Archive for 5月 2nd, 2010

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『上野のお山』

日曜日, 5月 2nd, 2010

鬼城竜生

古い知り合いから上野公園東京都美術館で行われている『’09公募第33回 風子会』に出展しているのでというハガキを頂戴した。上野駅は仕事で使うことがあり、時には広小路口から出て、アメ横のとば口当たりで酒を呑むことはあるが、それ以外には余り降りたことがない。西郷さんの銅像を見たのさえ、何時だったのか思い出せない位い遠い昔の話で、丁度良い機会だと言うことで出かけることにした。会期は11月22日(日)から29日(日)ということになっていたが、雨の日に行く気にはならないので、天気予報で晴天と言っていた27日(金曜日)に行くことにした。

但し、膝痛で整形を受診しているので、治療が終わってからと言うことで、11時頃に電車に乗った。

上野駅の公園口で降りて、地図を見ながら噴水池を目指し、噴水池の縁を真っ直ぐ行った先に建物が見えたので、そこが目的地かと思ったが、東京国立博物館ということであった。今度は池の短径の縁を歩いた先に東京都美術館が見えた。裏口から階段を下りて会館内に入ると、驚くべきことになんと展覧会だらけ。しかも無料のものから始まり有料のものまで、更には企画展として『冷泉家の王朝の和歌守展』迄展示されていた。一体何処まで広いんだというのが最初の感想。更に“風子会”の展示場も広々と取ってあり、更にどの位の広さがあるのだろうというのが率直な思いだった。

絵の方は、全くの素人、好き嫌いでしか評価出来ない当方としては、全体的に色使いの薄い絵が多かったような気がしたが、素人?があれだけ描ければいいのではないかというのが感想。高校時代に、図画の時間に校外で写生をした時、完成した絵が、釣瓶の井戸に柳の木という、全くの想像画で、教師からは当然怒られておしまい。つまり全く絵を描くことのない当方としては、唯々羨ましい限りということであるが、中には部屋に飾りたいと思う絵が二、三枚はあった。

東京都美術館を出た後、昼飯代わりに“新鶯亭”で鶯団子なるものを食して上野東照宮に伺った。東照宮の御祭神は徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公とされている。1627年藤堂家の屋敷地であった上野に東照宮が造営された。1646年に正式に東照宮の宮号を授けられたとされている。

1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿であると紹介されている。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれているということである。当時は東叡山寛永寺の一部であったが、明治維新後の神仏分離令により、寛永寺から独立したという。その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物であると紹介されているが、現在は改修工事中である。

東照宮は、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りしている神社である。東照宮には、日光東照宮、久能山東照宮が有名であるが、全国各地に数多く存在するとされる。そのためあまたの東照宮と区別するため“上野東照宮”と呼ばれているが、正式名称は東照宮であると紹介されている。

狸の絵馬があったので、頂戴してきたが、『栄誉大権現』という名前が付けられており、伊達や酔狂の狸ではないようである。御参りされるならその脇の引き戸を開けてお入り下さいということであったので、御参りさせて頂いた。

「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ親しまれているということであるが、江戸時代に奉献された大奥で災いをもたらし、その後も安置された大名、旗本諸家を潰した悪業狸として有名でしたが、大正年間に東照宮に寄贈されてから災いがなくなったといわれていますとのことである。現在は、他を抜く狸という縁起から強運開祖の受験の神様として信仰されていますとされているが、この狸、最初から東照宮に来ることを狙って他では暴れていたのかもしれない。

東照宮の傍らに金属の塀で遮られているが、五重塔が見られる。五重塔の全体像を見るためには、動物園に入らなければならないということであったが、旧寛永寺五重塔ということで、東照宮から寛永寺までということであると、昔の寛永寺は驚異的な敷地を持っていたということになる。

続いて直ぐ隣にある上野大仏を拝観するため、階段を上がて小山の上に昇った。上野大仏は寛永8年(1631年)に越後村上藩主、堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立。像高約6mの釈迦如来坐像だった。 度重なる罹災により損壊し、昭和47年(1972年)に寛永寺に保管されていた顔面部をレリーフとして旧跡に安置したとする報告がされており、現在も顔面部のみがレリーフとして拝観出来るが、1972年に安置された物ということである。所在地は上野精養軒に隣接する大仏山と呼ばれる丘の上。薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設されている。

