭で構成され、池の中央には観音像が屹立している。また、茶室も見られ、日本伝統の文化を伝える庭園になっている。

なお、知恩院の七不思議として、左甚五郎が魔除けに置いたと云われる忘れ傘なるものがあり、ある場所を示す印も付けられているが、ハト除けの金網が張られてから見づらくなったとタクシーの運転手が言っていたが、将に仰有る通り、何処にあるのか分からなかった。因みにこの傘は知恩院を火災から守るものであると信じられているの説明がされている。

まだ会議迄に十分な時間があったので、知恩院から暫く歩いたところにある青蓮院門跡を訪ねることにした。

青蓮院門跡という名前を聞いたとき、これはお寺なのか何なのかよく分からなかったが、今回、訊ねてみようと思ったのは、平安時代から引き継がれた秘佛青不動(国宝)を初めて公開するというポスターを見たからである。しかも今回の公開の後は、また秘佛として仕舞い込まれてしまうと言うことで、更に知恩院からもそれほど遠くなく、歩いても行ける距離と言うことなので、会議には十分間に合うと思ったからである。

青蓮院門跡で頂戴した由緒によると、青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都にある五つの門跡寺院を五ヵ室と呼んでいるその一つである。日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山を開くに当たっては山上に僧侶の住坊を幾つも造ったが、その一つの青蓮房が青蓮院の起源である。比叡山の東塔の南谷即ち現在大講堂の南の崖下に駐車場用に整地された所がその故地である。伝教大師から円仁(慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等延暦寺の法燈を継いだ著明な僧侶の住居となり、東塔の主流を成す坊であったと思われる。その第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりで、即ち行玄は門跡寺としての青蓮院の第一世、その皇子が第二世門主覚快法親王である。

山上の青蓮坊は、そのまま青蓮院の山上御本坊と称されて室町時代迄は確実に維持されて居り、門主が山上の勤めの時の住坊となっていた。行玄以後明治に至る迄、門主は皇族であるか五摂家の子弟に限られた。

当院は平安時代の末から鎌倉時代に及ぶ第三世門主慈圓(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)の時に最も栄えた。慈圓は天台座主を四度勤めてその宗風は日本仏教界を風靡し、皇室の尊信極めて篤く勅旨による修法を始め仏事に尽くした功績は数限りないが、また日本人初めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時代の国民的歌人として「拾玉集」を我々に示している。台密の巨匠である反面、浄土宗の祖法然・真宗の祖親鸞を庇護し、法然の寂後時を経てその門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈圓が法然に与えた院内の一房の跡で、之が知恩院の起源となった。親鸞は九歳の時に慈圓について当院で得度し、寂後院内の大谷(現在の知恩院の北門の傍らの崇泰院の地)に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起こりである。それ故本願寺の法主は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された等の解説がされている。

門跡については、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで、「門葉門流」の意であった。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになったとされる。

なお、天台宗は、平安時代の806年に、最澄によって比叡山(一乗止観院、後の延暦寺)に開かれた。天台宗の密教は台密といわれ、空海が開いた真言宗は東密といわれている。天台宗でも密教は主要な柱の一つである。選ばれたものに対してのみ秘儀が伝授されてきた密教において、宇宙の中で仏様がどのように並んでいるかを図式化したものを「曼荼羅」というが、その曼荼羅の中心に居られるのが大日如来である。大日如来は宇宙のすべてをつかさどる中心的な存在ということである。そして、その大日如来の化身が、不動明王であるとされる。

不動明王は、密教の仏であるため五色(青・黄・赤・白・黒)に配せられることがあり、赤不動、黄不動、目黒不動、目白不動等が例として上げられている。その中で青色は、方位に配せられれば中央、五大に配せられると大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)である五輪塔婆(ごりんとうば)の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心にあるとされる。

青蓮院門跡の青不動明王二童子像は、日本三大不動の一つとして極めて強いお力によって、平安時代から現在まで、篤く信仰されてきたとされる。青蓮院門跡の青不動明王の名に相応しい威厳と荘厳さを持ち、不動としての典型的な体裁を具備している。この青不動は、国宝中でも特に保存のために厳しい条件が付けられているため、それを祀る青不動明王大護摩堂の建立計画が進められているとされる。

青蓮院門跡の庭は、室町時代に相阿弥の作であると伝えられているという。その他、好文亭裏側の山裾斜面から一面に霧島躑躅を植え、その間に梔子(くちなし)・馬酔木等を点植して彩りを添えているが、小堀遠州の作と伝えられているとされる。

知恩院から青蓮院門跡までの間に、親鸞の墓があるという御寺と楠の古木が続く道が続いていたが、兎に角、京都という都の古さを教えられた。

青不動明王の画像の複製を頂戴し、会議の会場までタクシーを飛ばしたが、会議には十分間に合った。本日の総歩行数は15,045歩である。

(2010.1.25.)