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『彼岸花』

日曜日, 6月 6th, 2010

鬼城竜生

どういう訳か『彼岸花』に拘りがあり、今年も時期が来たのではないかと考え9月17日(2009年)(木曜日)に“浜離宮恩賜庭園”に出かけてみた。

“浜離宮恩賜庭園”は、潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園である。潮入の池とは、海水を導き、潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式だとされる。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池だったという。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、“浜離宮恩賜庭園”だけであるとされる。

浜離宮は、この潮入りの池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されると解説されている。

この地は、寛永年間(1624-1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応三年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。

以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。

お伝い橋:潮入の池の岸から小の字島と中島を結ぶ延長118mもある総檜造りの橋で、平成9年(1997年)5月架け替えたものという。その他、横堀を区切る様に架かる“海手お伝い橋”がある。此の橋は樋の口山、横堀水門、新樋の口山に繋がる橋である。

将軍お上がり場:将軍が船に乗降するところです。昭和24年(1949年)のキティ台風で階段の一部が崩れて海中に沈んだという。

中島の茶屋:宝永四年(1707年)に造られて以来、将軍をはじめ御台様、公家たちがここで庭園の眺望を堪能した休憩所。現在の建物は昭和58年(1983年)に復元したものとされる。ここでは来るたびに抹茶と和菓子のセットを頂くことにしている。別に茶道の道に明るいわけではないからただ飲んでいるだけであるが、疲れたときに甘いお菓子とそれなりに苦いお茶を飲むことは、それなりの満足を与えてくれる。

三百年の松:大手門から入って直ぐ左側に植えられている松。今から約300年前に六代将軍家宣が、庭園を大改修したとき、その偉業をたたえて植えられた松。太い枝が低く張り出し、今なお堂々たる姿を誇っている。

鴨 場:庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがあります。築造は、庚申堂が安永七年(1778年)、新銭座が寛政三年(1791年)という古いもの。鴨場の池には幾筋かの引堀を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引堀におびきよせ、機を見て土手の陰からアミですくいとるという猟を行っていましたと言うが、現在残っている施設を見る限り、一日にどの程度取れたのか、よほど手慣れた人間でも居なければ、上手く捕れなかったのではないかと思うが、どうなんだろう。それとも江戸時代の野生の鳥は、のんびりしていたと言うことなのか。

鴨 塚:鴨猟で犠牲になった鴨の霊を慰めるために、昭和10年(1935年)11月5日に建てられたものというが、何でそんな時期に鴨塚を造ったのか。造るならもっと早くに造っても良さそうな気がするが、それともこの時代まで鴨を捕っていたと言うことなのか。

芳梅亭の近くに“可美真手命(うましまでみこと)”なる気になる銅像があった。これは何であろうと検索をかけたところ、次の説明がされていた。

可美真手命(古事記に宇摩志麻遅命、先代旧事本紀に宇摩志麻治命)は、櫛玉饒速日命(くしだまにぎはやひのみこと)の子で、物部氏の祖です。この銅像は、東京都中央区の浜離宮恩賜庭園に立ちます。日清戦争のころ、明治天皇大婚二十五年祝典のために、陸軍省が懸賞募集して、ここに献納したものです。先代旧事本紀の説話を元にしたらしく、腕には神異の剣「フツノミタマ」が抱えられています。布都御魂は、物部氏の氏神である石上神宮の祭神で、出雲国譲神話で活躍する武甕槌神(たけみかづち)の帯剣といいます。神武東征のとき、熊野の高倉下命のもとに剣は天降り、磐余彦尊(いわれひこのみこと)に献上されました。明治の当時は軍神と見られるようになっていたようです。そのため、太平洋戦争の金属回収が行われていたときにも、供出を免れ、今日も現在の場所で見ることができます。制作者は佐野昭、鋳造担当者は鈴木長吉です。

第二次世界大戦中に供出を免れたはいいが、軍神などと言う評価がされていた銅像

だとすれば、戦後よくもまあGHQの逆鱗に触れ無かったものと感心する。にも関わらずそのまま残されているというのは、何らかの目眩ましをしたのかどうか。何れにしろ曰わく因縁のある古い銅像が残されていたと言うことは、喜ばしい限りといえる。

目的の彼岸花はあるにはあったが、些か速過ぎた様で、見事と言うにはほど遠い数しか咲いていなかった。ただキバナコスモスと秋桜の花は無闇に咲いていた。受付で貰った案内では、キバナコスモスは8月下旬から9月、彼岸花は9月下旬、秋桜は10月中旬ということになっているが、秋桜も盛りに咲いていた。何れにしろ人が計画した通りに、自然が付き合ってくれるとは限らない。丁度見頃になるまで、毎日通う根性がいるんだろうが、そこまでの暇はない。

本日の総歩行数12,037歩。

(2010.1.16.)