半顔の仏陀の姿小春かな

次ぎに花園稲荷神社の赤い鳥居が現れ、鳥居をくぐると御祭神として『うがのみたまのみこと(倉稲魂命)』又の御名を『とよたまひめのみこと(豊受姫命)』ともいう神様を祀る社が見える。須佐之男命の御子・伊勢の外宮の大神、『さきみたまやぶねのかみ(幸魂屋船神』といい、家屋の守り神であるとされる。

神社の縁起によると、御創祀の年月は不祥であると説明されているが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷(しのぶがおかいなり)が正しい名称であるが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていたという。承応三年(約340年程前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し、上野の山の守護神とした。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としてしられているということである。

明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衛等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新された(旧社殿は俗称お穴様の処です)。お穴様の左奥にありますお社は、古書に弥佐衛門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が住む処が無くなるのを憐み、一洞を造り社を祀ったと云われますとの説明がされている。

花園稲荷神社の道を抜けると“医薬祖神五條天神社”に行き着く。御祭神は大己貴命(おおむなじのみこと:大国主命)と少彦名命(すくなひこなのみこと)で、相殿として菅原道真公がお祀りされている。

第十二代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡を通られた時に、薬祖神(上記の二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝されて、約1890年前にこの地に両神をお祀りしたのだという。

尭恵法師の北国紀行によると『正月の末、武蔵野の境、忍ヶ岡を優遊しはべり鎮座の社五條天神と申しはべり、折ふし枯れたる茅原を焼きはべり、契りをきて誰かは春の初草に忍ヶ岡の露の下萌え』云々とあり、この正月は文明十八年(約500年前)ですので、相当の古社であることがわかります。相殿にお祀りしてある菅原道真公は、寛永十八年(約350年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮ともいわれたという。

社地は御創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、昭和3年9月に御創祀の地に最も近い現地(花園稲荷神社隣り)に御遷座になった。尚、日本橋本町にある薬事協会ビルの屋上には、薬祖神社として御分霊をお祀りし、毎年10月17日に薬業関係者により盛大なお祭りが行われていまるという。

次ぎに清水観音堂をお訊ねした。東叡山、寛永寺清水観音堂が正式な名称のようである。

寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建されたという。天海大僧正は寛永二年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開山した。それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが、清水観音堂です。清水観音堂は人形供養でも有名なようで、人形供養のポスターは、清水観音堂のホームページからの借景である。 本堂に安置されているのは『千手観世音菩薩』である。写真撮影禁止ということなので写真は無いが、ポスターで我慢して頂くということである。その他、不動明王等、小さな仏像が色々お祀りされていた。

次は東叡山寛永寺不忍池弁天堂に行った。何時もは対岸から眺めるだけで、池を回って行くのに躊躇いがあった。大体何があるんだということで、足が伸びなかったが、階段を下りて道路を横断すると不忍池に出る。不忍池は上野公園の隣にあり、かつての東京湾の名残であるとされている。江戸時代は池の周囲に水茶屋が並び町民の遊び場でした。不忍池弁天堂は寛永寺の境外祠堂で、寛永年間 (1624-44)に常陸下館城主水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったのに始まりとされる。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたものという。ご本尊(八臂大弁財天)は、長寿や福徳・芸能の守りとして信仰されている。池の四方からお参りできるように御堂は八角形をしている。

池には蓮の花の枯れた茎だけが林立しており、一瞬、偉く荒涼たる景色だなあと思ったが、良く見ると風情のある景色にも見えた。

蓮の骨弁天堂の池に立つ

何れにしろ古い知り合いの絵を見るために展覧会に上野の山に出かけたお陰で、色々神社やお寺を拝見することが出来たが、全て寛永寺の関係ということで、嘗ての寛永寺の寺領の広大さが解ろうというものである。今回は寛永寺に行けなかったが、近いうちに行ってみたいと思っている。

本日の総歩行数は、9,970歩。

(2009.12.19.)

