『紅葉の明治神宮御苑』
水曜日, 5月 19th, 2010鬼城竜生
11月24日(火曜日)紅葉の写真を撮りに明治神宮外苑・明治神宮御苑に出かけた。
明治神宮外苑の公孫樹はそれなりに黄葉していたが、昨年に比べると、若干来るのが速かったのではないかと思われた。そこそこ黄葉していたが、もう少し黄色が綺麗に出ていてもいいような気がしたが、まだ色むらが見えるような気がした。そこで取り敢えず何枚か写真を撮り、そのまま神宮御苑に行くことにした。
明治神宮御苑は、江戸初期以来加藤家、井伊家の下屋敷の庭園であったが、明治時代に宮内省所管となり、代々木御苑と称せられ、明治天皇、昭憲皇太后のお二方は度々お出ましになられた御縁の深い、由緒のある名苑であると紹介されている。
面積約83,000平方メートルあり、折れ曲がった小道が美しい熊笹の合間を縫い、武蔵野特有の雑木林の面影を留めている。苑内には隔雲亭(かくうんてい)、御釣台(おつりだい)、四阿(あずまや)、菖蒲田、清正井(きよまさのいど)、がある。躑躅、藤、山吹、皐月、花菖蒲、睡蓮、その他新緑、紅葉の風景、冬の雪景色等、四季を通じて真に趣き深く、南池の清らかな水は四辺の樹影を映し、水鳥浮かび鯉魚遊び樹間には多くの野鳥が見られ、都会の雑踏を離れた別天地である。
御苑の花の見頃の時期は4月上旬が『山吹・躑躅開花・落葉広葉樹の新芽見頃』。6月『花菖蒲、睡蓮の開花』。12月上旬『紅葉等の紅葉見頃』となっている。
この話からすると11月24日はやゞ速いと言うことになるのかもしれないが、自然を相手にする場合、日めくり通りには行かないのは何回も経験したところで、まあ、思いついたか吉日と考えるより仕方がない。速いか遅いかは別にして、それなりに紅葉の写真が撮れたと思っている。
ここには花菖蒲の時期にも写真を撮りに来たが、そこそこの写真は撮れたと思っている。ただ、花菖蒲と同時期に『睡蓮の開花』というのがあるが、蓮は池の奥に囲われていて、何時も持ち歩いている小型のカメラでは、引き寄せることが出来なかった記憶がある。大型のカメラにすればいいじゃないかという御意見もあるかもしれないが、持ち歩くのに重いのは嫌だということで、小型にした経緯があるので、遠いものが写せないというのは諦めざるを得ない。
北門から入って、左側に緩やかに降りると右手に隔雲亭が見える。別荘として昭憲皇太后が屡々見えられたいというが、道の突き当たりにある南池の御釣台についても、皇太后が魚釣りを楽しまれたという案内が見られたが、その当時どの様な魚が池に放されていたのか。大型の鯉なんていうのであれば、あっという間にハリスを切られてしまったのではないか。そんな釣りでは竿を出しても楽しくなかったのではないかと思うか、どうなんだろう。
先日TVを見ていて、明治神宮の森は、全国から持ってきた木を植えた人口の森だと言っていた様な気がしたが、それは事実だったようで、『明治神宮が出来る前は、この一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)といって、現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたというそうです。明治神宮境内の樹木を見ると椎や樫、楠が多く、伊勢の神宮や日光東照宮のような杉や檜が少ないことに気づきます。「永遠の森」を目指した壮大な計画のもと、大正4年から造営工事が始まりましたが、全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、日本だけではなく満州(中国東北部)、朝鮮からも届き、全部で約10万本の木が奉献され、11万人に及ぶ青年団の勤労奉仕により植林することによって、代々木の杜が誕生しました。』とする案内がされている。
清正井についても、「清正井」のあるこの地は、江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子・忠広が住んでいたことは間違いないが、清正本人が住んでいたかどうかは定かで無いとされている。清正の没年は『慶長16年6月24日(1611年8月2日)』とされており、当時ここに下屋敷を建てる土地を貰っていたのかどうか。その後加藤家は絶え、井伊家の下屋敷となったと言うが、「清正井」の曰わくは、清正が築城の名人だったという評価と、日本人の清正好きが重なって、そのような伝説が生まれたのではないかと考えられる。
紅葉の写真は、四阿の前後の道で紅葉の写真が撮れた。その他、南池の菖蒲田よりの位置で水辺に写る紅葉が取れたが、御釣台から菖蒲田迄の間の黄葉の写真が北門の案内所に貼ってあったが、その撮影日を確認すると12月の第一周当たりと言うことであった。少し速かったのかもしれないと思われたが、まあ、そこそこ写真は撮れたということで良いんではないでしょうか。
本日の総歩行数13,047歩。まあ、歩く目的は達成したと言うことで満足頂きましょう。
(2010.1.5.)