「データ改竄」

日曜日, 5月 2nd, 2010

魍魎亭主人

田辺三菱製薬の子会社が、新薬の試験データを改ざんした問題を調査していた厚生労働省は13日、薬事法に基づき田辺三菱を今月17日から25日間の一部業務停止とする行政処分を発表した。大手製薬会社の業務停止は異例。データを改ざんした子会社は、薬害エイズ事件などの血液製剤を作った旧ミドリ十字が設立しているが、同省によると、旧ミドリ十字出身者ら約20人が組織的に不正に係わっていたという。

「バイファ」(北海道千歳市)は、1996年旧ミドリ十字が設立した会社で、今回4月14日から30日間の業務停止処分を受けた。発表によると同社は、1999年から2008年に掛けて、世界初の遺伝子組換え技術による人血清アルブミン製剤「メドウェイ注」の試験データなどを改竄、不純物の濃度を実際より低く見せかけたり、アレルギーの陽性反応を陰性データに差し替えたり、16件の不正を行っていた。不正には全社員の約1/4に当たる計約20人が係わっており、このうち同製剤の開発の責任者である幹部3人は旧ミドリ十字出身者だったという。

血液製剤に関して、旧ミドリ十字は、多くの技術情報を持っていたはずである。その技術情報を生かしたいということで、会社と人を引き受けたのだろうが、医薬品を作る技術者に必要な最低限の倫理観-dataの改竄はしないという-の欠如した遺伝子は、修復されることなく、そのまま継続されてしまったようである。新聞報道によれば、約20名からの社員がこの問題に関わっていたという。何とも大らかな話で、これだけの人員が参加した内容の秘密が保たれる訳がない。つまり彼等の中には、今回の行為を秘密にしておかなければならないという、認識は全くなかったということではないか。つまりdataの改竄が悪だという認識は全くなかったということができるのではないか。

元々原料は酵母である。当然、酵母を原因とするアレルギーやアナフィラキシー様症状が発現する。実際、臨床試験段階で、本剤を原因とするアレルギー症状がどの程度出たのかは不明であるが、少しぐらい数値を下げても本体の効果とは関係ない位のことでおやりになったのであろうと勝手に想像させて戴いているが、想像力の欠如としかいいようがない。dataの改竄が表沙汰になった場合、どの様な騒ぎになるのか。更に会社の前歴を考えれば、悪く悪く取られることは明らかである。どんなにいい薬を作ろうとも、使用する人の安全を忘れてしまっては意味がない。

そんなに急ぐことはなかったのではないか。治療に必要な血液製剤の入手は簡単に行かない。原料である血液はヒト以外から手に入れることはできない。更に血液から感染する感染症も重要な問題であり、血液の代用品を完成させることは、医療機関のみならず製薬企業に取っても、垂涎の的ということであろう。今回の人血清アルブミン製剤は、製品の添付文書によれば、「ヒト肝細胞のmRNAに由来するヒト血清アルブミンcDNAの発現により組換え体で産生される585個のアミノ酸残基(C2936H4590N786O889S41:分子量66,438.21)からなるたんぱく質であるとされている(本剤はピキア酵母により産生される)」ということであり、従来の人血液から抽出されたアルブミンから見ればウイルス等による感染の機会は少ないと考えられることと、生体原料ではないため、補給面での心配をしなくても済むということでいえば、市販されることでの利益は大きい。

折角期待される医薬品も、貧弱な発想と姑息な手段によって疵付けられる。今回の事例はそのいい例で、挙げ句の果てに旧悪まで引きずり出され、その体質は変わっていないと世の識者にやり玉に挙げられる。だが、data改竄が表沙汰になれば、今回のような騒動に発展するであろうことは、ほんの僅かな想像力を働かせれば、読み切れたはずである。如何に専門馬鹿とはいえ、世間知が全くないというのは困る。世間の常識、人間としての常識を忘れてしまっては作る薬は毒になるだけである。

1)田辺三菱を業務停止「子会社組織ぐるみ」「バイファ」旧ミドリ十字が設立:読売新聞,第48184号,2010.4.14.

2)メドウェイ注25%添付文書,2009.10.

(2010.4.17.)

「業務停止」

日曜日, 5月 2nd, 2010

魍魎亭主人

大洋薬品の高山工場は、2008年、受託製造していた抗生物質製剤「パンスポリン注(武田薬品)」に、ガラス片が混入したとして、委託会社との間で問題となった経緯がある。

今回、同社の後発品「ガスポートD錠20mg」(一般名:ファモチジン)について、製造過程で原料の秤量・混合時に間違いを犯し、しかも製造された製品は、既に商品として外に出てしまったという考えられない失敗を犯した。

今回の事例での最大の問題点は、原料の散薬を配合する際、主成分の秤取量を間違えた製造工程担当者が、打錠工程の担当者に、間違えて製造した2ロットについて、試料の抜き取りをしないように依頼したということである。つまり社員間で、間違えた場合の隠蔽工作が、日常的に行われていたのではないかとの疑念を持たざるを得ない。

配合量を間違えたと気が付いた段階で、原料を廃棄すべきであるのに、原料を廃棄することなく、製造を継続したということは大問題である。更に品質管理部門に提出する抜取り検査用の試料を、正常な物と擦り変え、提供するなどと言うことは、仕事に対する社会的責任を思えば、考えられない行為だといわなければならない。

大洋薬品は2009年6月-9月に出荷した約142万錠を自主回収したとしている。しかし、別な情報ではH2ブロッカー「ガスター」の後発医薬品(口腔内崩壊錠)である「ガスポートD錠20mg」で、昨年4月から9月までに全国約3000の医療機関などに出荷された2ロット分の約28,000箱(280万錠)について、自主回収の通知後、回収出来たのは16%で、その他は既に処方されていた。同社に対して健康被害などの連絡は届いていないということであるが、2ロットのうち1ロットは主成分が120%、もう1ロットは80%の含有量ということで、何れにしろ欠陥品である。

工場所在地である岐阜県は、3月26日、高山工場に対して、薬事法に基づく業務停止命令を出したと発表した。期間は同日から4月3日までの9日間。

ところで欠陥商品を服用させられた患者に対する対応はどうするのか。未回収の部分は既に処方せんに記載されて患者の手元に行き、服用されているはずである。あるいは既に服用が終わってしまっているかもしれない。しかし何れにしろ、この件で最大の迷惑を受けたのは、欠陥商品を服用させられた患者である。9日間の業務停止命令で、行政的な始末は付けたつもりかもしれないが、患者との関係で言えば未だけじめは付いていない。

ロット番号から納入先の病院、調剤薬局は分かるはずである。更に直近の病院の処方せんを見れば、患者の名前は分かる。御迷惑をお掛けしたぐらいの挨拶はあってしかるべきではないか。あるいは新聞・TV等でお詫びの挨拶があってもいいのではないか。

現在、後発品の販路が広がっている。大洋薬品高山工場でも、委託製造も含めて、数多くの医薬品を製造しているとされる。余裕のない仕事が職員の教育をおざなりにし、仕事に対する責任感の喪失に繋がったのではないか。しかもこの販路の拡大は、企業努力により、地道にジワジワと伸びた訳ではなく、行政の都合による後発医薬品の使用圧力によって拡大したものである。他力本願による業績の拡大、惰性でやる仕事にろくな仕事はない。

日本ジェネリック製薬協会(澤井弘行会長)は、3月29日から1年間、大洋薬品の会員資格停止処分を決定した。

1)RIS FAX,第5558号,2010.3.18.

2)RIS FAX,第5563号,2010.3.23.

3)日刊薬業,2010.3.30.

(2010.4.16.)

『目黄不動 最勝寺』

日曜日, 5月 2nd, 2010

鬼城竜生

正直に申し上げると、目青不動を最初に御参りに行き、目赤不動、目黄不動、目白不動から目黒不動と御参りに行き、一渡り御参りは済んだということにしたかったが、実はどういう訳か“目黄不動”は都内に二つあるということなのである。

最初は無視するつもりでいたが、二つあるうちの一つを無視することが良いのか悪いのか。気になると言うことから言えば、気になると言うことで、出かけることにした。二つ目の目黄不動は小松川の荒川の直ぐ側にあることになっており、天台宗の“目黄不動 最勝寺”というお寺である。

8月21日まだ暑い最中に出かけた。蒲田駅から京浜急行線に乗り入れている都営浅草線の浅草橋経由でJR総武本線の平井駅で下車。駅前の商店街を抜けて小松川小学校の前に。左側の道を取り、信号を通り抜けて最初の道を左に曲がり、三つのお寺の前を通り抜け、仁王門の見えるお寺が“目黄不動 最勝寺”である。

最勝寺は牛宝山(ごぼうざん)・明王院と号する。本尊は釈迦如来で、別に不動明王を安置し、通称目黄不動と言われている。最勝寺は貞観二年庚辰(860年)に、慈覚大師が東国巡錫のみぎり、隅田川畔(現・墨田区向島)の大樹のもとで、釈迦如来を観得して手ずから刻み本尊とし、一宇を草創したことが始まりである。同時に大師は、郷土の守護として『須佐之男命』を勧請して牛神社に祀り、大日如来を刻み、本地仏とした。

元慶元年(877年)に、慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、寺構の基礎を築き、最勝寺の開山となり、その時、当時を「牛宝山」と号した。その後、当寺は、本所田表町(現・墨田区東駒込)に移転した。江戸時代は、徳川家の崇拝が篤く、将軍が鷹狩りの際にしばしば立ち寄り「仮の御殿」が置かれた。明治の神仏分離に至るまで牛島神社の別当を勤めたが、その時神社の本地仏大日如来像は当寺に遷座した。

大正二年(1912年)に、駒形橋の架橋工事による区画整理で、現在地に移転した。[“目黄不動 最勝寺”折り紙より]。

本堂の前で頭を下げ、蓮の鉢を見ている時に、玄関から出てくる住職の姿が見えたので、御朱印を戴けますかと伺ったところ、どうぞということで、戻ってくれた。書いて戴くのを待っている間に、「上がって御不動さんを御参りしてください」と仰有って戴いたので、上がらせて戴いたが、不動堂の一種独特の雰囲気に圧倒され、写真を撮らせて戴きたいという御願いを忘れ、書いて戴いた御朱印を頂戴し、お庭の写真を撮らせてくださいと言うことで、何枚かの写真を撮らせて戴いた。所でここの仁王さんは余所の仁王と違い、丸顔という珍しいお顔をしていた。

ところで“目黄不動”と言っても眼が黄色いわけではない。眼が黄色ければ黄疸と言うことになるが、そんなことはない。

最勝寺不動堂に安置される不動明王は、天平年間(729-766年)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫のおり、隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿を刻んで本尊とし一宇の堂舎を建立されたのに始まる。その後、当寺の末寺東栄寺本尊として祀られ、徳川氏の入府により将軍家の崇拝するところとなった。殊に三代将軍家光公の崇拝は厚く、江戸の町を守らしめるため、仏教の大意に基づいて江戸府内に五色不動(目青・目黄・目赤・目白・目黒)を設けた。五色不動は方位によって配置して方難除けとし、また江戸に入る主要な街道筋を守らしめ、江戸の町を守護せしめた。

当寺の不動明王は、この時より目黄不動と称され、広く信仰されたとしている。

明治の神仏分離により、東栄寺は廃寺となり、目黄不動明王は本寺最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号して今日に至ると紹介されている。

此の五色不動の配置については、必ずしも上記の説が正しいとは限らないとする説もあるが、江戸の町の守護と言うことからすると、簡単に引っ越しをしているお寺もあり、どっちともいえないが、目黄不動明王だけが二つある理由も良く解らないようである。

*別当:別当とは、「別に当たる」の意であり、本来は「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」ということであり、「寺務を司る官職」である。別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。

本日の総歩行数は8,007歩。歩く目標である一万歩を越えることは出来なかったが、本日の目標はここだけということで、他に行く予定はなかったので、歩行数が少ないの諦めるより仕方がない。

(2009.10.27.)